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2話

 二人とも宿泊カードを書き終え、設備や食事の提供について説明を受けた。

 客室の扉はオートロックではない。今夜は利玖と透の他に宿泊客はいないが、防犯のために、部屋を出る時には必ず鍵を持ち、施錠をするように頼まれた。

 共用の大浴場はなく、すべての部屋がユニットバスである。この点について、七生から謝罪に近い丁寧な断りの言葉があった。利玖は、ホテルの外観を見た時から、たぶんそうだろうと予想がついていたので、さして驚きもしなかったのだが、日本ではなかなか受け入れられない文化なのかもしれない。

 食事はロビィに隣接したレストランで提供される。夕食の開始時間について、希望を訊かれ、二人は三時間後の十八時半を指定した。それなら部屋でシャワーを浴び、ゆっくりとバスタブに浸かっても、まだ時間に余裕がある。

 七生から、それぞれの客室の鍵を受け取って、フロントの右奥にある階段の方へ進んだ。重厚感のある木製で、なめらかな質感の手すりがついている。

 途中で、右下を見てみると、そこは暖炉を備えたラウンジになっていた。落ち葉のようにカラフルなソファがランダムな配置で並んでいる。壁際の本棚にずらりと本が並んでいるのを確かめて、利玖は階段を上った。

 プラム・ポマンダ・ホテルの客室は、全部で四つしかなく、それがすべて二階に集まっていた。

「わたしはここですね」階段を上がって、最初の部屋の前で透が立ち止まる。「利玖さんは……」

 利玖が差し出したキーを見て、透は「三号室ですね」と頷いた。

「一つ飛ばして、あちらです」透は廊下の奥を指さし、振り返って微笑む。「良い部屋ですよ。シャンデリアとバスルームの内装が、特に凝っています」

「お詳しいのですね」

「まあ、ひととおりは……」透はチャーミングに片目をつむって一号室に入っていった。

 利玖も鍵を使って、三号室の扉を開ける。こんなに本格的な洋風のホテルに泊まる機会は滅多にない。過剰な期待をしないように気を引き締めなければ、と思いつつも、待ちわびていた物語の新章を開く時のように胸が高鳴った。

 床を見つめたまま室内に入り、静かにドアを閉める。

 心の中で一からカウント・アップをして、三を数えた瞬間に顔を上げた。

 硝子になる魔法をかけられた花が、輝く金の紐で結び合わされ、ドライ・ブーケのように逆さにぶら下がっていた。

 そう教えられた方がしっくりくるほど、抗いがたい魅力を宿したシャンデリアが、部屋全体に柔らかい光を落としている。

 こんなに精巧な造りのものは、初めて見たが、決して華美ではない。野にある花であれば持ち得ない要素を極限まで削ぎ落としているからだ。よく見れば、光量も心持ち控えめである。

 利玖は感動をコールド・スリープさせるように両手で胸を押さえて部屋の中央へ進んだ。シャンデリアの下を通り過ぎ、反対側の壁際へ近づく。

 窓は、縦長のものが一つだけだった。上下で窓枠が分かれていて、片方をスライドさせて開け閉めするやや古いタイプである。もちろん、今はしっかりと閉まっていて、レース・カーテンが引かれていた。その隙間から、ちょっとだけ外を眺めて、利玖は厚手のドレープ・カーテンを引いた。

 窓の下には、アコーディオンを伸ばしたような白くて平たい器具が置かれている。手をかざしてみると、ふわっとした熱を感じた。これが、七生が話していた、部屋に備え付けのヒータだろう。内部に温水を通して家全体を温める仕組みらしい。教わったとおりにいくつかの設定を変えてみて、問題なく反応する事を確かめてから、元に戻しておいた。

 標高九百メートルの高地に位置する、ここ()(づた)(まち)は、梅雨入り前のこの時期でも月平均気温が十五度ほどにしかならない。霧が発生しやすい条件も揃っており、実際の気温よりも肌寒く感じる日が多いため、年中暖房が動くようにしてあるそうだ。

 早く着替えた方が良い事はわかっていたが、じわりじわりと沁みてくるようなその温もりが、どうにも癖になってしまって、利玖はそばにあるソファに埋もれるように腰かけた。立っていた時よりもヒータとの距離が縮まって、体の前面や顔にもほのかな熱が伝わってくる。しばらく、背もたれに頭をあずけて目をつむっていた。

 五分ほど経ったところで、ようやく動く気になり、買い物袋に手を伸ばす。順番に中身を取り出して、タグを取った。

 服も化粧品も、プラム・ポマンダ・ホテルに泊まる事が決まって、急遽買い揃えたものばかりだったから、色々と足りていないのだが、何とかやりくりするしかない。

 あっという間にすべてのタグを外し終えてしまった。

 利玖は観念して「よいしょ」と呟き、立ち上がる。バスルームを見に行く事にして、入り口の方へ歩いた。あらかじめ電気が点いており、ドアを開けると、中が一望出来る。

 白い床と対比させるように、一つ一つは小さな正方形をした、アネモネの花びらのような薄紅色のタイルが壁に敷き詰められている。蛇口やタオル掛け、シャワー・ヘッドなど、所々に金のパーツが──もちろん、塗装でそう見せているだけのはずだ──使われて、客室そのものよりも豪奢に見える。しかし、調和を乱している訳ではない。むしろ、羽織の裏地に表地よりも派手な柄を忍ばせるような、洗練されたクラフトマンシップが感じられた。

 一点のくすみもなく磨き上げられ、王宮のような輝きを放つバスルームに、利玖はしばらく、石鹸類のチェックをしに来た事も忘れて見入っていた。

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