相討ち。
後退速度は遅いものの、着実にヤツとの距距離が広がりつつある。煌々と揺らめくヤツの巨体が遠ざかるにつれ、安心感も高まる。
と、少し安心した矢先だった。
ヤツが激しく雄叫びを上げ、棹立ちになった。鬣と四肢の炎が勢いよく燃え盛り、ヤツの巨体のほとんどを炎が包む。全身が巨大な炎の塊と化す。
ヤツは何かやる。それもヤバい何か。そんな予感がビンビンし始めた。俺は息を呑んだ。
棹立ちから、高く揚げられた前足が地につくとともに、ヤツの角先に火が渦巻く。しかし今度のそれは、今までの比ではないほど急速にその大きさを増してゆく。
爆発的に成長した火球はあっと言う間に、人一人を簡単に飲み込んでしまえるほどに巨大な火球になった。
デカい。直径二メートルはありそうだ。ミニチュアの太陽、といった威容だ。
「お、おい、アレ……」
流石にあのサイズはヤバいんじゃないかと思い、ケイの袖を引いてみる。
「ん、問題ない」
ケイはいつもながらクールに言い、両掌をサッと突き出した。
「『氷壁』」
ケイも負けじと、急ピッチで巨大な氷壁を生成する。
みるみるうちに巨大な氷壁が生まれ、さらにどんどん厚みを増してゆく。
厚く巨大な氷壁のおかげで向こう側が全く見えないが、見えなくとも、巨大な火球が既に発射され、こちらに接近しつつあるのがわかった。火球の放つ光が教えてくれていた。巨大な光源が近づくにつれ、周囲が明るくなる。その様子はまるで、夜明けを早回しで見ているようだ。
明るさが真昼並になった瞬間、大量の水蒸気が発生した。水の蒸発する激しい音が辺りに響き渡る。氷壁に火球がぶつかったのだ。
多量の水蒸気はもはや霧のようになり、さっきまであった視界が急激に悪化する。眼の前のケイは肉眼で確認できるが、その先はもう乳白色の世界が広がっている。
ケイはなおも『氷壁』の維持に注力する。あれだけ巨大な火球だ、相殺するのは容易くないのは魔法素人の俺でも何となくわかる。魔力を注ぎ、新たな氷壁を展開することで、この均衡を維持しているのだろう。
しかしいずれケイの『氷壁』が勝つ。眼の前で展開された氷壁に魔力を注ぐことはできても、一度放たれた火球に新たな魔力を供給するのは不可能なはず。少なくとも、未だかつてヤツはそんな手段を取っていない。できるなら、これ以前にいくらでもやるタイミングはあったはずだし、それができないとわかっているから、ケイは問題無いと言ったんだろう。
徐々に周囲が暗くなり始めた。火球が氷壁に削られ、その威容を失いつつあるのだろう。
氷壁もかなり小さくなっているように見えるが、ケイの表情も氷に負けないくらいクールだから、さきほど彼女が言った通り、何の問題も無い、ということだろう。
俺はホッと一安心した。火球を完全に防ぐことができるとわかると、後はゆっくり逃げるだけだ。頼りになる魔法使いもいることだし、この危地から脱出できるのも時間の問題だろう。
そう思った直後だった。馬蹄の響きを聞いた。
一瞬自分の耳を疑った。だが、疑って思考と動作を停止させている場合じゃなかった。そのことは俺の頭じゃなく、心と身体が理解していた。頭は馬蹄の響きに半信半疑になりながらも、身体はケイ目掛けて走り出していた。
『火剣』を解除し、ケイの小さな身体を諸腕で抱きかかえる。同時に、馬蹄の力強い音を、今度ははっきりと聞いた。
ケイの身体を抱き、跳ぶのと、ヤツが氷壁を突破したのはほとんど同時だった。
ヤツの角から『火剣』が伸びている。それが、氷壁を溶かし、貫き、断ち割った。俺とケイは間一髪、凶刃から逃れた。
が、ヤツのターンはまだ終わっていない。
小柄とはいえ、人間一人を抱えながらの跳躍は容易いことではなく、俺とケイは倒れ込むように着地した。
俺がケイを抱き起こしたとき、既にヤツは眼前に迫っていた。
猛烈な突進。それはあまりにも速過ぎ、隙が無かった。
俺はとっさに、左手でケイを突き飛ばした。これでケイはヤツの突進の進路上から逃れた。同時に、俺は『火剣)』を起動する。
直後、ヤツの角から伸びた『火剣』が、俺の左腕を貫いた。
焼けるような激しい痛みが左腕を襲い、全身に苦痛が伝播する。
痛い、痛すぎる……! あまりにも痛すぎて気が遠くなる。恐ろしいことに左腕の感覚が無い。あるのはただ痛みだけ。
強烈な痛みに、俺はもう思考と平静を失っていた。ここからは無意識と本能の領域だった。
俺は右手に持った『火剣』を水平に払い、ヤツの前足に食らわしてやった。
どの程度ダメージを与えたかはわからない。俺の感覚は左腕にばかり集中し、肝心の手応えのほどがよくわからない。
ヤツが嘶いた。ということは、多少のダメージがあったかもしれない。
次の瞬間、ヤツは姿勢を崩した。やはり俺の『火剣』は効いていた。踏ん張りきれなくなった前足がガクッと崩れ、まるでタイヤのパンクのように制動を失っていた。
そのまま突っ込んできたヤツの巨体に俺は轢かれ、弾き飛ばされた。
全身の骨が軋み、バラバラになりそうだった。それぐらい激しい衝撃だった。
もはや意識を繋ぎ止めることは困難だった。全身を巡る死ぬほどの痛みが、俺の意識をシャットダウンさせようとしている。
あ、やっべぇ……、この先は……。
薄れゆく意識の中で思った。俺のふっ飛ばされた先は、崖だということに気がついてしまった。
そのことに気がつこうがつくまいが、どっちでも大して変わりはない。崖から落ちることは決定事項で、俺にできることはもはや何もなかった。
意識を失う直前、崖を落下中、最後に見たものは、前足が傷ついたせいで止まりきれなかったヤツが、俺に続いて崖から落ちてくるところだった。
相打ちだ。ざまぁ見やがれ。
直後、視界も思考も暗転した