グレイスに見送られ、ケイと共に双角獣の元へ!
風呂を上がると、グレイスとケイの三人で夕食をとった。浴室でのことがあったばかりだから、堂々と二人の顔を見ることができなかった。それは彼女らも同じようだった。目が合いそうになると、俺達はぎこちなく視線を逸し、ほんの少し顔を染めあった。互いに仕草もぎこちなければ会話もぎこちなくなる。ぎこちない会話は、人気の無いジャンプ漫画より長続きしない。晩餐はほとんど会話もないまま静かに終わった。
腹が膨れるともう眠たかった。歯を磨き、トイレを済ますと、俺はベッドに直行した。ベッドに横になるなり、『ひょっとしたら、二人から夜這いを仕掛けられるのではないか?』そんなことが頭をよぎった。積極的な彼女らのことだからやりかねない。そうなったら困るとは思うものの、ちょっとだけそれを期待してしまう俺もいる。だって男の子だからしょうがない。
「フッ、モテる男は辛いぜ」
なんて独り言を言ってしまうほど、ちょっぴり俺はのぼせている。
俺は夜這いがあることをちょっぴり期待しつつ、それでいてどうやって断ろうかと考えながら眠りについた。
ノックの音がした。音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。それも長く、深く眠っていたようだ。起きるのに時間がかかった。ベッドの上で起き上がろうとしている間に何度もノックの音がしていた。
起床直後、俺はハッとなった。眠る前に考えていたことを思い出した。そう、夜這いだ。これは夜這いなのではないか? 誰かが夜這いに来たのではないか?
部屋はまだ暗い。かと言って暗過ぎもしない。夜這いにはいい塩梅じゃないだろうか?
胸がドキドキしていた。起き抜けに胸がドキドキするのは身体に悪そうだが、そんなことを案じている余裕なんてない。夜這いを上手く断る方法も考えられない。落ち着くために素数を数える余裕すらない。
またノックの音がした。とにかく、ドアを開けなければならない。せっかく勇気を出して来てくれているのに、焦らし過ぎちゃ可哀想だ。
俺は緊張を顔に出さないように努めながら、そっとドアを開けた。
ケイだった。薄暗い中、ケイの目だけが輝いて見えた。ケイがそっと口を開いた。一体どんな言葉が聞かされるのだろうか!? 期待と興奮が俺の身体を駆け巡った。
「夜が明ける。山に行く準備をして。準備が出来たら、表玄関まで来て」
それだけ言うと、ケイは部屋を去った。
夜這いなんてなかった。何が夜這いに来たのかも? だ。馬鹿なんじゃなかろうか? いや、間違いなく俺は馬鹿だ。勘違い馬鹿野郎という、とても恥ずかしいタイプの馬鹿だ。自分で自分が恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。丸一日くらいは入っていたい。
終日たっぷり落ち込んでいたいが、そうもいかない。俺は気を取り直して山へ行く準備をした。準備と言っても、着替えをして、顔を洗って、トイレを済ませて、逞しいと褒められた左腕は、どんなに褒められようが、俺としては気味が悪い見た目をしているので、ケイに繕ってもらった布でグルグル巻きにして、錆びた短剣を腰に差せば、後は角を持っていくだけだ。
表玄関を出ると、荷馬車が用意されていて、ケイが御者席に座っていた。見送りにグレイスが来てくれていた。
依然暗いが空は白み始め、目指す山向こうの稜線が明るく染まり始めている。夜明けは近い。
「コーイチ様、昨日はまことにすみませんでした」
グレイスが恭しく頭を下げた。
「お詫びと言っては何なのですが、これを受け取っては頂けませんでしょうか?」
そう言って、グレイスは黒いグローブを俺に差し出した。多分革製の漆黒のグローブはとっても袖が長い。グローブといえば普通は左右でワンセットのはずだけど、左手用の一本しかなかった。
「昨日、ケイに聞きました。コーイチ様がその左腕のことを気にされていたとは知らず、軽い気持ちで逞しいなどと言われて、さぞご不快だったことでしょう。謹んで謝罪申し上げます」
「ああ、そのことですか。いえいえ、全然気にしていませんから。謝らないで下さい。むしろ逞しいなんて思ってもらえるほうが気が楽ですから」
俺はグレイスからグローブを受け取った。
「これは左腕を隠すための手袋、というわけですね?」
「はい。そのように布を巻いたままではさぞご不便かと思い、僭越ながら作らせていただきました。時間がなかったので、左手用しか作れませんでしたが……」
「これ、グレイスさんが作ったんですか!?」
「はい、お気に召すかどうか……」
正直言って、既にめちゃくちゃ気に入っていた。漆黒の革グローブ、しかも左手用だけなんて、男の厨二心をくすぐるじゃないか。素人目ながらプロが作ったとしか思えない出来栄えだし、これに文句をつけるのは罰当たりだ。
「早速、つけていいですか?」
「はい、どうぞ」
グレイスがニッコリ笑った。
俺は左腕の布を解いて、解いた布は一旦自分の右肩に掛けておいた。ただの端切れ継ぎ接ぎだけど、これもケイが縫ってくれたものだから粗末には扱えない。
早速グローブを嵌めた。手はサイズぴったりに収まったが、袖はぶかぶかだった。だが、それは問題じゃない。袖には三本のベルト付いていて、それらを締め上げるとぴったりとフィットする。このおかげで着けやすく脱ぎやすい。よく考えられている。袖口はフレア状になっていて、肘関節部を広く隠しつつ、かつ関節の動きを阻害しない。デザインと良い、機能性と良い、何てよく出来たグローブなんだろうか! グレイス恐るべし!
美人で家柄も良く、裁縫もできるなんて非の打ち所がない! こんな素晴らしい娘に好かれているなんて、ちょっと信じられない。こんな娘に好かれるような要素が俺にあっただろうか? 今更ながら自分の境遇が信じられなくなり、俺は右手で頬をつねった。
「いてっ」
ばっちり痛かった。
「あ、あのどうしたのですか?」
俺の奇行に、グレイスが心配そうに言った。
「いえ、お気になさらずに。それはともかく、こんな素晴らしい手袋を作って下さってありがとうございました! 見た目もつけ心地も最高です!」
「喜んでもらえて光栄です。それではコーイチ様――」
グレイスが俺の右手を取った。両手で俺の右手を包み込み、強く握った。彼女の手は少し冷たく、マシュマロのように柔らかかった。
「お気をつけて。弟のこと、よろしくお願いします。ですが、ご無理はなさらないで下さい」
哀願するような目は潤み、せつなそうな表情だった。思わず、抱きしめたい衝動に駆られた。それだけ今のグレイスはとても可愛く、儚げで弱々しかった。守ってあげたい、そんな気にさせられる。しかし抱きしめはしなかった。ケイも見ているし、俺は別に、グレイスを愛しているわけでもないんだから。
「大丈夫ですよ。角を返すだけですから、多分、危険なんてないです。安心して待ってて下さい。それじゃ、行ってきます」
俺はケイの横に乗り込んだ。ケイが馬に鞭を打った。ゆるゆると馬車が進みだした。
グレイスが馬車を見送ってくれていた。なんともいじらしい姿だ。そんな女から俺は目が離せず、俺もずっと彼女を見ていた。互いに、見えなくなるまでずっと、俺とグレイスは見つめ合っていた。
邸を出て、グレイスが見えなくなった。俺は前に向き直った。
「手袋、良かったね」
隣のケイが言った。口ぶりが、若干不機嫌そうに聞こえた。ケイの顔を見ると、やはり何やら怒っている様子だ。クールな彼女に珍しく、ふくれっ面している。
「どうしたんだ?」
ケイの怒りに心当たりがないので、聞いてみないことには始まらない。
「どうしたって、何が?」
「何がって、怒ってるからさ」
「別に怒ってない」
「怒ってるように見えるけど?」
「怒ってない。けど、主に手を握られて鼻の下を伸ばすのはいただけない、とは思う」
「え、そんな顔してた!?」
確かにそれはいただけない。格好悪いったらありゃしない。でも、それで何故ケイが怒るのだろう? 呆れられるならわかるけど、怒られる筋合いはない。怒るなんてそれじゃまるで……、ああ、なるほど、そういうことか! ケイが怒る理由が、妻以外の女性を見て鼻の下を伸ばす『ひろし』に対する『みさえ』と同じ理由なら理解できる。つまり『嫉妬』だ。『ジェラシー』だ。
「次からは気をつけるよ。特に、君の前ではね」
「それ、どういう意味?」
「君もグレイスさんに負けず劣らず魅力的だからね。ついつい鼻の下が伸びちゃうかもしれないからね」
ケイが顔を赤くした。普段はクールな彼女も、こういう話だと感情が顔に出るようだ。
「見え透いたお世辞」
「いや、本心だよ」
「それも見え透いている」
ケイはもう怒っていなかった。頬を赤く染め、薄っすらとした笑みが浮かんでいた。明けゆく薄闇に、ケイの微笑がよく映えた。白黒映画のヒロインのように美しかった。
「ところが本心なんだよ」
「じゃあ、そういうことにしとく」
いつものケイに戻った。会話がプッツリ途切れてしまった。でも、それも悪くなかった。たとえ会話がなくたって、隣り合って馬車に揺られているだけでも十分楽しかった。ケイもきっと俺と同じ気持ちだろう。ケイの無表情に見える横顔は、どことなく楽しげだ。言葉はなくても心は繋がっていた。共に戦った仲間同士の不思議な空気感ってヤツなのかもしれない。
薄闇の中、俺達を乗せた馬車はゆっくり山へと進む。
夜明けは近い。俺は眠気に目をこすった




