舐めた螺
減り張りと、締まるところで締まる人の眩しさたるや。
成功している人はしっかりしている。
しっかりしているから成功したのか、成功したからしっかりしているのか。
どちらが始まりだとかなんてどうでも良い。
どこか決めるべき処で、きっちりとオチをつける。
オチがつくから周りは落ち着く。
この繰り返しの上手い人が勝ち得た宝、信用。
つまり成功なのだろう。
その人が成功しているかどうかは肩書きではなく、私は人格に感じる。
時間という枠できっちり動ける人は魅力的だ。
過剰な迄に時間に対して厳格な人だったとしても、日頃から緩い私はその精密さに尊敬してしまう。
緩急の噛み合わせが悪いとどうにも都合が悪く窮屈で、煙たく感じたりもするのだが、それでもイザという場面で安心感をくれる。
これを大人と言うのだろうか。
居るだけで背筋を正させてくれる人の存在は有り難いのだが、やはりしっかりしていない私は萎縮しっぱなしで、呼吸を苦しくするのである。
いやでも、緩く伸びきった私がぎゅっと縮まるのだから、均整が取れて丁度良い具合になるのか。
どうか潰れませんように。
私の想い描く普通はそこそこのお金を生み出す資質とも言える。
それなりの人格で、それなりに評価されて。
それなりの脚で、それなりに駆け巡る。
そうして形成される普通という肩書きが初対面でも威力を発揮する名刺となり、ああこいつは健康だと信用される。
不健康だからこそ生み出せるモノは有っても、健康に扱えなければ単なるエゴでしかないと私は知っている。
ああ、私は健康になりたい。




