癒やしの一角獣。
うおー
みんなよんでくれー
うおあー
気がつけば夜が明けていた。
夜が明けても視界はなかった。ミルクのように濃い霧が立ち込め、辛うじて頭上にある太陽の形がわかるぐらいで、周囲には何があるのかさっぱりわからない。
俺は満身創痍だった。身体が全く言うことを聞かず、起き上がるどころか、指先一つ動かすこともできない。全身が酷く痛み、左腕に至っては、二の腕から先の感覚すら無い。
ほとんどの感覚が希薄だったが、耳だけは正常だった。すぐ近くで水の流れる音が聞こえる。多分沢の流れだ。ここがケイの言っていた崖下であることは間違いない。
こりゃ死ぬな……。
独り言を言ったつもりだったが、唇が痙攣するように少し動いただけで、声は出なかった。
いよいよ末期だ。死が近づいているのがよくわかる。今まで一度も死んだことがないのに、何となく自分がもう少し経てば死ぬであろうことがわかってしまう。全く不思議なことだ。
さらに不思議なことに、死ぬことにそれほど恐怖感がなかった。
諦めの境地というやつだろうか? 今の俺は、目前に迫った死の運命を従容と受け止められている。ここまでボロボロにされたら、もう諦めるしかない、それを本能が悟っているのかも知れない。
俺は目を瞑った。やれることはもう何もない。後はただ呼吸が止まるのを待つのみだ。
俺が目を閉じ、最後の眠りが訪れるのをただ静かに待っていたとき、どこか遠くから何かが聞こえてきた。
音にはゆったりとした一定のリズムがあった。初め、人の足音かと思ったがそれは違った。近づくにつれ、音がはっきりとしてきた。それは馬蹄の音だった。ゆっくりと、しずしずと歩くようなそれはとても優雅な響きだった。
ヤツが俺にトドメを刺しに来たのだろうか?
そんな恐ろしい想像をしても、今では落ち着いていられる。というより、恐慌状態に陥る気力も体力も無いのだろう。
馬蹄の音が俺のすぐ傍までやってきて、そこで止んだ。
自分を殺すヤツの姿を、せめて最期にひと目見てやろうと、俺は最後の力を振り絞って頭をヤツの方へと向けた。
が、努力は無駄に終わった。濃霧はすぐ傍にいるであろうヤツの姿を、完全に遮っていた。
直後に、眼の前でぼうっと淡い輝きが現れた。それは炎の揺らめくような輝きとは全然違った。例えるならそれは蛍のような、もしくはヤコウタケの輝きか。
霧のスクリーンにヤツの輪郭が浮かび上がった。
淡く輝くシルエットは馬のようだった。思った通り、ヤツだ。
ヤツの角の辺りから淡い光が帯のように伸び、ゆっくりと俺に向かって伸びてきた。トドメの一撃にしてはあまりにも弱々しく、迫力に欠ける。
俺は目を瞑った。それが弱々しかろうが迫力に欠けようが、それがトドメの一撃であることを俺は疑わなかった。そして、トドメの一撃が己が身を貫くのを己が目で確かめようという勇気は、さすがに今の俺にはなかった。
次の瞬間、俺の身体を温かさが包んだ。それは高級毛布のような心地よさで、それでいて、毛布にある重さは微塵も感じられない。
温かいだけじゃなかった。全身にあった苦痛が和らいでゆく。心が落ち着いてゆく。
そっと目を開けてみると、ヤツから伸びた淡い光が、俺の身体を寝袋のように包み込んでいた。顔以外すっぽりと。
これは癒やしの魔法か……? 多分それで間違いない。痛みが消え、傷が癒えてゆくのが感覚としてわかる。
何故、ヤツは俺を助けようとしているのか? さっきまで殺意を露骨にむき出し、襲いかかってきたのに、どういう心境の変化だろうか。
何か裏があるんじゃないか? そうは思うが、今はこの恩恵に預かるほかはない。何にせよ、生殺与奪の権はヤツが握っている。俺にできることは、ただ安静にして横たわることのみだ。
しかしこれ、滅茶苦茶気持ちいいなぁ。まるで温泉に入っているような感じ。極楽極楽。あんまり気持ちいいんで眠くなってきてしまった。温泉に浸かりながら眠ってしまうと大惨事だが、幸いなことに、これにはその心配はない。眠ってしまっても問題はないだろう。そういえば昨夜はあんまり寝てないし、ここらで一眠りしてもいいだろう。
そう決めると、急速に意識が遠ざかる。深い奈落に沈降してゆくように、俺は微睡みの中へと落ちようとしていた。
その時だった。
「コーイチ、コーイチ、聞こえますか?」
突然の声に俺は驚き目を開けた。辺りを見回しても、深い霧ばかりで人の影も形もどこにもない。あるのは霧に映るヤツの輪郭のみだ。
声は女性のものだった。一瞬、俺のピンチに女神様が助けに来てくれたのかと思ったが、声は女神様のそれとは違った。それは若すぎず、それほど老けてもいないような、落ち着きと艶のある淑女、といった感じの声だった。
俺は声を出そうとしたが、声は出なかった。口がパクパクと動いただけだった。
もう一度声を出そうとして、やめた。冷静に考えると、こんな山の中に、それもこんな朝早くから女性がいるとは思えない。きっとさっきのは幻聴だ。末期の幻聴に違いない。身体は癒えてきているはずだが、こんな幻聴を聴くということは、まだまだ油断ならない状況なのかもしれない。
こんな時は寝てしまうに限る。
そう思い、寝入ろうとしたとき、
「コーイチ、まだ寝てはいけません。私の話を聞いてください」
まただ。また女性の声が聞こえた。今度はもっとはっきりと聞こえた。はっきりと聞こえてわかった。これはやっぱり幻聴だ。声は耳には聞こえず、頭の中に響いていた。
俺はビビった。幻聴を聞くなんて初めてだし、これがまた薄気味悪い。頭の中で他人の声が聞こえるなんて、気持ちのいいもんじゃない。
「コーイチ、聞こえているなら返事をしてください」
まただ。また聞こえた。
ちょっぴり怖くなってきた。
これが家のベッドなら、頭から毛布を被り、戦々恐々と慄きつつ、現実逃避的に寝入るのだが、ここには毛布もないし、身体はピクリとも動かない。
幻聴から逃れるために今の俺ができることは、寝ることだけなのだが、かといって頭に声が響いているようでは、とても眠れたもんじゃない。
「コーイチ、起きているのでしょう? 返事をしてください」
返事をしろと言われても、口が動かないのだから返事のしようもない。そもそも幻聴に返事をしていいのだろうか? より頭に異常をきたしたり、より幻聴が酷くなったりしないだろうか?
「コーイチ、返事をしてください。聞こえているのでしょう?」
返事をしなくても、幻聴が酷くなりつつあった。
俺はこの気味の悪い幻聴に、かなり辟易し、かなり苛ついてきた。いい加減疲れ過ぎているし、幻聴さんには悪いが、ゆっくりと寝かせて欲しい。
「はいはい、何でしょうか? こっちは疲れてるんで、用件は手短にお願いしますね!」
と、俺は返事をしようとしたのだが、やはり声は出なかった。頭の中でその文言を思い浮かべただけだった。声が出せるほど回復するには、今しばらく時間と睡眠がいるだろう。
「やっと聞こえましたか。初めまして、コーイチ。私は『スタリオン』と申します」
なんと、幻聴が返事をしてきた。
しかも幻聴には人格があり、名前があり、意思があるらしい。
どうもただの幻聴じゃなさそうだ。というか、幻聴なのか? 幻聴というよりこれは、誰かが俺の頭の中に直接話しかけてきているような、そんな感覚を受ける。
辺りを見回す。霧はまだ濃く、視界は悪い。近くにそれらしい人影はない。近くにあるのはヤツの、馬に見える輪郭だけだ。
ヤツ……、まさか、コレなのか? この影が、ヤツが、俺に話しかけてきているのか? それも頭の中に直接? ヤツはそんなことができたのか?
もしやと思い、俺はヤツに頭の中で話しかけてみることにした。
「まさか、これは幻聴じゃないのか? 俺の頭に話しかけてきてるのは、そこにいるあんたなのか? もしそうなら、頷いてみてくれ」
俺は恐る恐る問いかけてみた、すると、ヤツの頭がコクリと上下した。それはまさしく頷いているように見えた。
「う、嘘だろ、双角獣って喋れたのか……」
「いいえ、違います」
「あ、いや、確かに、言葉を音として表さなくて、頭に直接話しかけるのは、喋れるとは言わないかもしれないけど……」
「いえ、そうではなくて、私は双角獣ではありません。あなた方人間は、私たちのことを一角獣と呼びます」
「一角獣、あんたが……」
まさかこのタイミングで一角獣と出くわすとは思わなかった。
「どーりでおかしいと思った。俺を殺そうとしたヤツが、俺を助けるはずないもんな。というか、助けてくれてるんだよな? 魔法的な何かで」
「ええ、治癒の魔法です」
「それはありがたい。でも、なんで俺を助けてくれるんだ?」
「困ってる人を助けるのに理由が要りますか?」
なんて優しい生き物なんだろう。いきなり襲いかかってきた双角獣とは大違いだ。
「なるほど。いいヤツ……、なんですね……」
助けてくれているのだから必然、敬語になる。
だが、こんないいヤツの正体が一角獣と聞いては、一つ確かめなければならないことがある。
「ええと、スタリオンさん……、でしたっけ?」
「はい」
「俺、実はある人に頼まれて――」
「コーイチがここへ来た理由はわかっています。コーイチは一角獣を殺しに来たのでしょう?」
「えっ!? なんでそれを……」
「コーイチの心、記憶を読ませていただきました。コーイチ、あなたはもう一角獣を探す必要も殺す必要もありません。何故なら呪いをかけたのは一角獣ではなく双角獣だからです。さきほど、あなたが戦っていた双角獣です」
「双角獣が呪いをかけた? 聞いた話と違うんですが」
「私の言葉を信じてください、というしかありません。証拠なんてどこにもありませんし。しかし、私はその時、その場にいて、その瞬間を目撃したのです」
「さっき俺が戦っていたときも双角獣のすぐ近くにいて、双角獣が呪いをかけたときも、近くにいたんですか?」
「ええ、かの双角獣は私の伴侶なのです。彼の名は『マスタング』。私の愛しい夫です」
「ご、ご結婚されてたんですね……」
「人間社会にある制度のようなものではありません。ただ永遠の愛を誓い、愛の契を交わすだけのことです。そうすると、離れていても、互いの居場所、精神状態、体調などがわかるようになるのです」
「それは凄い……、いや、そんなことより、呪いをかけたのがあなたの夫なら、俺はあなたの夫を倒さないといけない、ということに……」
命の恩人の夫を殺さなければならないなんて、こんなやりにくい話はない。
「その必要もありません。もっと簡単な方法があります」
「簡単な方法?」
「夫が人間を呪い、あのように荒れ狂う原因は、人間に角を奪われたせいなのです。それをコーイチに取り戻してさえいただければ、夫は正気を取り戻し、呪いも解かれるでしょう」
「……確かに、双角獣を殺すよりかは簡単かもしれませんね。でも、それって俺にできますかね? 双角獣の角を折って奪っていくほどの人なんでしょう? 俺の手に負える相手とは思えないんですが」
「角を取り戻すと言っても、何も力づくで奪い返す必要はありません。人間同士なのですから、話し合いでどうにかするという手もありしょう。それに、その人間もまた、角を返すことで救われるのです。その人間は今、呪いによって死の淵を彷徨っているのですから」
「なるほど、そうだったのか。それなら、確かに話は簡単そうだ。で、双角獣の角を奪った人間はなんて名前で、どこにいるんです?」
「あなたに一角獣狩りを命じた者の弟です」
「えっ、アコード? あいつは双角獣の角を折って持ち去ろうとして、呪いをかけられたんですか?」
「そういうことです。普段は温厚な夫なのですが、自らを仇なす者をただで済ませておけない性分なのです」
なんだ、元はと言えばアコードの自業自得じゃないか。そんな馬鹿のせいで左腕を失ったかと思うと怒りを通り越して呆れてしまう。
「コーイチ、夫の角を取り戻してくれますか?」
「命の恩人の頼みとあらば、できるだけのことはさせていただきますよ。あっちの頼みとも一致していますしね。それに、あなたの夫とはもう二度と戦いたくない」
「感謝します、コーイチ」
「礼を言うのは俺の方です。助けてくださり、ありがとうございました」
「いいえ、私は夫の暴乱の後始末をしているだけです、礼を言われるようなことはしていません。むしろ、あなたの左腕について、私は謝らなければなりません」
一角獣、スタリオンの声が、急速に沈んでいった。重苦しい悲しみに満ちていた。
俺は察した。左腕の感覚がないのは、もはや左腕は存在していないからなのだと。
片腕を失う、滅茶苦茶衝撃的で重すぎる事実のはずなのだが、不思議なことに俺は落ち着いていられた。痛みがないせいで実感が沸かないせいなのか、治癒魔法のせいで、安楽とした気分になっているせいなのかはわからない。
「あなたがやったわけじゃないですから、気にしないでください。ところで、左腕以外は、いつ治ります?」
あまりにあっけらかんとし過ぎている俺の反応に、スタリオンは少し面食らったようだった。薄くなりつつある霧の向こうで彼女の鬣が揺れた。
「片腕を失ったというのに、ずいぶんと冷静なのですね」
「きっと実感が無いせいでしょう。それで、どれくらいかかります? あんまり遅いと、先の約束に間に合わなくなります」
「あと数時間はかかるでしょう。その間、ゆっくりお眠りになってください。眠ったほうが、回復も早まりますので」
「じゃあ、遠慮なくそうさせてもらいます。何せ昨夜はあんまり寝てないものですから」
俺は目を瞑った。治癒魔法の効果は絶大だった。まるで、自宅で高級布団に包まれているかのような温かさと安心感があった。
「おやすみなさい、コーイチ」
スタリオンの声が子守唄のように心地よく響いた。
俺はすぐに眠りに落ちた。
読んでくれてありがとう!




