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4話

 白津透は、安斎頼造に続いて、彼が今歩いてきた通路を逆向きに進んだ。あまり幅が広くないため、レストランのテーブルは、すぐに壁に遮られて見えなくなる。

 突き当たりにある白いドアの前で、頼造の隣に立ってドアノブを握る。開けても良いか、と目で問うと、頼造は誰もついて来ていないのを確かめてから頷いた。

 ドアノブをひねり、そっと肩で押すようにして開けた。

 ドアを押している肩と腕、そして顔がわずかに外に出る。その程度の隙間からでも、雨が吹き付けて眼鏡のレンズに水滴が飛んだ。

 所々、ピントの合わない戸外の闇に、透はじっと目を凝らし、十秒ほどでドアを閉めた。

 振り返ると、頼造がポケットティッシュを差し出している。中身を抜き取りやすいように、ミシン目の部分を切ってあった。

「ありがと」透は礼を言って、それで眼鏡のレンズを拭く。「あからさまにやばいのはいなさそうだけど、一応、調べてみる? 最低限の仕事道具しか持ってきていないから、あまり精確な検査は出来ないけど」

「ああ……」頼造は深刻な表情で頷いた。「すまん、頼めるか」

「わかった」透は眼鏡をかけて、髪を払う。「じゃ、ちょっと待っててね」

 今、閉めたドアの左側に目立たない階段があって、二階へ続いていた。透はそれを上り、廊下をまっすぐ歩いて一号室へ向かう。この経路なら、まだレストランにいる七生や利玖には会わずに済む。

 部屋に入り、ダイヤル錠付きのケースを開け、検査に使ういくつかの道具をコンパクトなポーチに移して、また同じ階段を使って下りた。

 階段の下では、頼造が二人分のレイン・コートを用意して待っていた。それを着て、一緒に庭へ出る。この庭は、夜でもライト・アップされないため、ホテルの窓から漏れる明かりと、頼造が持っている懐中電灯が頼りだった。

 歩きながら、透は頭の中で、庭の全貌を思い浮かべる。中央に小さな池があり、そこに可愛らしい橋がかかっていたはずだが、今はどちらも闇に沈んでいる。ただ、今歩いているのは、庭のほぼ左端に沿って伸びている小道だから、落ちる心配はないだろう。

 裏手にある森の方へ近づき、そろそろ敷地の外に出てしまうのではないか、という所で頼造が立ち止まった。

「ここだ」

 懐中電灯の明かりが上へ動き、一本の木を照らした。

 古いミズナラの大木だ。一部の枝葉の先端は庭の上まで張り出しているが、ガーデニングに使うには大き過ぎるため、元々森に生えていたものだろう。根元にあるのも、森本来の植生、人の手が入っていないただの草地だった。こんな場所には、客もスタッフも立ち入らないはずだが、その草地には、明らかに巨大な何かがいた形跡があった。否、ただうずくまっていた、というだけではない。狂ったように暴れ、もがいたように、あちこちで地面がえぐれ、草と泥がかき回されていた。

「昼間、七生に頼んで、この辺りに置いていた鉢植えを物陰に移してもらったんだ。予報で、天気が荒れる事はわかっておったからな。儂は、排水溝が詰まらんように掃除したり、丈のあるやつを養生して回ったり、まあ、山ほどやる事があって、ほとんどそっちを手伝ってやれんかった。昼過ぎにようやく一区切りついて、茶でも淹れようと思って呼びに来たら、ひどい顔で立っとった」

「七生ちゃん、まだ()えるの?」

「昔のように大泣きしたりはせん」頼造は首をふる。「おまえさん方にも、絶対に気取らせんだろう。あいつもプロだからな。だが、儂は顔を見れば、何となくの事はわかる」

「そうだね」

 透は懐中電灯を借り、草地をざっと眺めた後、レイン・コートのファスナを少し下げた。そこに片手を突っ込んで、斜めがけにしていたポーチを胸の前までずらす。

「ちょっとの間、消してもらっても良い?」頼造を振り返り、懐中電灯を返しながら訊ねる。

「構わんが……」頼造は片方の眉を上げた。「大丈夫か? 何も見えんようになるぞ」

「うん、一瞬だけね」

 透はポーチを開けて、薄型のゴーグルを取り出し、それと眼鏡を着け替えた。外した眼鏡はポーチの中へ仕舞い、もう一つ、白いプレートのような道具を取り出す。プレートは、上下で二層に分かれており、側面のスライド・スイッチを押すと、固定が外れてオペラ・グラスのような形に展開した。

 オペラ・グラスであればレンズがあるべき位置に組み込まれているのは、ストロボのような発光装置で、開いたプレートを前方に向け、内側の小さなボタンを押すと、眩しい光が点灯した。

 初めは白色の光で、ボタンを押すたびに色が切り替わる。透は、照射する光の色と、それに対応するゴーグルのつまみを調整して、草地に残った痕跡を調べた。三分ほどで光を消し、ゴーグルも外す。

「血は出ていないね」透は、再び眼鏡とゴーグルを取り替えて、プレートは元どおりにたたみ、ポーチに仕舞ってレイン・コートのファスナを上げた。「それに、一匹しかいない。ここで派手な喧嘩をした訳でもなさそう。でも、体液の反応はあるから……」

 透は、まったく勢いの衰えない雨が顔に打ち付けるのも構わずに、空を見上げた。

「消化液かなぁ……。この嵐の中でもまれて、目を回して、ここに落っこちたのかも」

 透は草地に目を戻し、ふっと息をついた。

「何にせよ、この痕跡は三時間以上前のもの。もうどこかへ行っちゃっていると思うよ」

 透は、じっと黙ったまま、思案顔で草地を見つめている頼造に向かって、かすかに首をかしげた。

「心配?」

 頼造は、無言のまま頷く。

「なら、楽観視しない方が良い」透はきっぱりと言った。「ここの(あるじ)は、おじいちゃんだもの。おじいちゃんがそう感じるのなら、何か、理由があるんだよ。痕跡が残らないようなやり方で隠れているか、もしかしたら、誰かに匿ってもらっているのかも」

「そうだな……」頼造は腰に手をやり、つかの間、空を見上げてから、疲れた様子で首をふった。

「嵐の晩や、凍えるような夜明けには、正体のよくわからんものが森の端をうろついているのを見かけるし、ホテルの中でも、たまに不思議な事が起こる。それくらい、とっくに慣れちゃいるが……」頼造は、暗い表情でホテルの方を振り返った。

「こっちに来てから、七生があんな風に怯えるのを、初めて見たんだ。おまえさんの言うとおり……、ああ、やっぱり、胸騒ぎがするよ」

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