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10話

 どのくらいの間、そうしていたのかわからない。

 しかし、体感よりもずっと短い時間ではあったようだ。体は相変わらず冷えたままだったし、外の暗さにも、雨の強さにも変化はなかった。

 視界の端で何かが動いた気がして、利玖は我に返った。

 窓に顔を近づける。硝子が曇っていたので、手で拭いて、外に目を凝らした。森の中で、何か、尾を引く箒星のようなものが動いた気がした。

 さっき見えた、あの点のような光だろうか、と思ったが、それはもう最初の位置にはなかった。

 もっと近い。


 庭の中まで入ってきた。


 利玖は咄嗟に立ち上がり、窓から離れようとする。その瞬間、眼球の奥で、神経を何本もまとめてねじられたような痛みを感じて、彼女は呻いた。

(まずい)

──見てはいけないものだったか。

 きつく目をつぶったまま後退し、ベッドに座る。体をひねって、万が一、目を開けても窓が視界に入らないようにした。

 手触りだけで留め具を探り当てて、チョーカーを外し、それを片手で瞼に押し当てる。

 このチョーカーには、(りょう)(らん)(せき)という石が使われている。淡い緑色を帯びたバロック・パールのような見た目で、今年の初めに、とある山のヌシを助けた礼として授かったものだ。その後、別の職人によって、魔除けの加工が施されている。

 元々有している力が非常に限定的かつ漠然とした類のものであり、魔除けの加工がされた今も、その性質に大きな変化はない。だから、こうして目に当てているのも、ほとんど気休めのようなものだったが、時間が経ったのも手伝ってか、少し痛みが和らいだ気がした。

 おそるおそる瞬きをして、視界に異常がない事を確かめ、安堵の息をついた時、足首の内側をするりと柔らかなものが通り抜けた。

「ひゃっ」

 利玖は小さく声を上げて、足を引っ込める。

 見下ろすと、爛々と光る大きな二つの瞳と目が合った。ベルベットのようにつややかな毛並みの黒猫が一匹、ベッドのそばをうろうろしている。しなやかに体を曲げて毛繕いをした後、利玖を見つめて、みゃ、と鳴いた。

「びっくりした……」利玖は呟きながら、両足をベッドの上に持ち上げる。「どこから入ってきたんですか?」

 黒猫は、床に座ったまま、利玖がベッドの上に立て籠もった事に抗議するように何度も鳴いた。そのうちに、シーツの端に頭をこすりつけ始めたので、飛び乗ってくるんじゃないだろうか、とチョーカーを片手に持ったまま構えていると、黒猫は、ぐっと姿勢を低くして、次の瞬間、利玖の傍らに飛び乗ってきた。

「あ、駄目ですよ、土足では……」

 そう言ってみるものの、会ったばかりの猫を持ち上げて移動させるほどの勇気は出ない。

 黒猫はその場でくるくると回った後、シーツの上に置かれた利玖の左手に鼻先を近づけて、匂いを嗅ぎ始めた。

「何も、おいしいものは持っていませんよ」利玖はそう言って手を開く。すると、おいしい、という言葉に反応したように黒猫がぴんと耳を立てた。

 利玖は思わず微笑んだ。

 どのみち、片手では上手くチョーカーを着けられない。右手にチョーカーを持ったまま、利玖は、黒猫の気が済むまで、左手を調べさせてやる事にした。

 黒猫は、首の角度を変え、しきりに匂いを嗅ぎ、次いでおそるおそるといった風で前足を手のひらに乗せる。爪は引っ込められていて、痛くない。

 利玖が、そのままじっとしていると、黒猫は頭を下げて、額を手のひらにすり付けてきた。気持ち良さそうに目を閉じて、喉の奥でごろごろと低い音を立てている。その合間に、時々、ちらっと利玖の方を見た。

「かゆいのですか?」

 そう訊くと、間髪入れずに鳴き声が返ってくる。

 利玖は、自分の左右の手を見比べた。この服にはポケットがついていないので、左手を使わずに撫でてやろうとすると、チョーカーを一度、手離さなければならない。それは、不安だったのだけれど、悩んだ時間は、実の所そんなに長くはなかった。

 黒猫を驚かせないように、静かにチョーカーを膝の後ろに隠す。空いた手で、そっと頬の辺りに触れると、黒猫は待っていましたとばかりにぐいぐい鼻面を押しつけてきた。よほど撫でてほしかったのか、一秒たりともじっとしていない。自分が手を動かさなくてもほとんど用が足りるのではないか、と思った。

 ひとしきり、利玖に撫でてもらったところで、黒猫は満足したように小さく鳴いて起き上がり、背筋を伸ばし、後ろ足で立ち上がった。

「どうもありがとうございました」

 爽やかな、若い男性の声だった。

 利玖は、ぽかんと口を開けたまま固まる。

「サクラガワ・リク様。プラム・ポマンダ・ホテルへ、ようこそおいでくださいました」黒猫は優雅にお辞儀をした。「私は、アールと申します。今夜ひと晩、貴女を〈猫の王国〉にてお守りするよう仰せつかり、お迎えに参りました」

 そこで急に、黒猫──アールの姿が消えた。

 かと思うと、今いた位置とは反対側の、利玖の右半身の影の中から現れる。

「我らは、音もなく闇の間を行き来するケット・シー。突然、お部屋の中に現れたご無礼、どうかお許しください」

「ああ、いえ、それは、全然……」そういえば、猫が入ってくるような隙間はどこにもなかったな、と今さらになって思い出しながら、利玖は頷いた。

「まずは、こちらをお着けになってください」

 そう言うと、アールは利玖の膝の後ろからチョーカーを引っ張り出し、口に咥えて差し出した。

「あ、どうも、ありがとうございます」利玖はチョーカーを着ける。

 そこでようやく、頭が少し回転した。

「えっと、どこへ、わたしを連れて行くと?」

女王(クイーン)・ジュディスが治める〈猫の王国〉です」アールは淀みない口調で答える。

「だいぶ、遠いのですか?」

「いいえ」アールは首をふる。「我らは、必要以上にライゾウ達の暮らしに関わらぬよう、細心の注意を払っておりますから、ええ、確かに、サクラガワ様がお一人で歩いて行けるような所ではございません。しかし、私についてきて下されば、あっという間ですよ。朝日が昇る頃には帰ってこられます。ナナミ特製のイングリッシュ・ブレックファストにも間に合いますよ」

「そんな御方に守って頂けるというのは、大変ありがたいと思います」利玖はチョーカーを着け、姿勢を正した。「しかし、自分が今、どのような危険に晒されているのか、わからないのですが……」

「さきほどまで、あちらのソファにお座りになって……」アールはひょいと前足を伸ばして、ヒータの方を示した。「外を眺めていらっしゃいましたね。その時、貴女の視線に気づいたモノがいたのです。どうも、彼には、貴女がたっぷりと蜂蜜をかけたパンケーキにでも見えるようで、一直線にこちらへ向かっているのです。部屋の鍵を閉めているだけでは、防ぎきれないかもしれません」

「わかりました」利玖はベッドから下りる。「夜分遅くにご面倒をおかけしますが、どうかご案内をお願いいたします」

 アールの目が、わずかに大きくなった。

「今の説明だけで、信じて下さるのですか?」

「はい」利玖は頷く。「こういう局面が初めてではない、というのもありますが……。それよりも、もっと確かな根拠があるのですよ」

 チョーカーに手を伸ばしながら、それを説明しようとした時、入り口のドアの辺りにわだかまっていた暗がりが生きもののように蠢いた。

 利玖がそちらに目を向けた瞬間、猛然と一匹の猫が飛びかかってきて、利玖とアールの間に割り込んだ。

「失せろ、若造!」襲いかかってきた猫が、牙を剥いて吼える。茶色と黒色の斑模様の錆猫で、アールとは違い、胴震いがするような凄味のある男の声だった。

「グレン様、なぜ──」アールが言いかけるのを、グレンと呼ばれた錆猫は、彼の頭を押さえつけている足に力をかけて遮った。

「二度は言わんぞ」

 アールはもがいている。

 彼の体の下にある影が、ぞぞ……、と粘菌のように動き、四方から包み込もうとするように持ち上がった。

「やめてください」

 利玖がそう叫んだ時、入り口のドアが強くノックされた。

 もつれるようにして攻防を続けている二匹の猫を横目で見ながら、利玖は入り口へ駆け寄り、ドアを開けた。

 廊下の照明を背にして安斎頼造が立っていた。階段を駆け上がってきたのか、肩で息をしている。

 後ろでは、白津透が、少し目を細くして部屋の中を覗き込んでいた。

「大変なんです、今、猫が……」利玖が、そう言いながら振り返った時には、すでにアールの姿はなかった。

 グレンがこちらに向かって、ゆったりとした足取りで近づいてくる。利玖から二歩ほど離れた所で腰を下ろし、舌で毛繕いを始めた。

 頼造は、部屋を一望すると、困惑の表情で額を押さえ、

「いやはや……」

と呟いた。

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