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9話

 窓硝子越しの雨音を、ホワイト・ノイズのように微細な振動として感じながら、利玖は、中学生の時に買ってもらったポータブル・オーディオ・プレイヤの事を考えていた。制服のポケットにも入るサイズで、それを起点にして記憶を辿っていくと、途中で袖のデザインが変わる。高校に上がった後も使っていたようだ。しかし、大学に入った後の記憶はまったくない。

 室内に光源がないため、カーテンを開けると、外の景色がよく見えた。月も星も、人工の照明もないが、ずっと遠くで、市街地なのか、低いところがぼんやりと白い光を拡散させている。

 それとは別に、かなり手前にも、目に留まる光があった。一つだけで、小さく、青白い。誰かが夜の森を歩き回っているのか、と思ってぎょっとしたが、よく見れば、そんな動きではなかった。ずっと同じ場所から動かない。

 外がこんな天気でも、ここは日本きっての高原リゾート・杏嶌である。何かの装置か、あるいは無人の施設でもあって、それが稼働しているのだろう、と利玖は思った。

 真っ暗な森の中、ただ一点だけ冴えた輝度を放つその光が、プレイヤに搭載されていたドット・マトリクスを想起させた。──そうだ、あれは、綺麗だった。曲名が長過ぎる時は、点滅のパターンを操作して、後ろの文字がスクロールされて出てくるように見せてくれたものだ。文字そのものが、ごく小型のライトで構成されているのだから、暗い所で使っても困らない。

 今、ここにあったら良かったのに、と考えた。

 どうして、実家を出る時、置いてきてしまったのだろう。そんな後悔をするのは初めての事だった。

 三号室に戻ってきた後、一度は眠ろうとした。服を着替え、シーツを被り、枕元のつまみでシャンデリアを消した、その瞬間、心臓がどくんと脈打った。

 アメーバのように伸縮する色彩が瞼の裏に一斉に広がり、激しく明滅した。

 訳も分からずに、跳ね起き、ただ息をしながら、シーツを握った手を見つめていた。ようやく少し落ち着いた頃には、暗さに目が慣れて、シャンデリアはもう必要なかった。

 汗をかいている。それがわかる事が、不快だった。

 ふらつきながらベッドを出て、クロゼットを開け、明日着るために吊しておいた服に着替えると、ヒータのそばのソファに腰を下ろした。ヒータの温度を上げても、ひどい悪寒がして、胸の前で膝を抱えるような姿勢で背を丸め、体温をなるべく心臓の近くに集めようとじっとしていた。

 プレイヤを持ってこなかった理由を、また考える。

 なぜか、自分は今、それを考えたがっている。それを考えようとした時にだけ、歯車が少し回るような手応えがある。現実には、まったく影響を及ぼさない事なのに。クール・ダウンみたいなものだろうか……。

 おそらく、あまりにもメモリィが小さかったからだ。本当に聴きたい曲だけを入れるようにしても、すぐにメモリィがいっぱいになって、頻繁にリストを更新しなければいけなかった。買った時点で、すでに型落ち品だったのだ。

 それに、今ほど、デバイスのサイズに対して、チップの性能が追いついていなかった。急速にその技術が発展し始める、まさにその直前だったのである。

 それでも、利玖はあのプレイヤが好きだった。

 型落ち品を選んだのは、安く手に入る事だけが理由ではない。SF映画のティーン・エイジャが持ち歩いていそうな、近未来的で、洗練されたデザインに一目惚れしたのである。

 だから、残りのアルバイト代で、性能がアップデートされた最新型を買えるだろうか、という計算はしない。それよりも、あのプレイヤをもう一度使えるように出来ないだろうか、と考える。

 曲が少ししか入らないのは、何とかしなければならない。利玖も、あれから様々な経験をして、思い入れのある曲も増えた。これから先も、好きだと思える曲にたくさん出会うだろう。今と同じメモリィではどうしても足りない。

 例えば、カバーを取り外して、中のチップだけを取り替えれば、その問題を解決出来ないだろうか。

 むろん、メーカ側からは禁止されている行為だろう。実行したら、何らかの法に抵触してもおかしくない。

 しかし、そういった事が技術的に可能なのか、身内で話し合うだけならば、目をつぶってもらえないだろうか。


 そういう話を、

 史岐としたかった。


 利玖は、ゆっくりと体を伸ばし、ソファの背もたれに後頭部を預ける。

 視界を遮りはしないけれど、見ようと思えば見られる近さに、彼と話し合わなければならない事がいくつも浮いている。それは、短い一本の綿毛にも似ていて、時々、話さなければ、と思って手を伸ばすのだが、捕らえきる寸前で、するりと指の間から抜けてしまう。それで、いつも、まあ今でなくても良いか、と思ってしまうのだ。

 白津透の言葉は、そこにピンを打ったようなものだった。


 つまりは、

 自分と彼の間に血統が生じるのか、という問題。


 例えば、史岐の体質は、すぐに治す事は出来ない。

 彼の煙草は特注で、材料も製法も公開されていないため、成分の解析からして困難だという事もあるが、そもそも、当事者である熊野家が──おそらく、史岐も含めて──治療を望んでいないのだ。

 彼らの体に不可逆性の変化をもたらす煙草は、代々『五十六番』を継ぐ者しか吸う事を許されない。『五十六番』は当主の座とともに引き継がれるものだから、つまり、それは家督を継承した証であって、単にファミリィ・ネームを刻んだ大きな宝石がはまった指輪、あるいは、一族の繁栄の秘密を記した巻物を収めた小部屋に通じる鍵、そういうものと大した違いはない、そんな程度の認識しかなかったのだろう。


 利玖には理解出来ない。

 だけど、それで史岐と対立するような事は、きっとない。


 熊野という家の中枢に近づくほど、史岐の意思というものが鈍く、希薄になって、最も近づいた時には、存在すら確かめられないような気がする。

 史岐は、両親の元に最初に生まれた子どもではない。生まれてすぐに亡くなった兄がいたのだ。会った事もない、その子を再現する装置として、史岐は育てられた。その事を、利玖は、かつて史岐と婚約していた(たいら)(あず)()から聞いた。

 そういう生い立ちを、どんな言葉で表したら良いのかわからない。

 無理に定める必要も感じない。

 抽象的なイメージで例えるとすれば、彼の意思は、たった一つの大きな物体ではなく、細かい単位で分割されていて、それぞれに比重のようなパラメータを持っている。それは、様々な色や形、大きさのカプセルに充填されて、透明な水を満たしたビーカのような容器の中で、浮いたり、沈んだりしているのだが、自分はそれをビーカの底を通して、下から見る事しか出来ない。

 ビーカの縁、つまり、潟杜での生活や、大学の人間関係に関わる領域では、カプセルの比重は増して、彼の考えている事や、やりたいと思っている事が、近い距離で見えて、はっきりと存在しているように思える。

 しかし、ビーカの中心部では、カプセルの比重は急激に小さくなり、下から見るだけでは色も形も定かにわからない。その領域を支配しているのは、血の繋がり、そして、彼が生まれた環境そのものである。どのカプセルも、そこでは、赤ん坊の吐息くらいのわずかな力で、極端な方向へ動いてしまう。


 梓葉は、気づいたのではないだろうか。

 自分が、少しずつビーカの中心へ引き寄せられている事に。

 史岐が生きた時間に比例して、ビーカに満たされた水の量、あるいは、ビーカそのものが大きくなって、やがて、カプセルの比重が一番軽くなる所では、誰の声も届かなくなるのではないか、という事に。

 そこではきっと、史岐には、自分が何かを決断した、という意識すら生じない。ビーカの縁へ、再び移動して、カプセルが少しずつ沈み、底の向こうに広がる景色が見えるようになって初めて、ああ、こういう風になったのか、と振り返るのではないだろうか。

『五十六番』も、特注の煙草も、そうやって彼に渡ったのだ。

 

 佐倉川利玖という存在も、いずれビーカの中心と癒合するのかもしれない。

 その事には、恐れも、後悔もない。史岐とともに生きられるのなら、それで構わない、と決めていた。


 では、彼の子どもは?


 熊野史岐という人間の核を為す、空虚な中心にあるべきものとして扱われるのだろうか。

 それとも、ブラックホールのような、その危うい領域からは遮蔽され、穏やかで、賑やかな人間関係が存在する、彼の核にはまったく影響を及ぼさない環境で、生まれ、消えていくのだろうか。


 利玖は、冷たい窓枠に頭をつける。

 自分は、どちらを望んでいるのだろう、と思いながら。

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