チで血を洗うが為に
ヒトの可能性、という苦難と希望に満ち溢れた言葉を一応は信用しているが、一方で、ほんの少しの介入で簡単に閉ざすことが出来る、脆弱な真実と私は知っている。
自我で進路を定め、自らの意思で切り開いて行く、なんてことを果たしてどれだけの人間が経験し達成できることだろう。
私は無い。
きっとこれからも無い。
私が選択したと信じてやまない事実も、自発の根元を手繰り寄せていけば、ある変数に突き当たる。
環境である。
私自身が下した決断も、遥か昔に環境に依って刷り込まれた常識という命令に従っただけである。
蛙を常食として当たり前に喰う国に生まれ育てば、調理し口に含んでも、美味しい食肉として蛙を認識する。
蛙を食わない国で生まれ育ったなら、常識が身体に蛙を喰うなと命令する。
喩え、原形を想像できないくらいに手を加え、口に含んだその肉塊を、正体は蛙ですと事実を告げられたなら、途端に口いっぱいのグロテスクが喉元を締めるだろう。
そして蛙という非常識を提供した外道に対して、料理を、何より私を冒涜したと怨むだろう。
我慢は出来る。
我慢は出来るが、我慢するということは私のナチュラルではないということ。
私の持ち得ない可能性を意識的に飲み込んでいるに過ぎない。
世間知らずな私は我慢しなければならない場面が多いのだが、学び、我慢に耐えて当然の行いへ変えていくべきだと判ってはいるものの、身悶えは絶えない。
ある環境である役割を担わせられたなら、ヒトは一定の人格へ染めあげられる。
人間の意思をコントロールするそのようなシステムは、架空の計画ではなく、おぞましい人体実験でもなく、日常的に行われている皆がよく知る教育そのものである。
善く在ってほしい、健全で在ってほしいという大人の愛情が、後続の遺伝子に刻み込まれ、ヒトとして正しい姿へ導き、集束しようと働く。
生き方が集束する中での多少の差違を個性や可能性と呼び、逸脱すれば非道とされる。
決して踏み越えてはならない善と悪の絶対的な境界に法という線を引き、非道が遂に悪へ墜ちた時、罰が下る。
私はこの教育のシステム、つまり社会に順応したい。
順応という常識は、他人を観察することで備えられたのだが、同時に欠如した私は非道を秘めていると知り、自らの可能性を恐れるようになったのである。
私が生まれる何年も前に書かれた小説の中に、私が居た。
物語の彼もまた非道の可能性を秘めた欠如の塊だった。
私は歓喜した。
私のような欠如した人がそこに居たのである。
既に理屈も解釈も熟考も必要の無い、近似値の他人。
彼の文脈が身体に沁み渡るようにすんなりと溶け入る感覚を今でも覚えている。
物語上の彼と同じように、私は彼のグロテスクな自画像に魅入られた。
そして彼の行く末を見届けるべく頁を捲り進めていくのであるが、半ば辺りから様子は豹変する。
単なる、しかしあらゆるホラーよりもホラーだった。
非道を秘めた人間が、卑屈な良心を抱えながらも順当に非道へと成り果て、遂には悪へと堕ちる物語。
それはまるで私の未来の一つに先回りして文章化したような、予言書。
ああ成ってしまう可能性が私にはあるという確かな予感。
恐怖でしかない。
この本が文学として世に評価されているからこそ、淘汰に耐え世代を越えて私の手に渡ったのだろうが、界隈で評価されたこの本を臆面も無く好きだと公言する人の心情を測り兼ねる。
架空の必要悪、対岸の火事として人の不幸を楽しめるのだろうか。
他人事ではない私にとっては、この本を肯定すること即ち、失墜する私の未来を受け入れることになってしまう。
私は既に火種を持ってしまっている。
近隣の火災どころか、私が焼死するか否かの死活問題。
危険を感じずには居られないし笑えない。
出来るなら早く危険を拭い去りたいと焦るのも道理である。
それとも、この本を肯定する人は敬愛をすんなり公言出来る程に、屈強な精神で自らを律することのできる健康体なのか。
どちらにせよ私は不健康だからこの本に強く抗いたい。
異形な私が普通という姿に執着する根元はここにある。
彼のようになってなるものか。
そして両親のようになってたまるか。
こうして欠如に受胎した猛烈な反骨心で私は生きるようになるのである。
だがしかし、強く否定しながらも最も再読した本はこの本である。
反骨心という選択肢を与えてくれたこの本を何度も読んでいるし、これからもそうする。
日々を送る中で迷い、揺らぎ、徐々に狂っていく私をチューニングするが為に、音叉を傾聴するかの如く彼の間違った血を感じたいからである。
こうして調律した後に、心から敬愛する先輩の姿を追う清々しさたるや格別。
先輩の軌跡という常識に従い、私が在るべき姿を整える作業に、コンプレックスは善く機能するのである。
私は弱い。
だから戒め続けなくてはならない。
戒めても尚、非道な私故に、この本を何度も読む。




