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7話

 暖炉の火は消えていた。

 七生が自分の部屋に戻る時、消していったのかもしれない。カウンタの中は無人で、もう暗かった。しかし、空調のためか、適度に温かい。

 カウンタの前にはまだ客が残っていた。白津透である。

 琥珀色の液体が注がれたロック・グラスが手元にあり、片手で煙草を持っている。彼女も吸うのか、と利玖は驚いた。一日行動を共にしたけれど、一度もそんな素振りを見せなかったからだ。

「おや、これは……」透が、利玖に気づき、煙草を灰皿に押しつけようとする。

「お構いなく」利玖は片手を前に出して広げた。「煙草の煙は嫌いじゃありません」

「ああ……、そういえば、お兄さんもヘビィ・スモーカでしたね」

「うちの男系は、そうなるようです」利玖は階段を下りて、数時間前と同じ椅子に腰かける。「わあ……、チェスですか?」

 カウンタの上に、さっきはなかったチェス盤が置かれていた。白と黒の両陣営が盤の中央に駒を展開している。ビショップもナイトも、二つとも残っていて、これから勝負が始まる局面のように見えたが、透は煙草を咥えると、両手で駒を動かして、盤の両端に戻してしまった。

 利玖は、ちらりと透の横顔を見て、チェス盤に目を戻し、それからもう一度透の顔を見て、

「あの……」と声をかける。「すみません。お邪魔でしたでしょうか」

「え?」透は虚を衝かれたように瞬いた後、チェス盤を見て、ああ、と言った。「いえ、違いますよ。ちょうど終わったところだったんです」

「でも、駒がまだ、たくさん残っていますが……」

「こんな風に、序盤でチェックメイトがかかる展開もあるんですよ」

 透は、微笑んで煙草を口元へ持っていく。

「史岐さんもヘビィ・スモーカだ」

 突然、彼女はそう言った。

「もし、仮にですよ……、史岐さんが佐倉川家に婿入りされるような事になれば、この場合、男系の法則は維持されると言えるんでしょうかね?」

 利玖は息を止め、じっと透を見すえる。

 挑戦的な態度は明らかだった。しかし、このタイミングで打ち出された狙いが分からない。

 酔って、つい口を滑らせたのだろうか。だが、駒を移動させる手の動きは正確だった。

 利玖は、考えた末に、ゆっくりと首をふる。

「兄がいれば、当代の証明には十分です」

「史岐さんの煙草は特注ですよね」透は、利玖の回答を無視して、カウンタに置かれた煙草の箱を指で叩く。「市場に出回っているものではない。ひょっとしたら、未取得のライセンスがあるかもしれない。潟杜を離れて……、例えば、東京、あるいはもっと遠い、海外などでお仕事をされる事になっても、調達出来るものでしょうかね?」

 冷たい指を(みぞ)(おち)に押し当てられたような気がした。

 代々、当主が自らの喉に妖を寄生させるという特殊な立場を守るために、史岐の生家は特注の煙草を生み出した。それを吸っている限り、『五十六番』は勝手に宿主の体から出て行ってしまうような事はない。しかし、宿主も──史岐もまた、煙草を手放す事が出来なくなる。強い依存性があり、長い間吸わずにいると、日常生活すらままならない症状を引き起こすのだ。

 もしかしたら、透は、それを解決する手段を持っていて、自分に商談を持ちかけているのだろうか?

──否、それは考えにくい。彼女にとって実のある取り引きであるならば、もっと友好的に切り出したはずだ。

 利玖は長々と息をついて、頭をふる。

「やめましょう。こんな話をしに来たのではありません」

「と、言いますと?」

 利玖は、答えようとしたが、どう説明して良いかわからずに、わずかに口を開けたまま眉をひそめる。

 すると、透が、

「お部屋に何か出ましたか」

と訊いた。

「え?」利玖は目を丸くする。

「わたしが何で商売をしているとお思いですか?」透は不敵な表情で眼鏡の縁に指を当てた。「ここは、建築材からティー・スプーン一本にいたるまで、英国由来のものばかりです。それを丁寧に手入れして、何十年も使い続けている。外がこんな状況なので、お見せ出来ないのが残念ですが、庭も見事なものですよ。だから、非常に珍しい事に、向こうのもの達も棲むんです」透は身を乗り出してロック・グラスを掴む。「小人ですか? 妖精? それとも……」彼女は片手の指を丸め、ひょいと何かを招くような仕草をした。「猫?」

「猫は、別にどこにでもいるでしょう」

 史岐の事を考えるのは一旦止めにして、利玖は部屋で見たものを語った。

 透は、時々ロック・グラスを口に運びながら、無表情でそれを聞き、

「ふうん……」と呟いて白のポーンを指に挟んだ。「ヤマブドウの精ってところでしょうか」

「すべての植物に、それぞれの精がいるのですか?」利玖が一番気になっていたのは、その事だった。

「いえ、そういう訳ではないでしょう」透は首を横にふる。「精が宿るのも、それに個々の意識と体を与える事が出来るのも、相当数の世代を重ねた一握りの株だけです。わたしが見た事があるのは、バラですが、そういえば、森に近い所では、ヤマブドウがたくさん実っていましたね」

「嵐と一緒に良くないものが来たから、夜の間は外に出ないように、と言われました」利玖はカウンタに手をついて、身を乗り出した。「白津さん、夕食の後、庭を見に行かれていましたよね。そういった痕跡がありましたか?」

 透はカウンタに肘をつき、最初に進めた白のポーンを、黒のどの駒で迎え撃つか思案しているような素振りだったが、しばらくすると、体ごと利玖に向き直って、

「何かがやって来た形跡はあります」と言った。「庭に出たのも、その確認のためでした。ただ、今は行方をくらましている。どこか別の所へ行ったのか、気配を遮断しているのか……。ヤマブドウの精がわざわざ忠告しに来たという事は、ひょっとしたら、後者かもしれません」

「庭のどこかに潜んでいる、という事ですか?」

「おそらく」透は頷く。「ですが、彼女達に言われたとおり、ホテルの中にいれば安全だと思いますよ。妖精達にとっては、自分達の住み処を手入れしてくれる人間が住む場所です。おいそれと手出しはさせないでしょう。それに、元来、家というものは、その形を成しているというだけで、ある程度の守りの機能を発揮するものです」

「ヤマブドウの精が、外から窓を開けて入ってこられたのは、彼女達に害意がないという証拠ですね」

「そう考えてよろしいかと……」透は、じっと利玖の目を見つめる。「しかし、油断はなさらない方が賢明です。彼らも一枚岩ではありません。同じヤマブドウの精であっても、貴女に対して、良くない感情を持つものがいるかもしれない。あるいは、好意を示すために取った行動が、結果的には貴女にとって、有害なものとなる可能性もあります」

「ええ、わかっています」利玖は頷いた。「彼らは、わたし達とは、違う(ことわり)の中で生きている。そんな所で、我々に出来るシミュレーションなんて、限られています」

「それをご理解頂いているのであれば、大丈夫です」透は微笑んだ。「現場を調べて、わかった事ですが、ここに来たモノは、かなり衰弱しているようです。ホテルの中まで強引に侵入してくるような事は出来ないと思います」

「あ、じゃあ……」利玖は、ようやく思い出した。「今、三号室の窓が少し開いているのです。それも閉めた方が良いですね?」

「ああ、ヤマブドウの精が通ったんですね」透は軽く頷いた。「ええ、問題ないと思いますよ」

「わかりました」利玖は立ち上がる。

「あ……、もう、お休みになられるのですか?」透が、なぜか、慌てたように腰を浮かせる。「何か、こちらに下りてこられた用事があったのでは?」

 利玖は、彼女の顔を見つめ、それからゆっくりと首をふった。

「眠くなるまで、ベッドの中で考えられる事を見つけようと思って、下りてきたのです。もう済みました」

「はあ……」透は、目を瞬かせる。

「おやすみなさい」利玖は、そう挨拶をして、彼女に背を向けた。

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