炎を纏う黒い巨馬に追われ、闇満ちる夜山を駆けるコーイチ。何かに追いかけられたときって、普段より速く走れる気がするよね?
薮に入れば、闇が一層濃い。頼りになるのは、己の夜目と、迫り来る黒馬の炎の明るさだけだ。だが、炎の明かりというのは揺らめくせいで非常に見辛く、風景の陰影や濃淡がぼやけるので、ほとんど役に立たない。むしろ、場合によっては邪魔にすら感じられる。
必死になって夜山を疾駆する。動きを読まれないようにジグザグに駆け回る。
振り返る余裕はないし、必要すらない。馬蹄の響きと、ヤツの全身から滾る熱気が、大まかな距離感を嫌という程教えてくれている。
その昔、オリンピック金メダリストが馬と競争する見世物があったそうだけど、それが見世物になるのはオリンピックで金メダルがとれるような俊足の持ち主だからであって、ただの男子高校生じゃ見世物にならないし、お話にもならない。勝負は見えている。
ただの競争なら、俺はもうとっくに負けているだろうけど、競争ではないから、まだ何とか逃げられている。
が、捉えられるのも時間の問題だ。
ただの男子高校生のスタミナは、馬より格段に劣る。俺に『サンドマン』並の脚力があるなら、馬といい勝負になるだろうけど、残念ながらあれは漫画のお話。
スタミナが切れれば負け。いや、正しくは『死』だ。
この状況、スタミナが切れるまで走っても逃げ切れないのは明白。いや、このままじゃスタミナが切れるより早くやられてしまうだろう。
もちろん死にたくない。だからこそ、こっちの世界に来てるわけだし。
となると、とるべき手段は一つ、『逃走』から『攻勢』に転じるしかない。
『退いてダメなら圧せ』、だ。
俺は短剣を握りしめ、念じ、自らの闘争本能をかき立てた。
すると、グリップに熱を感じ、赤い宝石が淡い輝きを放つ。
そして、刀身に黒い炎が点った。
黒い炎は俺の闘争本能にも火を点けた。
直後、刀身から渦を巻くように黒い炎が燃え盛る。
戦闘態勢は整った。後はヤツを『火剣』でぶった斬るだけだ。
ヤツはすぐ後ろ、振り向きざまに斬り捨ててやるッ!
振り向こうとした瞬間、何かに足を取られた。多分木の根。だが、暗すぎてわからないし、それを確かめるだけの余裕もない。
全力疾走中に足を何かに引っ掛けるとどうなるか? 答えは簡単、激しくずっこける。
しかも振り向きざまだから余計にヤバいことになった。後頭部から地面に突っ込みそうになるのを、何とか身体を捻って側転にした。
しかしこれも上手くいったとは言い難く、俺は手を地面につかずに一回転した。
一回転の最中、黒馬の鋭い嘶きを聞いた。
が、俺はそれどころじゃない。一回転の後、背中から地面に落ち、薮の中をゴロゴロと転がった。
全身痛い。身体のあちこちが葉っぱと土まみれ。おまけに軽い打ち身と擦り傷も。しかし、この程度で済んでむしろラッキーな方だろう。あの巨馬の太くたくましい足に踏みつけられたら一巻の終わりだ。人の恋路を邪魔したわけでもないのに、馬に蹴られて死ぬのは不本意極まりない。
サッと立ち上がり、すぐにヤツに向かって正対する。ヤツの位置は目で見ずとも、ヤツからほとばしる熱気がはっきりと教えてくれている。
ヤツは足を止め、低くうなりながらこちらを見ていた。
ヤツの胸元に、先程にはなかった大きな傷があった。体毛と皮膚が剥げ落ち、薄っすらと赤くただれている。火傷だ。ヤツが自分の炎で火傷したとは考えにくい。そんな馬鹿馬鹿しく、愚かな生き物には見えない。多分あれは、コケた拍子に偶然、俺の剣が当たったと考えるべきだろう。
ヤツとしては不運な一撃だ。
そしてそれは、俺にも同じことが言えるかも知れない。
俺が予期せず与えた一撃は致命傷とは程遠い。しかし軽微ながらもヤツを傷つけた。俺は動物の表情に詳しくないが、そのせいで、ヤツの面には憤怒に加えて憎悪がありありと浮かんでいるように見える。
手負いの獣は恐ろしい。傷つけられれば、どんな生き物だって闘争本能を高ぶらせる。
致命傷にもならないような傷で、ヤツを無駄に怒らせてしまった。そういう意味では、偶然の一撃は俺にとっても不運だった。
突然、ヤツが吠える。
夜山の静寂をかき乱す気魄の咆哮は矢のように鋭く響き渡り、俺の心を震撼させる。
わざわざそんなことしなくても、俺はもうとっくにビビりきっている。ヤツを見た瞬間から、ずっとビビっている。
ヤツがグッと頭を下げた。捻れた角の尖端がこちらを向いた。
瞬間、角先に渦巻く火が現れた。
初めはドングリ程度の大きさだった火が、一瞬にして直径一メートルほどの巨大な炎の塊になった。ジュリエッタの『火炎弾』の数倍大きい。
おいおい、そんなでっかい火の玉だしてどうするつもりだ? まさか……、まさかそれを俺に向かって撃つ、なんてことないよな? そんなもん当たったら洒落に……!
そのまさかだった。巨大な火の玉は、ゴウッ、とまるで火炎放射器のような音を立てて俺に向けて発射された。
みるみる近づく火の玉。
剣で受けるか? それともかわすか? ジュリエッタの『火炎弾』は剣で受けられたが、これはどうだ? デカいぞ?
考えている時間はない。俺はとっさに横っ飛び、避けることを選択した。
余裕を持ってかわすことができた……、はずだった。かわした直後、背後で破裂音が聞こえた。直後、周囲がにわかに明るくなった。同時に、背中に強烈な熱さを感じる。それに焦げ臭い。
俺の背中で小火が起こってる!?
「うアッチィィッ!?」
俺はすぐに上着を脱いだ。服の背中に火がくすぶっていた。火を消すために上着を地面に激しく叩きつける。
ヤツを目で捉え、次弾に警戒しつつ、消火作業を続けながら考える。何故背中に火が点いたのか? ヤツの火の玉の弾速はそれほど速くない。俺は余裕を持って避けたはずだった。ところが、服に火が点いている。これがわからない。避けた直後の破裂音に秘密がありそうだが……。
火はすぐに消えた。だが、服に穴が空いてしまった。
背中に穴が空いた服をどうしようかと悩む間も無かった。再びヤツの角先に火が渦巻いた。
とっさに服を投げ捨て、剣を構える。今度は、ジュリエッタの『火炎弾』と同じように、剣で受けてやろうと身構えた。
が、渦巻く炎が直径一メートルほど火球になると、俺はビビり、心変わりを起こした。
あんなデカいの無理じゃね? 失敗したら死ぬこと間違いなし!
再び火球が放たれた。少年野球のピッチャーの投球より遥かに遅いそれは、一見して、簡単に避けられそうだ。
なのに、さっきはちょっぴり背中に貰ってしまった。
あの火球には何か秘密がある。それを知るために俺は、さっきのようながむしゃらな横っ飛びではなく、軽やかに二回、サイドステップした。そして、火球を常に視界に捉える。これで何が起こるか目で確かめることができる。万が一のときには、『火剣』で対処することもできる。
読んでくれてありがとう!




