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水蜘蛛  作者: 漆原康弘
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未知との遭遇

然るべきモノは然るべき場合に。

横になった状態から手の届く範囲にあるモノの程度なんぞ知れている。


だが幼少期の私は、今となって多少なりとも改善成長は見られるが、とにかく当時の私は腰が重かった。

胸を打つような未知の存在を信じ期待していたが、一方で遭遇の為に支払う対価や労力が恐ろしかった。


どうにも上手く言い表せない異質な私に心地好く合致するような未知が、其処らに転がっていないような予感を、本能で察知していたのだろう。

歩いて行ける距離よりももっと"脚"を使わなくてはならない気がしていた。

実際その通りだと悟ったのは年月を経てから。

何処に何があって、それがどういったモノなのか、といった"モノに関する生息圏地図"、つまり世の中の仕組みや成り立ちをほんの少し知ってからである。



子供は興味の塊である。

なにせ、まだ何も知らない生き物であるから、特に幼少期は未知に対してセンサーが過敏に反応を示す。

私はそれを知らない。

一体何なのか。

知っているモノを弄り工夫するのが大人なら、子供は未知を収集するコレクターである。


物質であれ無型物であれ、未知との遭遇に胸躍らせ、観察や実験に没頭したかと思えば、突如として冷めて見向きもしなくなったりもする。

日本の秋の空も驚きのスコール的変貌である。


これは子育ての経験が無いなりの予想でしかないが、飽きのメカニズムは未知が既知に変わったからだけではないと思っている。

今目の前に在る"これ"は何なのかという根源情報に触れると同時に、(いや寧ろこちらが子供にとって重要なのかもしれない)自分にとって何の意味があるか、何をもたらすかまでも感じ取り、どうでもいいモノと判決を下した結果がポイ、つまり淘汰。

知っているにも関わらず興味の絶えないモノが手許に残り、一生付き合えるモノなら年月を掛けて大人になっても大切に育てるのだろう。



だが子供の手が届く範囲は狭く、そもそも狭い世界でしか行動し得ない。

どう本人が足掻こうが遭遇できないモノが多い。

ここで大人の登場である。

多くを、何を、どう与え、不適切をどう遠避けるかの、大人の腕の魅せ処だ。

裁量次第ではきっと豊かな未来に溢れる子供になるに違いない。




だが、私はといえば与えられなかった。

多く与えられないものの、そこそこに与えられていたという次元ではない。

欠如。

私の名前そのものである。

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