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6.5話 地獄の一夜


あの時、俺はまだ子どもだった。魔法の使い方も武器の握り方も何も知らない力無き子どもに過ぎなかった。それを酷く悔やんだのはこの時からだった。


その日は国の誰もが恐れる災いの日だった。夜空に浮かぶ白い月が、光を奪われ血の色を帯びる日。他国の商人が言うにはただの月食が起きているだけらしいが、俺たちにとっては恐ろしくてたまらない日であった。


町は静まり返り、誰もが家に篭ってひたすら時が過ぎるのを待っている。神の怒りを買ったからだと人々は言うが、父も母も神は私たちを見捨てないと、何度もこの日を我々は乗り越えて来られたからと、笑って見せた。


けれど、そうは言いながら俺たちも家に閉じこもって静かに神へ祈りを捧げていた。


暗い部屋の中慣れない手つきで火打石で火を起こす。普段は魔法で何でもできていたが、この日は魔法を使わない。いや、使えないのだ。神による罰なのかこの災いの日は魔法が使えなくなる。魔力が霧散してしまうのだ。そのせいなのか、酷く身体が怠かった。


分厚い布で窓を覆い、外の光を浴びることは無かった。けれど、幼い俺はどうしても赤い月が見たくて窓の近くに寄って布をそっと捲った。


宝石が散りばめられた夜空に浮かぶは赤く大きな月だった。恐ろしく大きな月。あれが神の怒りというなら俺たちは一体何の罪を背負っているのだろうか。父に問いかけてみたが、分からないと言った。母に聞いてみても同じだった。だが、姉は違った。


暗い部屋の隅、彼女は神の気まぐれだと言った。

「神様に祈っても願いは叶ったり叶わなかったりするでしょう?神様はきっと気まぐれ屋さんなのよ、私たちが何を為そうが何を失おうが、神様にとっては気にもならないことよ。だって神様に頼るのは私たちで神様は私たちを頼らないのだから」

 

姉は面白そうに語った。敬虔な信者には怒られそうな考え方だけどそんな姉の言葉にどこか真実を帯びたものを感じた。

そうして姉と共に蝋燭が小さくなるまで灯に手を翳し、影絵を楽しんだ。


小一時間は経っただろうか。


もうすぐ終わりが来る、母がそう口にした時だった。


突然、馬の嘶きと共に地面が揺れる。遠くから何かが走って来ている。それも沢山の何かが。


ハッとして、父は窓へ駆け寄り布を剥ぐ。


馬の背に乗るは黒衣の騎士たち。重厚な鎧を纏い、剣を引き抜いたその刃は既に赤く塗れていた。

彼らは扉を破り、窓を割り、家々に押し入る。そうして無防備な人々へ襲い掛かった。

窓越しでもその異様な雰囲気を感じ取るのにそう時間は掛からなかった。


一人の騎士がこちらを見た。鎧の隙間から金色の瞳が俺を射抜く。


「家の裏へ出て逃げなさい」


母は素早く壁に掛けてあった外套を手に取ると俺と姉に着せた。

父は玄関口の鍵を閉め、家具を移動させて塞ぐ。


「二人を連れて早く裏口から出ろ」

「あなたはどうするの」

「俺は残って時間を稼ぐ。全員で生き残るのは無理だ」


父と母が何を言っているのか理解できなかった。こんな両親を見るのは初めてだった。俺の目に映る至って冷静な二人が恐ろしく感じた。


「今までありがとう」

「ああ」


二人の視線が混じる。今思えばその目は苦悶に満ちていたけれど愛も満ちていたように思う。


「生きろ」

「ええ」


短い挨拶だった。でも思いの全てが籠った言葉だった。


母は俺と姉を連れて裏口を出る。

町中で火災が起きているのか空は赤く、煙の臭いがした。悲鳴と泣き声と助けを求める声と、様々な音が聞こえた。


あの声は近所の友達だろうか。この声は薬屋のお兄さんの声だろうか。

知っているような知らないような。ただ、死の臭いがすぐそこまで来ているという事実だけが脳に届く。


家の裏には深い森がある。この道を真っ直ぐ走れば森へと逃げ込める。

母は俺の手を引いて走り、姉は母の背を必死に追う。

怠い身体は上手く言うことを聞いてくれなかったが、それでも足を動かした。


もう少し、

もう少しだったんだ。


馬の蹄が地を駆ける音が鮮明に聞こえた瞬間、騎士の腕が姉の首を掴んだ。


苦しいのか姉の顔が歪む。俺は引きずられていく姉を横目に見ているしかなかった。


母は姉を振り返らず俺の手を握りしめて森へと走り込んだ。全て分かった上で、姉を捨てた。


信じられなかった。草むらの中で俺は呆然としていた。恐れよりも驚きが強かった。


「スゥ、今から言うことを覚えておいて」

母は俺の肩に手を置いて目を合わせる。


「この森を真っ直ぐ抜けなさい。決して戻って来てはいけない。振り返ってもいけない。」

「母さん」

「お母さんが森に魔法を掛けてあげる。そのうちに逃げて、逃げて、生きるのよ」


母はそう言うと草むらから出て行った。

赤い月はいつの間にか白く澄んでいる。


俺はまだ呆然と座り込んでいた。草むらの隙間から母の後ろ姿を眺めていた。


母が魔力を練り上げ、暖かな魔法が森へと広がる。


魔法を使う母の背に誰かが立った。大きな鎧が金属音を立てて剣を構える。


「罪は犯した者が背負うが、罰は後世の者も背負うものだ。許されよ」


母の背から鮮血が舞う。


それを見て俺は走り出した。


母を背に森の奥へ。




森を照らすは白い月。我らが月神はどんな気持ちで俺を見下ろしているのだろうか。

家族を一夜で失い、赤き月は確かに災いをもたらした。

これも神の気まぐれだとしたら、きっと神様は相当な悲劇好きなのだろう。だってこんな地獄が存在していい訳がない。




涙は出なかった。泣く余裕さえないままに走っている。

この地獄の一夜を走っている。





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