僕は不倫をしている
僕は不倫をしている。妻とは結婚3年目で、子どもはいない。
浮気相手は会社の後輩だ。僕は、この春、新しく会社に入ってきた松田梨里杏の教育係に任命された。
松田さんの第一印象は綺麗な人だった。黒髪のロングヘアーに大きな目。整った鼻筋に、形の良い唇。
大人しい性格かと思いきや、「おはようございます!」と挨拶を自分からしたり、返事も「はい!」とはっきりしてくれる、元気な子だった。
また、会社の手洗い場のハンドソープが切れている時に、「ボディーソープなくなっていますよ」と名称を間違えて報告してきたり、何もないところでこけたりして、天然な一面が垣間見れる子だった。
このような女性が周りにいないこともあり、僕は非常に好感が持てた。
しかし、僕は結婚をしている。松田さんと、どうにかなりたいなんて表向きに思うことはなかった。
僕は今まで道を外れるようなことをしたことがない。真面目な性格だと自負していた。当然、今まで浮気をしたこともない。何事もなく、平凡な日々が続くはずだった。
しかし、ある日、松田さんはプライベートの悩みを僕に相談してきた。どうやら年下の彼氏がいるものの、最初は大切にしてくれたけど、段々と扱いが雑になってきて悲しいということだった。彼氏は、最近ではデートをする時に一銭も払わないらしい。
悩みを話す時の、泣きそうな松田さんを放っておくことができず、真剣に話を聞いた。一度話を聞いたら、たかが外れたように「続き聞いてください」と何度も相談話を持ちかけられた。
流れから、会社帰りに松田さんと飲みに行くこともあった。しっかり妻にも「後輩と飲みに行くから、帰りが遅くなる」と連絡を入れていた。やましい気持ちはないはずだった。
妻が実家に用事があるからと、家に帰らなかった日。僕は松田さんとホテルに行っていた。内心やばいと思ったけど、もう遅い。
不倫をしている人は、世間では悪いイメージを持たれる。犯罪には該当しないものの、不貞行為に当たり倫理に背く。
あれから妻といると、罪悪感を感じて、居心地が悪い。テレビを見て同じところで笑ったり、ご飯を作ってもらったりする時に、こんなに素敵な人を、僕は裏切ってしまったのかと自己嫌悪に陥る。しかし、浮気ができるのも、一種の男らしさではないかと考えて気持ちを立て直す。
また、ネット記事の「浮気をしたことがある?」のアンケートに、「俺ある」「私も浮気っぽいことは、したことがあるかも」という回答を見ると安心する。自分一人だけが悪者ではない事実が、罪悪感を薄れさせてくれた。
安心材料を無意識のうちに集めても、芸能人が不倫したというニュースが大きく取り上げられると、途端に不安になることがある。
特に、不倫なんてしなさそうな好感度が高い芸能人が不倫をするほど、一般人が受ける衝撃は大きい。
SNSでは、よってたかって不倫した芸能人を叩いている。「自業自得」「不倫する奴が悪い」「家族が可哀想」というコメントを見ると、僕に言われた気がして動悸がする。
松田さんと最後に関係を持ったのは1ヶ月前だ。僕の教育係の役目も終わり、彼氏との関係も最近は良好ということで、相談に乗る必要もなくなった。会社でも一定の距離を置いている。
小心者の僕は、芸能人の不倫のニュースが出る度に、松田さんとの関係もいつかバレるのではないかと肝を冷やしている。
思えば、僕は人に流される人生を送ってきた。進学先を決めるのも親が言う通りにしたり、結婚相手も友達に紹介して「良い人だな」とお墨付きを貰ってからプロポーズに踏み切ったりした。
みんな多かれ少なかれ人の影響を受けているものだけど、僕が、はっきりと自分の意思で決めたことって何だろう。「今日のご飯はカレーしよう」というような、責任が伴わないものしかないのではないか。
浮気をしたのも、松田さんが「今日はもうちょっと一緒にいたいな」と迫ってきたからだ。間違っても、僕からホテルに誘ったわけではない。こうやって誰かのせいにすると、自分の気が収まる。
だけど一時的なもので、ふと一人になった時に、本当にこれで良いのだろうかと苦しむことになる。考えがまとまらないと、生まれてこなければ良かったと、現実逃避のようなことを考えてしまう。
僕はよく人から「優しそう」と言われる。鼻にかけるつもりはないけど、そうだろうと実感していた。他人のミスを許せるし、口うるさく誰かを怒鳴ることもない。
しかし、受け身で流されやすい性格を、「優しい」という耳心地の良い言葉で取り繕っているだけではないか。
僕の浮気は妻にはバレていないはずだった。とはいえ、毎朝、妻の顔を見ると、瞳の奥に何か濁ったものが見える時がある。暗く、底が見えない何かがある。
妻は歯科医師だ。収入も妻の方が多い。最初は尊敬した気持ちがあったけど、一緒にいるほど惨めになる自分に気付いた。
松田さんは、こんな僕を頼ってくれて、男としての自尊心を満たしてくれた。
僕の浮気の後ろめたさを、妻のせいにすることもあった。「君といると、僕の価値が見出せない」と、まるで赤ん坊のように、心の中でわめいた。
ある日、会社帰りに松田さんから待ち伏せをされた。「最近、話しかけてくれないね」「やっぱりやったら興味なくなるんだね」なんて、鋭い目を向けてくる。「良いよね。井上さんは、結婚しているもんね。私と違って、何も損してない」「LINEもくれなくなっちゃったじゃん」というように、次々に嫌な言葉を被せてくる。
ここで僕がごめんと謝ったら場は丸く収まるだろうか。空気を読み、上手く立ち回ろうとすれば、まだ取り返しがつくだろうか。
人に流されて流されて、その時にしたいことをして、面倒なことから逃げた先には何が残っているだろうか。松田さんは数々の嫌味を僕にぶちまけた後、「もう話しかけてこないでね。顔も見たくない」と一人で完結して去っていった。
僕は、助かったと思った。松田さんから関係を切ってくれるなら、僕は不倫する前の、元の自分に戻れるはずだった。
意気揚々と顔を上げたら、遠くの方から、悲しそうな顔で僕を見つめる松田さんと目が合った。これは「そんなこと言うなよ」と言って、追いかけてきて欲しいんだと思った。
だけど僕は気づかないふりをした。いかにも被害者のような顔を浮かべて、頭を深く下げた。僕は優しい人間ではない。
松田さんが腹の虫が治らない時は、会社で僕の嫌な噂を流したり、妻にも接触したりするかもしれない。だけど、流されやすい僕のことだ。その時になったら、流れのまま受け入れなくてはいけない。
これは後先考えずに行動に移した僕が、素直に受け入れなくてはならない罰だ。今後、どうなるかわからない。今夜見る妻の目も、濁って見えるかもしれない。
流されて生きてきた人ほど、受け身のまま、いつか来る罰に怯えていないといけない。自分から罰をわざわざ受けに行くよりマシかと思いながら開き直る気持ちになった。
逃亡犯も、こんな気持ちになることがあるのだろうか。早く誰かに見つけてもらって、楽になりたい。でも、自分から自首をする勇気はない。
僕は、スマホからネットバンクのページを開いた。残高を見て安心する。心の支えはまだ残っていた。自分自身を心の支えにする勇気はまだない。