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彼岸花  作者: 葵陽
3/5

シニガミ

「こちらの座席、座ってもよろしいでしょうか?」

男は、広介の向かい側の席を指さして言った。


「あっ、すいません。」

広介は向かいの座席に乗せていたボストンバッグを取り、自分の脇へ置いた。


「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

広介が席を差し出すと男は、小じわの刻まれた顔でふにゃりと笑った。

英国紳士の好好爺、と言えばいいのだろうか。とにかく広介には、その紳士が放つ柔らかな空気が心地良かった。


「墓参り、いや、里帰りですか?」

ふいに紳士さんが広介に話をふってきた。


広介は、どちらかといえば人見知りするタイプだった。できるだけ喋りたくはなかったのだが、無視するのも心苦しい。広介は紳士さんの問いにうなづき、答えた。


「おや、父が危篤らしいので。」

親父、と言うのも下品な気がしてあわてて父、と言い換える。


「あぁそれは、急ぎませんといけませんね。」

「車掌と汽車次第ですけどね。でも、着いたらご臨終かもしれません。」

広介は伏し目がちにそう言った。


「あなたはお父上が亡くなられたら、嬉しいですか。」

紳士さんは俺に尋ねた。


そんなものは決まっている。母さんが死んでから、というよりも死ぬ前からずっと、奴には死んで欲しいと思っていた。でもいざ、親父が死ぬかもしれないと知ったとき、かすかに「死んでほしくない」と思った自分を思い出す。


ああ、そうか。俺は親父に死んでほしくないのだ。


「正直のところ、俺は今悲しいのか嬉しいのか解りません。親父を嫌いなはずなのに。」

広介は紳士さんに答えた。紳士さんはうなづく。

「なるほど、あなたのお父上は嫌われて当然な人物のようです。しかし、あなたのお母上が選んだ男性です。間違いなお人ではない。」

紳士さんはふにゃりとまた笑った。


汽車は田園風景を抜け、天神町へと近づいていく。広介の心持ちははじめよりもいささか軽やかだった。


「そういえばお爺さんは、天神へ何用ですか。観光名所もあんまりないし、やっぱり墓参りに?」

広介は軽い気持ちで紳士さんに尋ねた、ほんの軽い気持ちで。


「いいえ、死にに行くのです。」


紳士さんの口からは衝撃の一言が飛び出してきた。

広介は思わず、目の前の好好爺を見遣る。相も変わらずふにゃふにゃと、あたたかい笑顔を広介に向けていた。


「ああ、勘違いをしないでくださいね。正確に言えば、私は人ではありません。」

紳士さんは、言葉を紡ぐ。広介は紳士さんの言葉に理解がついていけず、ただ呆然と聞いていた。

十数年ぶりの故郷の景色も見る余裕すら、ない。


「死が人にとって終わりならば、私たちにとっては始まりということですよ。誕生を恐れている赤ん坊がいないように、死を恐れる死神がいるはずがないのです。」


広介の認識している『死神』は、骨のからだに黒いマントを羽織り大きな鎌を携えた、“不吉”の象徴である。でも広介の目前の人物はどう考えても不吉とは縁遠い、福の神のような好好爺だ。

広介は咄嗟に紳士さんの両の手をとる。しわくちゃで骨が浮き出てはいたが、体温を持ったあたたかな人の手だった。

手を放した広介がいきなりの行動に謝ると、紳士さんはまたふにゃりと笑う。


「私たちは、あなたの考えているような死神ではないのです。私たちは、一人の人間のために生きその人の死後のためにあります。私はあなたのお父上の死神です。私が生きている間はお父上も生きておられますよ。」

にこりと笑った“死神さん”、なにかしらご利益がありそうな、そんな笑顔。


紳士さんの言うことを信じる根拠はどこにもない。だが父親がまだ生きていると言われて、広介はひどく安堵していた。


『天神、天神駅でございます。お出口は右側です。お忘れものがないよう、お気をつけてお降りください。』

車内アナウンスが鳴り、天神に着いたことを知らせた。紳士さんと広介は伴って汽車から降りる。狭い無人駅の構内は人でいっぱいになったが、しばらく経つと皆駅から目的地に行ってしまった。紳士さんと広介だけが残される。


「病院、行きます?」

先に口を開いたのは広介。ボストンバッグを持ち直して紳士さんに尋ねた。


「いえ今日は、彼の、総介さんの故郷を見ようとやってきました。それに、彼とは死んでから会おうと決めましたから。」

紳士さんはすこし、寂しそうに言いました。


「そうですか。」

広介はそう返事をして、駅の出口へ向かった。駅前通りのロータリーで、紳士さんとは別れることになる。

おもむろに紳士さんは駅前のベンチに座り、不意に口を開いた。


「“若ければ道行き知らじ賂はせむ黄泉の使負ひて通らせ”。このうた、ご存じですか。」

「何のうたですか、芭蕉?」

「山上憶良です。幼くして亡くなった子のために詠んだうた、だそうですよ。幼子ゆえ黄泉までの道のりを知らぬだろうから背負って連れていってほしい、と黄泉からの使者に頼んでいるのです。」

「子供思いなんですね、山上憶良は。」

「とても良い、そして哀しいうたです。このうたから私たちが生まれたともいわれております。」

「死神が、ですか。」

「ええ。私たちは、死んだ人が黄泉まで迷わないように、ちゃんと黄泉に着けるようにあの世を案内するために居るのです。さすがに、このように年をとってしまっては背負って連れて行くことはできませんが。」

苦笑いをする紳士さん。


「俺の親父、方向音痴だからしっかり連れてってやってください。」

広介も苦笑いを浮かべた。


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