最終話 やっぱり月が消えたら太陽は
彼の背中に体を預けると、思っていたよりも大きくて、思っていたよりも温かかった。浴衣の帯がかすかにきゅっと鳴る。
肩越しに見える提灯の列が、赤やオレンジに滲みながら流れていく。人のざわめき、綿あめの甘い匂い、鉄板で弾けるソースの匂い。ざわざわした世界の真ん中で、私の居場所だけがはっきりしている気がした。
なんだか息苦しくって天狐のお面を額にずらして、私は彼の背中で小さく息を吐いた。
胸の奥で、心臓がトン、トン、と規則正しく跳ねる音がして、でもそれが彼に伝わってしまいそうで、また喉が乾く。
(あれ……)
やがて、私はふと一つの疑問が浮かんできた。
「ねえ、日ノ原」
「ん」
「さっき、どうして私だってわかったの? 浴衣だし、お面で顔も隠れてたのに。うちの生徒とも何人かとすれ違ってるけど……」
一瞬だけ、彼の歩幅が小さくなる。少しの沈黙。夜風が浴衣の裾を揺らす。
「そんなの……わかんだろ」
「え?」
「お前は、俺の“天敵”だからな」
いつもの軽口で悪口のはずなのに、声音のどこかに別の何かが混じっているようで、私は思わず彼の頭をこつんと小突いた。
「なによそれ」
「いてっ、乱暴だな」
「でも……ありがとね、日ノ原」
言ってから、胸の奥がじんと熱くなる。角のついた赤いヒーローのお面のせいで、彼の顔は見えない。だから、素直に言えた。
心細くて泣きそうだったところに、彼が来てくれたから。あの背中が、道しるべみたいにまっすぐで、頼っていいって誰かに言われたみたいだったから。
「今日のお前、なんか変だぞ」
「そう?」
「うん。……なんか素直すぎ。お前が礼を言うなんて。……なんか気持ち悪い」
「うるさい」
彼は笑って、少しだけ歩調を緩めてくれた。私を揺らさないように。
(そんな気の回し方ばかり、どうして上手いの)
河川敷が近づくにつれて、地面が砂利まじりに変わり、足音がやわらいでいく。遠くから太鼓の音。屋台の光が川面にちかちか映って、夜の輪郭がゆるんだ。
ぱん、と乾いた小さな音。続けて間をおかず、空気を押し上げる重い衝撃。
ドン――。
夜空が裂け、金色の大輪が咲いた。光の雨がゆっくり落ちていく。ひと呼吸置いて、また別の花が、今度は紅を芯にしてはじける。弾けるたびに、世界の色が入れ替わる。
「ねぇ! 日ノ原! すごい、すごい!」
「おい、暴れんなよ」
「だってー!」
私はお面を頭に上げて、子どもみたいに首を伸ばした。彼の背中が小さく笑った気がした。大玉が連続して上がって、胸の奥まで響く。肩越しの横顔が、橙、青、紫……と、花の色を順にまとっていくのを、私は息をするのも忘れて見ていた。
「……お前、そうやってると」
「な、なに」
「けっこう可愛いとこあるよな」
どくん、と心臓が跳ねる。花火の轟きがなかったら、彼に聞こえてしまいそうで怖い。私は慌ててお面を額に戻し、小さな声で言い返した。
「バカ……」
言葉はそれだけだった。でも、それだけで、今の自分が精一杯だった。
やがて河原の傍でうちのクラスのメンバーたちが、男女そろって楽しそうにしているのを見つけた。
「お、見ろよ月野! これで一安心だな」
彼は「よし、ここらで降ろすぞ」と言い、どこか少し名残惜しい。足首にまだ鈍い痛みは残っているけれど、さっきより、痛みは弱い。
「少しくらいなら歩けるな?」
「うん。……歩ける」
「じゃあ、自然に合流するんだぞ」
その瞬間、背後から肩をとんと叩かれた。
「灯花!? よかったー! どこ行ってたの!」
「もう、心配したんだから!」
クラスの女子二人。私は慌てて笑って
「ごめん。人混みで迷って、ちょっと足ひねっちゃって」と言いかけ、言葉の途中で気づく。
さっきまで隣にいたはずの彼が、いない。
(……いなくなっちゃった)
胸の真ん中に、ぽっかり風が吹き抜ける。きっと、私がみんなの前で気まずくならないように、わざと離れたんだ。そう思ったら、余計に胸が詰まった。
それでも私は、二人に肩を支えられて敷物の輪に入り、残りの花火をみんなと一緒に見た。最後の大玉が夜空いっぱいに咲いて、拍手と歓声に包まれる。
その後は友達のスマホを借りて母に連絡し、迎えに来てもらえることになった――そんな段取りをこなしながら、私は何度も振り返ってしまう自分を笑った。
帰り道、車の窓に映る自分の顔は、花火の残り香みたいにまだ少し赤かった。
* * *
家に着いて、浴衣を脱いで、充電が復活したスマホの電源を入れる。通知がいくつも重なっていて、その中に見慣れた名前があった。
――日ノ原 陽介。
メッセージを開くと、まず一枚の写真が目に飛び込んでくる。花火に照らされて横を向く私。天狐のお面を頭にのせ、空を見上げている横顔。誰かに見られていたと知ると、恥ずかしいくせに嬉しくて、胸があったかくなる。
本文は短かった。
『グループチャット見た。無事帰れたみたいだな。じゃあまた夏休み明けに。おやすみ。』
「……あいつ、こんなのいつのまに」
私はスマホを胸に抱きしめた。画面の光が、布団の白に四角く落ちる。目を閉じると、背中の温度と、夜空の大輪が、ゆっくり浮かんで沈んでいく。
* * *
夏休みが明けた始業式。
昇降口の湿った空気、課題を詰め込んだ鞄の重み、廊下にあふれる久しぶりの声。
「灯花、おはよー!」
「おはよう! 久しぶり」
「足もう大丈夫? 花火の日に怪我してたでしょ」
「あ……うん。もう平気。最後まで見られたし、すっごく綺麗だったよね」
私は笑って、教室に入るといつもの委員長モードに切り替える。
「提出物、まだの人は休み時間のうちに私のところへ! 忘れないでねー!」
声を張りながら、窓際を見る。彼は友達に肩を組まれながら、なにか軽口を叩いていた。
「おい日ノ原、あの日、結局来なかったじゃん?」
「まぁな。気分が乗らなかっただけだって」
私はみんなの机を回り、生徒会発のアンケートの回収と、夏休み中の行事報告の提出を受け取っていく。最後列、彼の机の前で立ち止まる。
「はい、日ノ原も」
「もう出してある」
「えっ……本当に?」
本当だ。思わず二度見した。机の上には、きちんと記入された書類が一番上に置かれている。字は相変わらず荒っぽいのに、空欄はひとつもない。
私がそれを手に取ったとき、彼がふいに顔だけこちらへ向けた。周りに聞こえないくらいの声で。
「……月野。あの日の浴衣、似合ってたぞ」
「えっ……」
返事をしようとしたときには、もう彼は友達の輪の中に戻っていた。私の胸は、またもや勝手に熱くなって、押さえた掌の下でどくん、と鳴った。
(……ほんと、ずるい)
窓から差し込む八月の残り香みたいな光の中で、私はひとり、小さく赤くなった。
* * *
――ここまでの話は私の高校一年の夏、"陽介"と過ごした夏祭りから、夏休み明けまでの話。
そのあとも、私たちは相変わらずよく喧嘩した。
彼はからかって場を和ませ、私は真面目に怒って火に油を注ぐ。
彼の言葉を借りれば“天敵”。私に言わせれば“月と太陽”、なんて言葉を盾にして、素直な気持ちから少しだけ目を逸らす。それでも、廊下ですれ違えば目で合図を送り合うくらいの距離は、確かにできていたと思う。
――そして、そのときの私は思いもしなかったのだ。
*
二年生に進学した春のこと――
私にとってはいつもの生徒会室。
(聞いてない!)
窓の外では、部活動の新歓の声がにぎやかに跳ねている。私は書記の席で配布資料を意味もなく整えながら、緊張で指先が少し冷たかった。
(聞いてない!!)
「じゃあ、自己紹介を頼めるかな。日ノ原くん」
新しい生徒会長の穏やかな声。私は顔を上げる。扉のところに立っていたのは、見慣れた寝癖混じりの前髪と、見慣れた目つきの男子だった。
「はい。日ノ原陽介。先日、生徒会長より、じきじきに指名を頂き、生徒会副会長を任されました。皆さん、よろしく!」
(聞いてない!!!)
彼がにこっと笑ったその瞬間、私は思わず椅子をきしませて立ち上がっていた。
「な、なんであんたがここにいるのぉー!?」
生徒会室にいた数人が、やっぱりといった反応でこちらを見る。
陽介は肩をすくめ、悪びれもせずに言った。
「ま、そういうことだ。よろしくな。月野書記!」
私は口をぱくぱくさせるしかなかった。心臓が、夏の花火みたいに勝手に鳴りだす。視界の端で、コピー用紙がふわりと揺れて、机に落ちる。
――進級して、クラスは別々になった。けれど、彼と私の距離は、また新しくなってしまったらしい。
これからまだまだ、波乱がありそうだ。
そんな予感だけは、どうしてだか、妙にはっきりしていた。
だけど、この先は、また別のお話――
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。
今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。