王家への手紙
クレスト・ホーリーソン六世は、このルミナス聖国の王である。
聖国は現在、悪魔からの侵略を受けている。
奴らは、非道の象徴だ。罪無き村を焼き払い、無辜の民を魔界へ連れ去り、我欲の限りを尽くしている。
つい先日も、マッドリバー魔導伯の邸宅でインキュバスが捕まったばかりだ。
こうなったのも全て、悪魔を統率する魔王の代替わりが原因だ。
クレスト六世は溜め息を吐いた。
朝食の席ですら、奴らへの対策を考えねばならない。他にも解決すべき問題は山ほどあるというのに⋯⋯。
「陛下。魔導伯より急ぎの書状が届いております」
側近が手紙を持ってくる。
クレスト六世は食事の手を止めて、マッドリバーからのそれを読み始めた。
文章は丁寧な時候の挨拶から始まり、娘エルシーがインキュバスに襲われてしまった件の報告、国家にとって重要な存在である「聖女」を守れなかったことへの謝罪、そして娘の現状報告へと続いていく。
「⋯⋯よもや、神の膝元であるこの王都に、忍び込もうとする悪魔がいたとは⋯⋯。奴らは想像以上に不遜だと、認識を改めねばなるまいな⋯⋯」
クレスト六世の口からまた溜め息が出た。
近頃は、流行り病の件もある。体の弱い婦女ばかりが罹ると噂の熱病だ。
⋯⋯人間たちは気づいていないが、これは吸血鬼カーラの仕業である。夜間の急病担当に扮して人間を密かに襲っているのだ。
クレスト六世は、聖女エルシーがインキュバスに襲われて暫く寝込んでいたという一文を読んで、「彼女も流行り病に罹らねばいいが⋯⋯」と呟いた。
時すでに遅しとは、このことだ。
王は更に手紙を読み進める。
インキュバスに襲われたショックで、エルシーは精神が不安定になってしまったらしい。
やはり、悪魔は排除されるべき害悪だ。
怒りを感じながら文字の続きを追っていたクレスト六世は、次の一文で目を剥いた。
「こっ、婚約破棄とな⋯⋯ッ!?」
慌てて、同じ部分を読み直す。
『悪魔による暴行事件の被害者となってしまった娘は、周囲からの性的な目線に対して過敏になっており、それを彷彿とさせる〝婚姻〟に強い抵抗を感じています。
娘の心が落ち着きを取り戻すまで、アレックス殿下との婚約を一時的に破棄して頂きたく願います』
手紙には、確かにそう記されていた。
朝食を共にしていたアレックスが、困惑を浮かべて養父を見る。
「⋯⋯父上。いま、婚約破棄と聞こえましたが⋯⋯。その書状は、マッドリバー家からのものでしたよね⋯⋯?」
「うむ⋯⋯。例の件で、聖女殿が男性不信に陥ってしまったそうでな⋯⋯。治療のためにも、少しばかり距離を置きたい、と」
クレスト六世の言葉に、アレックスは愕然とした。
そういう時こそ、婚約者である自分の出番なのでは無いのか?
僕は真摯にエルシーを愛しているというのに、彼女を欲望の対象としてしか見ていないインキュバスとは違うのに、同じ恐怖の対象なのか?
アレックスは胸が苦しくなってきた。
彼女を守れなかった無力感と、信頼を失った己への嫌悪感が絡みつく。
優しいエルシーへとまるで追い縋るかのように、アレックスは手紙を見つめた。
「僕たちは、どちらも神に選ばれし勇者です。それなのに、縁を切るような真似は⋯⋯」
「アレックス。彼女は不慮のことに混乱しているだけなのだ。
お前も騎士道を学んだのなら、もっと泰然と構えなさい」
「⋯⋯父上は、この提案をお認めになると?」
アレックスは苦い顔で言った。
婚約破棄の決定権は、当人ではなく家長にある。それが貴族というものだ。
クレスト六世は、息子が快く思っていないことを理解しながらも、反論を退けた。
「あくまでも、一時的な白紙化としてだ。勇者の不仲で民を不安にさせぬよう、民への公表は控える。
⋯⋯アレックス、これは聖女殿の気が済むまでの、ほんの戯れのようなものだ。縁切りなどと、あまり深刻に考えるでない」
「⋯⋯本当に一時的で済むのでしょうか? もしも、エルシーの男性不信がいつまで経っても治らなかったら?」
「アレックス。お前まで相手への信頼を失ってどうする。いつでも彼女を迎えられるよう、構えておくのが婚約者としての勤めだ」
クレスト六世が諭すように言った。
これまでの人生で、自分なりに見出してきた哲学だ。
しかしそれは、アレックスには詩編からの蒙昧な引用のようにしか聞こえなかった。
アレックスは考える。
悪しきインキュバスを斬り伏せたのに、どうして事件は、ハッピーエンドで終わらないのか。
⋯⋯せめて、エルシーからの感謝か、愛の証明が欲しかった。