2話
市内の産業ビルの一角、ではなく、街の古びた中華街に並ぶビルの一室。ビルの横壁に吊られた看板には「田井中探偵事務所」と書かれている。そのほかにも看板に会社の名前や、店の名前が書かれているが、田井中探偵事務所以外はすでに廃業、または撤退済みだ。滅多に人が寄りつくこともなく、中華街からかすかに聞こえる人の声以外、物音もしない。
そんなビルの一室、田井中探偵事務所の中には二人の男女がいた。一人はソファに座って朝刊を読みながら煙草を吸っており、もう一人は古くはあるが丁寧にまとめられた資料を真剣に読んでいる。二人ともそれぞれの作業に没頭しており、話声は一切起こらない。
その部屋に、間抜けなぐうといった音が響いた。
「飯でも行くか」
「ごちそうさまです!」
腹を鳴らした男性が女性を食事に誘う。今まで読み漁っていた資料を棚に刺し込み、軽快な声に合った表情で男性にお礼を言った。二人の歳は十こ以上離れており、女性の年齢は二十を超えたところだ。大学の授業が少なくなった彼女は田井中探偵事務所に入り浸っている。今日から夏休みになり朝から晩まで事務所にいると宣言したときは田井中探偵も嫌な表情を隠せなかった。
ビルのエレベーターは数年前にサービス修了してしまったので、二人は非常階段で地上まで下りていく。強くなった日差しに目をすぼめ、女性は日焼け止めをその白く若々しい肌に塗りこんだ。それを横目で見た田井中探偵は自分のシミが目立つようになってしまった肌を見て少し気を落とす。
「今日が何が食べたい」
「今日はチャーハンがいいです」
二人の頭の中に浮かんでいた候補はすべて中華で、すぐそこの中華街の店の目玉料理から選んでいる。女性はチャーハンと言ったが、もちろんその店にもラーメンや餃子、小籠包といったほかの選択肢の料理もメニューとして存在している。目玉料理はおいしいがそれ以外は、そこ以外の店で食べた方がおいしいのだ。数分歩けば店の前に着く。書き入れ時なはずだが、中華街の店はどこも閑散としている。
「いらっしゃい」
店に入ると出迎えてくれるのは店長のおばあちゃんだ。白いタオルを頭に巻き、いつから使っているか気になるくらい年季がいったエプロンを腰に巻いている。黒いTシャツと白のタオルというラーメンのおっちゃんスタイルだが、その本人の表情は穏やかそのものだ。週に二回はこの顔を見ている。
「チャーハン二つ」
この店にサイズを選ぶという手段はない。おばあちゃんがお客さんに合わせて量を調節してくれるのだ。二人の注文を受けて黒い流下鍋に油を注ぎ、二人分の食材を炒めていく。ジュウというおいしそうな音がすぐに聞こえ、香ばしい匂いが漂ってきた。
「今日は何を読んでたんだ?」
田井中は左隣のカウンター席に着いた女性に問いかける。
彼女の名前は心見真偽。大学三年生の探偵見習で、勤勉な性格と行動力ですでに事件を数件解決したことがあり、警察内にもつてがあるらしい。そんな彼女が田井中探偵事務所に入り浸っているのはこの事務所に様々な事件がらみの資料があるからだ。田井中が昔警察官だった時からの収集癖で、心見にとっては宝庫だ。
「今度温泉に行くんですけど、その近くが自殺名所になっているみたいで、過去の事件を調べてたんですよ」
なんでわざわざそんな不吉そうな場所の温泉なんかに行くのか意味が分からないが、心見は自殺するような性格じゃない。偶々近くにそういう場所があって興味を持っただけだろう。心見は普段からニュースでこの場所が映ってたとか些細な理由で過去その場所で起きた事件を調べる。もう探偵というよりは事件マニアだ。
「気を付けて行って来いよ」
「大丈夫ですよ! 自殺するつもりなんてないんで」
「わかってるよ」
二人はカウンターの奥から出されたチャーハンを受け取って、両手を合わしていただきますと言ってスプーンを手に取る。夏で外は気温が高いが、それでも暖かいチャーハンは美味しい。醤油味ベースに胡椒が聞いただけのシンプルな味だが、これがたまらなく美味しい。これがシンプルイズベストだ。田井中と心見、二人そろってこのチャーハンは中華街ランキング第二位の味だ。第一位には不動のラーメンが居座っている。あのラーメンには残念ながら勝てない。