6話
利玖はそれから三十分ほど会話を楽しんだが、結局、自分のためのカクテルは一杯も頼まずに自室へ戻った。
いくらあらすじを知っているとはいえ、すべて英語で書かれた本を読むのは体力の消耗が大き過ぎた、申し訳ないが一足先に休ませてほしい、と話し、許可を求めた。二人とも反対などしない事はわかっていたが、二十二時前というやや早い時刻に自室に戻る事と、カクテルを一杯も注文しなかった非礼を詫びるニュアンスをそこに込めたつもりである。オーナである頼造氏にもう一度会う事が出来たら、きちんとお礼がしたかったのだが、残念ながらその機会はなかった。
透と七生は、互いにとても心を許しているようで、傍から見るだけでも強い信頼関係があるのを感じる事が出来たが、だからといって、場違いな空気に耐えていた訳ではない。むしろ、その逆で、ずっと心から楽しい気分で笑っていた。
フランクな口調で、つい興味をそそられずにはいられない話題に次々とアプローチ出来る透と、寡黙なバーテンダーの役割に徹しながら、絶妙なタイミングで相槌を打つ七生のタッグが強力で、想定よりも四十パーセントほど多く自分の事を話してしまった。アルコールを飲んでいたら、カウンタの前に座っていた時間も同じくらい延びていたかもしれない。頼まなくて正解だった、と利玖は自分の決断を再評価して、ベッドの端に腰かけた。
泥酔を危惧した訳ではない。
そこには、なぜか妙な自信がある。
元々、アルコールによる負の影響が極端に出にくい体質ではあったが、いつからかそこに、蝋燭の芯みたいな確信が加わった。どこでそんなものが生じたのか、奇妙な事だが、よくわからない。まるで、夢の中で仮面をつけた人物に囁かれた言葉のように、ディティールがすっぽりと抜け落ちている。もしかしたら、本当に夢で聞いただけ、つまり、自分で都合の良いように思い込んでいる事なのかもしれない。
とにかく、あの特徴的なグラスに後から注がれたのが、コーヒーではなく、ウィスキィや、それと同じくらい度数が高い酒でも、一杯なら酔わないという計算が出来る。
しかし、七生がアイリッシュ・コーヒーを作った時の一連の動作が、どこか別の星に降り立った時にだけ見られるショート・スケッチのようで、自分がそれに注文をつけるだなんてとんでもない事だ、という思いが最後まで払拭出来なかった。バーの客として椅子に座っておきながらとんだ失礼だ、とは思ったが、このカクテルならば、アイリッシュ・コーヒーの余韻を打ち消すには至らないだろうと思って頼むのは、もっと失礼な真似だと思った。
いつか、熊野史岐と一緒に、ここに来る事が出来たら。
その時は、自分のためにアイリッシュ・コーヒーを作ってもらおう。それまでは、どのバーでもアイリッシュ・コーヒーは頼まない。大事に仕舞っておくのだ。
そう決心して、利玖は立ち上がり、枕元にあるサイドテーブルに近づいた。
英国の古民家に倣ったこの部屋で、際立って異質なものがそこにある。ブランドのロゴがプリントされた、プラスチックみたいに硬質な白さのショッパだ。プラム・ポマンダ・ホテルに泊まる事になった経緯を、まだ史岐に知らせていない理由の最たるものがこれである。
彼に贈るプレゼントを買うために群馬との県境付近まで出かけて行き、天気が急変したせいで帰る事が出来なくなったと教える事に、何の意味があるというのか。プレゼントの価値に結びつくとは思えない。
それに、想定外とはいえ、思いがけず素敵なホテルに泊まる事が出来て、利玖は今のところ何の不満もなかったから、愚痴を聞いてほしいという気分でもなかった。
ただ、彼の声で、なぜそんな所にいるのか、と訊かれた時、たとえ電話越しであっても、自分はきっと嘘がつけないのだ。
利玖はため息をつき、ベッドの上へ仰向けに倒れ込む。
当初の予定では、四日前の火曜日に手に入れているはずだった。社会人になった後でも使えるものを、と意気込んで、講義が終わった後、自転車で潟杜駅前のショッピング・モールまで出て行ったのだ。
城下町として発展してきた潟杜市街の中心部にあるため、規模としては杏嶌ショッピング・プラザの足元にも及ばない。しかし、中は綺麗で明るく、モダンな印象である。近隣に高校や大学があるためか、ミドル・ブランドのテナントの他、スポーツ用品店や輸入雑貨の専門店、カフェなども入っている。
地下も含めて、すべてのフロアを見て回り、プレゼントの候補となりそうなアイテムの値段と売り場を覚えた後、カフェに入ってそれをメモに書き出した。レモンティーを頼み、それが運ばれてくるのを待つ間も、届いたレモンティーを味がよくわからないまま飲んでいる間も、ずっと、どれが一番相応しいかを考えていたが、年上の男性にこういった立場から贈り物をするのは初めてで、さっぱり絞り込めなかった。
そこに、白津透が現れたのである。
目の前が急に暗くなり、何事かと視線を上げたら、見知った顔が至近距離で微笑んでいたので、跳び上がりそうなくらい驚いた。カフェが外の道路に面した硝子張りになっている事も、自分が座っているのが最も目立つ窓際のカウンタ席である事も、その時、初めて気がついた。
だから、最初に何と声をかけられたのかも覚えていない。透からしてみれば、硝子越しである事は明白なのだから、初めから何も言っていなかったのかもしれない。
透は、にっこりと笑顔を作った後、隣に行ってもいいか、と訊ねるジェスチャをし、利玖はこくこくと頷いた。
透とは、そこまで親しいという訳ではない。向こうはだいぶ前から、自分の事を知っていたかもしれないが、実際に会って話したのはつい数週間前だ。今月の初め、ゴールデンウィークで講義のなかった間に利玖はアルバイトをした。それは、作家・井領欣治の遺品を整理するというもので、途中からは兄の匠も作業に加わったのだが、作業の終わりが見えてきた頃、彼らの庭でにわかには信じがたい事態が発生し、その解決のために白津透が呼ばれたのである。彼女は、花筬喰という組織に所属する調査員だった。
花筬喰という組織の全貌を、利玖はまだよく知らない。そこに所属しているという人物に、これまで三人ほど会った事があるが、いずれも年格好はばらばらで、家族経営という風には見えなかった。それぞれに得意分野があった事から、ある程度大きな規模の組織で、豊富な人材を揃えている事を窺わせるが、ホームページでそれを宣伝している訳でもない。
一つ確かに言えるのは、彼らが対処し、時には商品として扱う対象が、もののけや妖と呼ばれる異形の存在、あるいは、彼らによって引き起こされる現象であるという点だ。
白津透も、利玖にとってはまだ謎が多い人物だが、知的で、エネルギッシュな印象があり、花筬喰内でもそれなりに高い地位にいるような雰囲気である。
透はカフェに入ってきて、ホットのコーヒーを注文した。一人で来ているのか、というような事を訊かれたので、利玖は、史岐へのプレゼント選びに手間取っている事を、至極真面目に、詳らかに打ち明けた。考え過ぎて頭が茹だっていたのかもしれない。
しかし、透は少しも茶化さずに、最後まで話を聞き、
『それなら、思い切って、杏嶌ショッピング・プラザで選んでみませんか?』と提案した。『今週の土曜日は、いかがです? わたしの運転で良ければ、ご自宅までお迎えに上がりますよ』
利玖はびっくりした。メモを見てもらい、アドバイスしてもらえたらありがたい、という程度の気持ちだったのである。
一度は断ろうとしたものの、透は「ここで会ったのも何かの縁」「自分もそろそろ行きたいと思っていたからちょうど良い」と熱弁をふるい、ついに利玖は、その提案を受け入れた。このショッピング・モールで駄目ならば、きっと潟杜市内では見つからないだろう。通販で買うのはもっと不安だ。
せめて、彼女を一日雇うための料金と交通費は支払わせてほしいと申し出たのは、この時である。利玖の方から言い出した事だったのだ。兄とどんな繋がりがあるのかは知らないが、自分は、まだ一度しか会った事がないのに、無償でそこまでしてもらうのはかえって落ち着かなかった。
そうして、透の車に乗り込んだのが、今朝の八時半の事。前に会った時には、社用車なのか、ずんぐりむっくりとした白いバンを運転していたが、今回はスポーティなスカーレットのセダンだった。彼女のイメージにも、また杏嶌という土地にも、そちらの方が良く合っている。
史岐の人となりについて、一から説明しなくて済んだのはありがたかった。彼の喉には、花筬喰が管理する『五十六番』という妖が寄生している。代々、それを受け継ぐ家系なのだ。花筬喰の調査員である透も、顔と名前と、おおまかなプロフィールは知っていた。
それさえ共有していれば、あとは言葉にする必要がない。早朝にこっそりと潟杜を出て、杏嶌に向かっている理由が、彼に贈るプレゼントを買うためなのである。
それに、利玖の生家・佐倉川家も、妖と関わりのある旧家である。自分と彼の関係は、もしかしたら、花筬喰の内部ではとっくに広く知れ渡っている事なのかもしれない。
硝子張りのカフェで契約を結んだ時、予算と方向性は伝えてあったので、透はあらかじめ、見て回る店の数を七つまで絞り込んでいた。あとから調べてわかった事だが、杏嶌ショッピング・プラザに出店している店の数は、二百をゆうに超える。利玖が何の準備もなしに行っても──否、準備をした上で行っても、一人では到底太刀打ち出来なかっただろう。
車中でも退屈はしなかった。透の運転は非常に精確で、安心して乗っている事が出来たし、オーディオから流れる曲も、年代は少し古いのだが、総じて懐かしく、利玖の好みに合っていた。
潟杜を出て一時間も経つ頃には、緊張も解けて、透も様々な話をしてくれるようになった。
森で採集の仕事をしている時、遠くでこちらを見ていた生きものが、どんな図鑑にも載っていなかった事。とある遺物が出品されるオークションに参加するため、ヨーロッパ某国に潜入し、何とか手持ちの資金で競り落としたものの、その後、追っ手をかけられて街中を逃げ回る羽目になった事。どれも、夢中で聞き入ってしまうような話ばかりで、話し方も実に巧みだった。
利玖もつられて、色々な事を話した。
井領家の長女・藍以子が、自分だけに明かした事実。アルバイトの報酬はそれなりの額になったが、藍以子の話を聞いた後では手をつける気になれず、当座の生活費として使い切る事にして、代わりに、何かあった時のために貯金をしている別の口座から、プレゼントの代金を引き出した事。
卒業した後は、おそらく、潟杜を出て行く史岐のために、少々値が張っても構わないから、記念になるものを贈りたいという事。
『え?』透はそこで、驚いたように瞬きをした。『もう内定が? ずいぶん早いですね』
『いえ……』利玖は首をふり、自分の膝を見下ろした。『あの、変な話だと思われるかもしれないのですが……』
『思いませんよ、そんな事』
利玖は、少し躊躇ったが、話す決心をした。
『史岐さん、ずっと髪が長かったんです。あの、わたしみたいに、まっすぐ伸ばしているという訳ではないですよ、男性の髪型としては、という意味です』
『ええ、そうですね』透は頷く。『何度かお見かけした事があります』
『でも、切ってきたんです。さっぱり、爽やかになりました。それを見た時に、あ、どこか、別のところへ行くんだな、と思ったんです』利玖はさらにうつむき、声も小さくなった。『全然筋が通っていないから、誰にも……、史岐さんにも話していない事なのですが……』
『いえ、そういう事って、あると思います』
透の返事はそれだけだったが、利玖は話した事に後悔はなかった。それまでの声とは違って、まったく装飾がなく、その分、芯があるように感じられたからだ。真剣に受け取ってくれたのだ、と肩の力を抜く事が出来た。
ほぼ予定どおりの時刻に杏嶌ショッピング・プラザに到着し、リスト・アップされた店を見て回った後、二番目に入った店でプレゼントを買った。その頃には、ちょうどランチ・タイムが始まっていて、二人は飲食店が集まるエリアへ移動し、中華料理の店に入った。
とびっきりの一等地に出店しているだけあって、内装もメニューも、贅を尽くした見事なものだったが、照明効果を最大限にするためか、窓がほとんどなかった事が、この時ばかりは災いした。食事を終えて出てくると、外は、盥をひっくり返したような土砂降りになっていたのだ。
何組もの買い物客が、ショッパやバッグを抱えて慌ただしく駐車場の方へ駆けていく。
それを見て、透が、つっと眉をひそめ、空を見上げて険しい表情になった。
『ちょっと失礼』と言って、彼女は物陰で端末を開いた。天気の情報と、それによる道路や交通への影響を調べ、その結果、午前中に通ったルートが悪天候による通行止めになっている事が判明した。
大きく迂回すれば、今日中に潟杜に帰り着く事は可能かもしれない。しかし、そのルートも、いつまで開放されているかわからない。いつ、どこで天気が急変するか読みにくい状況だった。線状降水帯が発生していたのである。
透は、重要な決断をした。焦って移動するのではなく、天候が回復するのを待って、今夜は杏嶌で一泊する、というものだ。プラム・ポマンダ・ホテルの名を、利玖はこの時初めて聞き、そして、その提案を受け入れた。幸い、買いものには困らない場所にいる。急いで、着替えや化粧品を買い足して、刻一刻と激しさを増す雨の中を、プラム・ポマンダ・ホテルへ向かったのである。
シーツの柔らかさを頬で感じながら、利玖は寝返りをうち、サイドテーブルの方へ顔を向けた。
二番目の店はメンズのミドル・ブランドで、利玖が選んだのは、一組のカフス・ボタンだった。シンプルな四角錐のデザインで、ややもすると鋭すぎるほどシャープな印象だったが、つややかな黒色が美しかった。近くにいた店員が、少しデザインが違っていたが、同じシリーズのカフス・ボタンを着けていて、コーディネートや着用シーンについて、利玖にもわかりやすいように説明してくれた。
史岐にならば、きっと似合う、と思ったのが半分。
だけど、残りの半分は、かすかに紫がかった深い黒色の石に、利玖自身が惹き付けられたからだ。ヤマブドウのようにみずみずしく、混じり気のない色だった。
子どもの頃、実家がある山でよく見かけたような……。
いつの間にか、短い眠りに落ちていた。
チリチリと鈴を転がすような音が耳のそばで聞こえて、利玖は目を開けた。
視界全体がぼんやりと白い。
少し眩しいくらいだった。
こんな色のシャンデリアだっただろうか、と考えた時、その光源が、すうっと浮上しながら後ろへ飛んだ。
『起きたわ』
小さな声がした。
少女のように無邪気で、楽しそうな声だった。
すると、枕の後ろ、サイドテーブルの引き出しの上、シーツの端など、あちらこちらに同じような光が現れた。
『人の子が目を覚ましたわ』
『ライゾウとナナミのお客さんね』
『いいえ。トオルが連れて来たのよ』
『でも、ナナミがもてなしたわ』
『ここに来るのは初めてかしら?』
あっけにとられて、利玖が身を硬くしていると、光の一つが再び顔の前まで飛んできた。今度は目のピントが合い、それが、全身に光を纏った、透きとおった翅を持つ小さな人間だとわかった。
髪は深い緑色で、ウェーブしており、蔓のような飾りが絡みついている。精巧なドールのように大きく、きらきらと光る瞳は、ヤマブドウの実と同じつややかな紫色だった。
『わたし達の事を思い浮かべて、美しいって思いながら、眠りに落ちてくれたでしょう?』彼女は手を伸ばし、利玖の前髪をちょん、とつつく。『ねえ、ちょっと起きて、顔をよく見せてくれない?』
利玖は起き上がり、服を整える。髪を払うふりをして、チョーカーに触れようとすると、そこら中でくすくすと笑う声がした。
『そんなに怖がらないで。わたし達、ヤマブドウと命をともにしているだけ。何の力も持たないの』
利玖は慌てて手を下ろし、頭を下げる。
「すみません、無礼な真似を……」息を吸い、姿勢を正す。「佐倉川利玖と申します。白津透さんの、えっと……、お友達です。嵐のため、こちらでひと晩、休ませて頂く事になりました」
『そう。この嵐は良くないものを連れて来た』彼女が首をふると、また、あの鈴のような小さな音がして、髪飾りがきらめいた。『夜が明けるまでは、外に出たら駄目。わたし達の庭で誰かが死ぬのも、ナナミのお客さんが痛い目に遭うのも嫌だわ』
彼女が翅を動かしてベッドを離れると、他の光もそれに続く。ひとまとまりになった光の群れは、やがて、窓の下で、するりと闇に引き込まれるように消えた。
利玖は、立ち上がり、しばらくその一点を見つめた後、思い切って大股で歩いて近づいた。
窓の下の部分が少しだけ開いている。その隙間から出て行ったようだ。開けた覚えはないが、そういえば、鍵がかかっているのか、わざわざ確かめる事もしなかった。
外はまだ吹き降りの雨で、窓枠に触れている手も、あっという間に水滴で濡れていく。
本当に存在しているものだったのか。
部屋の雰囲気に圧倒されて、夢の続きを引きずったのか。
そんな事は、もはや疑っていなかった。この一年の間に似たようなものを幾度となく見ている。
ただ、この窓を閉めるべきかどうか、迷っていた。雨粒が入ってくるし、夜気で部屋も冷える。防犯の事もあるし、閉めた方が良いのだろうが、自分の身を案じて警告をしてくれたもの達の通り道である。
一階のラウンジに、妖精について書かれた本もいくつかあったのを思い出して、それを読みに行く事を閃いた。
時計を見ると、二十三時。廊下にはまだ明かりが灯っている。暖炉の火が残っているかどうかは五分五分だが、全館消灯されていないのなら、希望がある。
利玖は窓をそのままにして、シャンデリアを消し、部屋を出た。




