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5話

 ホテルへ戻り、荷物を置いて再び一階へ下りていくと、バー・カウンタの中に七生がいた。彼女が作ったカクテルが飲みたいと言った事を、覚えていてくれたのだろう。グラスを磨いていたが、透に気づくと、目の前の席を示して微笑んだ。

「おかえりなさい」そう言って、メニュー・ブックを差し出す。「何かお作りしましょうか?」

「うん、お願い」透は椅子に座って足を組み、メニュー・ブックを開いた。「えっとね、もうちょっと起きていたいんだ。ぐっと目が冴えて、芯からあったまるようなやつ、何かあるかな?」

「では、アイリッシュ・コーヒーなどはいかがでしょうか」

 思わず歓声を上げたくなるくらい、最高の提案だった。他に誰もいないとわかっていたら、本当にそうしていたかもしれない。どこかで、利玖が聞いているかもしれない、あるいは二階でもう眠っているかもしれない、という透のささやかなプロ意識が、それを押し止めたのである。

 しかし、念を入れて、口に手を当てた姿勢で後ろを振り返ると、その先に利玖の姿があった。

 こちらに背を向けた姿勢で、暖炉があるラウンジのソファに座っている。そのソファは、一人掛けなのだが、ウィングバック・チェアと呼ばれる、大きな背もたれと肘掛けがついたタイプで、小柄な彼女の体はほとんどその後ろに隠れてしまっていた。頭と腕の一部だけが見える。

 本を読むのに集中しているようだ。デジタルの端末を見ているような姿勢ではなかったし、時々、頁をめくっているのか、腕が動く。こちらにはまったく顔を向けない。彼女の性格からして、無視というのは考えづらいから、おそらく、透が戻って来た事に、そもそも気づいていないのだろう。

「すごい集中力」透が囁くと、

「原書ですよ、あれ……」と七生が答える。

 透は、七生に向かってわずかに口を開け、そのままの顔で再度利玖の方を見た。

 原書、つまり、全文英語という事だ。

 今どきの大学生は、それぐらい出来て当たり前なのだろうか。とんでもない事だ、と思いながら凝視していると、さすがに何か感じたのか、利玖が伸び上がるようにして振り向いた。透を見つけ、会釈をする。

「すごいですね」透は椅子を回転させて利玖の方に向き直った。「読めるんですか? 向こうの英語は、たまにスペルも違いますよね」

「読めません」

 利玖はあっさりとそう言って、読んでいた本の表紙を透に見せる。世界で最も有名な私立探偵の名前が、凝ったフォントで強調されていた。

「和訳されたものを、昔、読んだ事があります。それと照らし合わせながら読んでみるのも面白いかと思って……」

 そこで、透の視線に気づき、利玖は首を横にふる。

「丸暗記している訳ではありませんよ。兄のあれは、彼特有の才能です」

 彼女の兄の名は、()(くら)(がわ)(たくみ)。透のクライアントの一人である。元々、そちらの繋がりが先にあったから、利玖とも知り合う事が出来たのである。一度読んだ本の内容を完璧に暗記出来るという噂を人づてに聞いた事があったが、どうやら事実らしい。

 利玖は本を棚に戻し、カウンタの前にやって来た。

「カクテルですか?」

「ええ」透は七生の方に手を差し向ける。「利玖さんもいかがですか? 彼女、修業は東京の老舗ホテルですから、一流ですよ」

「そんな事は……」七生は、はにかみながら、透が持っているメニュー・ブックを手で示す。「お好みのものがあれば、お作りしますよ」

 利玖は透の一つ右の椅子に座り、カウンタの内側に並んだ酒瓶をひととおり眺めてから、透の顔を見た。

「白津さんは何をご注文されたのですか?」

「アイリッシュ・コーヒーです」

 利玖はわずかに首をかしげる。どんなカクテルなのか知らないようだ。

「名前のとおり、コーヒーが使われますが、ウィスキィがベースのれっきとしたカクテルですよ」透は、準備をしている七生を横目で見て、口もとを斜めにした。「よかったら、作るところをご覧になられては? 決めるのはそれからでも遅くないと思いますよ」

 七生がカクテル・グラスをカウンタに置く。

 深さがあり、ステムの途中に装飾的な膨らみがある、そのグラスに、粗目の砂糖を入れ、半分ほどの高さまでウィスキィを注いだ。

 アイリッシュ・コーヒーを作る時によく用いられる、このグラスには、セットになっているスタンドがある。ステムの装飾が引っかかるので、四十五度ほど傾けた状態で静置する事が出来るのだ。

 スタンドの内部には、小型のアルコール・ランプが内蔵されているのだが、言われなければ、そうとはわからないだろう。事実、七生がスタンドにグラスを置き、ライタで火を灯した瞬間、利玖が小さく息をのむのが聞こえた。

 カクテルを作る時の七生の所作にはほとんど音がない。それなのに、ここぞというところで、ひと晩忘れられないような音が鳴る。この時も、金属製のライタの蓋を閉める音だけが、あどけない天使が落としていったベルのように響いた。

 火で熱しながら、少しずつグラスを回し、中の砂糖を溶かし切る。それが終わると、七生はさっとグラスを取り上げ、開口部を火にかざした。

 途端、グラスの内部、ウィスキィで満たされていない空洞の部分にぽうっと青い光が生まれた。ウィスキィに火が反応したのだ。

 七生は指でステムを持ちながらくるりとグラスを回し、カウンタに置いた。透の正面になる位置だが、まだ火が残っているためか、距離は遠い。その真上で、銀のカップが傾けられ、淹れ立ての熱いコーヒーが、詩の情景に立ち現れるような寂しい色の火を消した。

 最後に、少しのクリームがぴったりと蓋をして、カクテルは完成した。

 目の前にグラスを差し出された後も、透はしばらく、切なさで胸がいっぱいになって、それを手に取る事が出来なかった。ようやく、手を伸ばし、ステムに指を添えるが、そこでまた動けなくなる。

 隣に目をやると、利玖が最初と同じ姿勢のまま、わずかに目だけを大きくしていた。頬を紅潮させ、高揚が顔に表れている。

 やがて、利玖は両手を胸の上でそっと重ねて息をつくと、

「すごい」と小さな声で言った。

「ええ、本当に……」透はゆっくりと頷く。「毎回、飲むのが勿体なくてしょうがない」

「飲んでください」七生が冗談めかした口調で言った。

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