婚約破棄された瞬間、殿下だけ授業が分からなくなりました
「リディア・エルフォード! お前との婚約を破棄する!」
王立学園の卒業を三か月後に控えた、春のことだった。
昼休みの食堂で、第一王子レオナルド殿下は高らかに宣言した。
百人を超える生徒たちが、一斉にこちらを見る。
殿下の隣には、小柄な少女が寄り添っていた。
男爵令嬢マリアベル。
最近、殿下が何かと気にかけている女生徒だ。
対する私はリディア・エルフォード。
十八歳。侯爵令嬢。
そして今この瞬間まで、レオナルド殿下の婚約者だった。
「理由をお聞きしても?」
「お前がマリアベルを虐げたからだ!」
殿下は私を指さした。
「身分を盾に彼女を侮辱し、授業ではわざと難しい質問をして恥をかかせたそうではないか!」
「授業で質問を?」
「とぼけるな! 魔法理論の演習で、マリアベルに術式の欠陥を説明させただろう!」
「あれは同じ班でしたので」
「彼女が答えられないことを知っていて聞いたのだ!」
私は少し考えた。
「殿下」
「なんだ!」
「魔力を火属性へ変換する際、第二変換式を省略すると、なぜ術式が不安定になるのでしょう?」
「……は?」
「先日の授業内容です」
殿下が眉をひそめる。
「今はそんな話をしていない!」
「そうですわね。失礼いたしました」
私は頭を下げた。
どうやら、もう始まっている。
思ったより早かった。
「ともかく!」
殿下はマリアベルの肩を抱いた。
「私は真実の愛を知った! お前のような冷酷な女ではなく、心優しいマリアベルと生きていく!」
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄をお受けいたします」
殿下は目を丸くした。
マリアベルも驚いている。
もっと揉めると思っていたのだろう。
「よ、よいのか?」
「殿下からのお申し出ですから」
「そうか。ならば――」
「ただし、一点だけご報告がございます」
私は右手の手袋を外した。
薬指に、細い銀色の紋様が浮かんでいる。
婚約の証として十年前に結ばれた魔法契約。
その光が、ゆっくり消えていった。
「これで《知識共有》も終了いたしました」
「……知識共有?」
殿下が首を傾げる。
私は逆に驚いた。
「ご存じありませんでしたの?」
「何の話だ?」
本当に知らなかったらしい。
私の固有魔法《知識共有》。
私が理解した知識の一部を、契約を結んだ相手と共有できる魔法だ。
十歳のとき、王宮魔導師によって能力が確認された。
それが私が王子の婚約者に選ばれた理由のすべてではない。
だが、大きな理由の一つだった。
「つまり……どういうことだ?」
「私が学んだ内容を、殿下もある程度理解できるという魔法です」
「馬鹿馬鹿しい」
殿下は笑った。
「私は自分で学んできた。お前の魔法など関係ない」
「そうでしたか」
私は微笑んだ。
「でしたら何も問題ございませんわ」
◇
問題は、翌日の一限目から発生した。
魔法理論。
「殿下。こちらの術式を説明してください」
教師が黒板を指す。
レオナルド殿下は立ち上がった。
「分かった」
黒板には基礎的な魔力循環式が書かれている。
昨日までの殿下なら簡単に答えられただろう。
ところが。
「…………」
一分が経った。
「殿下?」
「少し待て」
さらに一分。
「……この記号は何だ?」
教室がざわめいた。
教師が困惑する。
「魔力抵抗を表す記号ですが」
「そうではない! それくらい知っている!」
殿下は怒鳴った。
私は窓際の席から、その様子を眺めていた。
嘘だった。
殿下は知らない。
正確には、見覚えはあるのだろう。
しかし意味が分からない。
これが《知識共有》を失った状態だった。
私は十歳から王妃教育を受けてきた。
歴史、法律、財政、外交、魔法理論、外国語。
王族の妻となるため、毎日大量の知識を学んだ。
そして、その一部が婚約契約を通じてレオナルド殿下にも流れていた。
私が理解すれば、殿下もなんとなく理解できる。
私が覚えれば、殿下もなんとなく思い出せる。
それが十年間続いた。
本人にとっては、それが自分の能力になる。
教科書を一度読めば理解できる。
教師の説明を聞けば分かる。
試験前に少し復習すれば高得点を取れる。
レオナルド殿下は、自分を優秀な人間だと思っていた。
無理もない。
物心がついたころから、ずっとそうだったのだから。
二限目は外国語だった。
「殿下、こちらを訳してください」
「…………」
三限目は王国史。
「百二十年前に北部反乱が起きた原因は?」
「…………」
四限目は財政学。
「この税率では、なぜ税収が減少すると考えられますか?」
「…………」
昼休み。
レオナルド殿下が私のところへ飛んできた。
「リディア!」
「ごきげんよう、殿下」
「元に戻せ!」
周囲の生徒たちがこちらを見る。
「何をでしょう?」
「分かっているだろう! お前の魔法だ!」
「ですが、私たちの婚約は昨日破棄されました」
「だから何だ!」
「《知識共有》は婚約契約に付随する魔法です。婚約者でない方とは共有できません」
殿下の顔が引きつる。
「なら、もう一度契約すればいい!」
「嫌です」
即答した。
「な……」
「殿下には真実の愛を見つけたマリアベル様がいらっしゃるのでしょう?」
周囲から笑いをこらえる声が聞こえた。
ちょうどそこへマリアベルがやってきた。
「殿下!」
「マリアベル……」
「大丈夫です! 私がお勉強をお手伝いします!」
「本当か!」
殿下の顔が明るくなる。
私は感心した。
少なくとも彼女は本気らしい。
「私、成績はあまりよくありませんけど、一緒に頑張ればきっとできます!」
殿下の顔が再び曇った。
◇
一週間後。
レオナルド殿下の成績は壊滅した。
それだけではなかった。
学園中で奇妙な現象が起きた。
私の成績まで上がったのである。
「首席、リディア・エルフォード」
試験結果を見て、私は思わず二度確認した。
これまでも上位ではあった。
だが首席になったことはない。
理由はすぐ分かった。
《知識共有》には欠点があったのだ。
共有相手が知識を利用すると、私の魔力もわずかに消費する。
それが十年間、一日中続いていた。
婚約契約がなくなったことで、私は初めて自分の魔力をすべて自分のために使えるようになった。
頭が軽い。
本を読めば内容がするすると入ってくる。
魔法を使っても疲れない。
「……勉強って、こんなに楽だったのですね」
思わず呟いた。
「知らなかったのか?」
隣から声がした。
第二王子セドリック殿下だった。
レオナルド殿下の二歳下で、飛び級して私たちと同じ授業を受けている。
「十年間ずっと共有していましたので」
「兄上は?」
掲示板を見る。
首席、リディア・エルフォード。
次席、セドリック・アルヴァーン。
そして。
百二十七位、レオナルド・アルヴァーン。
「下から数えたほうが早いな」
「言ってはいけません」
「笑っているぞ」
「気のせいですわ」
その日の午後、私は王宮へ呼び出された。
国王陛下と王妃陛下が待っていた。
当然、レオナルド殿下もいる。
「リディア嬢」
国王陛下が頭を下げた。
国王が侯爵令嬢に。
私は慌てた。
「陛下!?」
「すまなかった」
「お顔をお上げください!」
「《知識共有》について、レオナルドへ説明されていなかったことが分かった」
王妃陛下が深いため息をついた。
「幼少期に説明した記録はあるのです。しかし本人が覚えていなかったようです」
私は納得した。
十歳の殿下にとって、婚約契約の説明など退屈だったのだろう。
「そこでだ」
国王陛下がレオナルド殿下を見る。
「本人から頼みがあるそうだ」
殿下が前へ出る。
「リディア」
「はい」
「もう一度、私と婚約してほしい」
私は黙って殿下を見る。
「私はお前が必要だ」
「私の《知識共有》が、では?」
殿下が詰まった。
「それは……」
答えは十分だった。
私は頭を下げる。
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「殿下」
私は顔を上げた。
「昨日、初めて一冊の本を、誰にも邪魔されず最後まで読むことができました」
「何を言っている?」
「とても楽しかったのです」
十年間。
私は自分のためだけに勉強したことがなかった。
私が学べば殿下が学ぶ。
私が努力すれば殿下が評価される。
それが未来の王を支える婚約者の務めだと思っていた。
でも、もう終わった。
「これから得る知識は、私自身のために使いたいのです」
殿下は何も言えなかった。
国王陛下が静かにうなずいた。
「もっともだ」
「父上!」
「レオナルド。卒業まで三か月ある」
「だから?」
「勉強しろ」
「三か月でこの範囲を全部!?」
「リディア嬢は十年かけて学んだ。それを無意識に借りていたお前が文句を言うな」
「そんな!」
私は深く一礼して部屋を出た。
廊下にはセドリック殿下が待っていた。
「断った?」
「もちろんです」
「そうか」
なぜか嬉しそうだ。
「では、卒業後の予定は?」
「王立魔法研究院へ進もうかと。《知識共有》について研究したくなりました」
「奇遇だな。私も来年から研究院へ進む予定だ」
「あら」
「ところで、その魔法は婚約者にしか使えないのか?」
私は足を止めた。
「……殿下?」
「学術的な興味だ」
「顔が笑っていますけれど」
「気のせいだ」
今度は私が笑う番だった。
「でしたら、まずご自分で勉強なさってください」
「もちろん。その点だけは兄上に感謝している」
「何をです?」
セドリック殿下は笑った。
「君に頭を借りる男が、どれほど格好悪いか教えてくれた」
三か月後。
私は王立学園を首席で卒業した。
レオナルド殿下も、どうにか卒業した。
百三十一人中、百二十九位。
マリアベル様は百三十位だったので、二人で喜んでいたという。
それはそれで、相性のよい二人なのかもしれない。
そして私は研究院へ進み、《知識共有》の研究を始めた。
自分が知りたいことを、自分のために学ぶ。
それだけの毎日が、驚くほど楽しい。
ちなみに翌年。
セドリック殿下が研究院へ首席で入ってきた。
私の知識を一切借りずに。
その日の帰り際、彼は一枚の書類を私へ差し出した。
婚約申込書だった。
「これなら格好悪くないだろう?」
私は少し考えて。
笑って答えた。
「ええ。今度は、共有してもよさそうですわ」




