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水蜘蛛  作者: 漆原康弘
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into the arena

今そこに存在する真実、世界の姿を幼少の私に知覚させた宇宙図鑑。

想像を絶する大宇宙のスケールと聯綿と刻まれる時間の重味は、その中で蠢く小さな私に、貴様は無力であるという現実を叩きつけたのだが、無力の象徴はそれでも絶望するでなく、強く真実に惹かれ如何に私が無力であるかを追い求めるようになる。



鮮烈な出会いに始まり、私にとって本とは当たり前の存在となった。

食べ物を口に運ぶ為に箸を使うし、暑ければ団扇で涼む。

そういう物だからとして本能が扱う、日常の一端である。

別に食べ物はスプーンやフォークを使って食べても良いし、団扇が無ければ団扇らしき機能を果たす代用品で風を起こしたって構わない。

人間と関わるなら友人と言葉を交わす手もあるが、本を読むという選択肢も私にとって差異は無い。

文字列が印字された薄い紙の分厚い重なりであっても、そこには確実に書いた人間達の何かを顕す意思が刻まれているのだから。

もっと言えば、いま目の前で言葉を発する友人には見えざるこれ迄の人生や人間との関わりがあるのと同じで、著者の人生が本を書かせているのだろうし、本に関わる人間の連携が私の手許へ漸く本を誘ったのである。

用途は別として対峙する相手としてはヒトもモノもイコールである。


決定的な違いは、ヒトではない本との対話の場合、私のリアルタイムな意思は決して著者に届かないということ。

しかし、生身のヒトを相手取る会話に於いて短絡的な反射かセンスを余儀無くされる、間という呪縛から解放される本との対話は、私に熟慮という猶予を与えた。

そして熟慮の結果を主張として私の外側へ放出することなく、強く噛み締め我が身の内に粛々と蓄えていった。

万人が経験する、モノから自分自身を作り上げる通過儀礼、読書感想文ですら真意を絶対に書かない人なのである。

宿題とあればそれなりの出来に仕上げたが、文面上で私自身を饒舌に語ったことは一度も無かった。

モノから得た私の輪郭は秘めるべきもので、それこそが本と私の在り方だと信じているからである。



欠如した私。

他人と接する内に表面化する、能力よりももっと根本的なヒトとしての歴然たる性能差に私は日々悩み、普通の人間になりたいという強烈な欲求が蝕み突き動かしていた。

欠如した箇所をまずピックアップして補填していかなければならず、幾度となく私自身と対面し観察するのだが、しかし私はどこまでも曖昧で不明瞭な存在だった。

確かにここにあるはずの自我を誰かに明確に説明できるような、そもそもの理解と、形容するに適切な豊かな語彙を持ち合わせていなかったのである。

手許にある林檎がどのような林檎であるかを、電話越しの相手に上手く伝えられない人。

例えば、そういう人だった。


そんな言い表し難い曖昧な精神体の私に、本はみるみる内に輪郭を与えていった。

共感も否定も含め、文脈は私の何たるかを解き明かしていったのである。

長さを知らない私に物差しを宛がい示すように、形の歪な私を布で包み形状を視認できるように、色彩と濃淡を用いて印象画を描いてくれたかのように。

私の感覚は確かに此処にこの様に在る、これだけあるが、これは無いと証明されたのである。

と同時に、私には無いが他人が持っていても不思議ではない、ヒトとしての可能性も知ることが出来た。

なにも私こそが正解で、私以外は不正解とは思わないし、私の思う普通が正義で普通に添わない人物は悪だとも思わない。

世には間違いは在れど万人に通ずる正解は無いのだ。

一個人が想像するような狭い正解の枠内に、自分自身を基準で他人を推し測り、範疇は認め、異質というだけで座標を無視して否定するなら、それは狂気か我が儘である。

これまでに頻出させた普通の意味する処とは、決して他人に等しく要求することのない、私自身がどう在りたいかという極々個人的な理想である。

私はこうなる、あなたはお好きにどうぞ。

うちはうち、他所は他所。

誰かと同じでなければならないなんて馬鹿馬鹿しい。

個人的なルールではなく相対的な規範の上で個は自由であっても良いはずだ。

そうでなくては、そもそも文学や音楽など千差万別の魂を持って世の中に生まれてこないだろう。

均一で大衆的なモノで溢れ返ったなら、それは文化の死である。




鮮やかな文脈に当人の人生たる彩りを添えた先人の本で以て、明々白々な欠如と想像上の普通は形を成すに至った私。

しかし、作家という職、発する側の立場に強く憧れることは無かった。


フィクションは存在しない、が持論である。

喩え舞台や人物が織り成す物語全体が架空であってもノンフィクションだと言いたい。

物語とは、人が語るどこかの誰かのお話であるが、語る側に全てが委ねられる。

作者の知る経験や感覚や語彙、センスの中でしか物語は展開しない。

つまりフィクションと言えど作者が語るのは作者自身の範疇、ノンフィクション。

作者の姿そのものを超えて物語を綴ることなど出来ようか。

まさしく発想が血肉の先を行くなどあり得ないのだ。


戦後の日本のあらゆる変遷に身をやつし、漸く現代を緩やかに生きる老人を明瞭に想像し、溌剌と操ることが、未婚で若い未熟な、戦争を経験していない私に出来るだろうか。

行ったことも無い土地に文化と習慣と利便性と生活感を想像し与えて、街に生きる人々の呼吸を私は全て感じ取ることが出来るだろうか。

会ったことの無い異性の容姿や性癖を、いや、そもそも私の理想や都合に添った偶像ではなく、どうも性別だけが理由ではないような、何処か仕組みが異なる生物を、想像する以前に理解するに至らない。

恋人とは例外なく回路の違いを感じ、理解することなく仲を違えてきた私が、異性を異性として想像することが出来るだろうか。

(異性だけは作家の性癖を恥じらいなく反映した妄想の範疇でしか艶やかに描ききれないのだろうなあ。

異性は作家以前にヒトの永遠のテーマだと思う。)



フィクションを構築するノンフィクションを私は取り揃えていない。

架空を繊細に彩る為の技術以前にヒトとしての含蓄に乏しいから、きっと老人や街や異性に命を宿すことができない。

喩え、魅力的な展開全体をぼんやりと想像出来ても、生々しい人々と言葉で状況を再現し、恍惚と裏切りの迫力で受け取る側を引き込むような説得力やリアリティを、私は物語に吹き込むには至らないだろう。

フィクションを語るということは妄想を如何に描くかという追求だとは思うが、根底には語る人物の血の通った魂の分身が蠢いていて欲しい。

私だって技術面に努力を費やせば、欠如という強烈なコンプレックスがきっと文脈を鮮やかに彩れよう信じているが、欠如しているからこそ多様な、健全なヒトを描けないというジレンマに早速ぶち当たり、真剣に作家の道へ踏み込むことは無かったのである。

私の想い描く健全像はどこか病的な整い方をしてしまうもんだから、もういっそ不健康な人、例えば私自身を描くくらいしか策が思い浮かばない。


外側に向けて広がる無限の象徴たる宇宙図鑑と、内側に向けて広がる無限の象徴たる文学に、揃いも揃って貴様は無力だと叱られるのだから皮肉で面白い話だ。




作家として面白きを発信する人、というよりも飢えから魂の叫びを追求する人の書く本を好むようになり当時よりも一層楽しめている。

私のような人間の書く別解ならば、新たな素質を垣間見るようで尚更楽しい。

今も変わらず私にとって本は興味の対象として揺るぎない順位を獲得するに至っている。

一生、本なんか書かずに読む側に徹していたい。

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