2.涼子の秘密
品川涼子は、高瀬紀子の瞳をしばし真剣に見つめたあと、静かに語りだした。
「じゃあ、始めるわね。えっと、紀子ちゃんは、鶴岡八幡宮のある場所の地名って、知ってる?」
涼子が何を言うか身構えていた紀子だったが、鎌倉住みにとっては常識的な、簡単なクイズだったので、ちょっと拍子抜けした。
「ええ、知ってるわよ。『雪ノ下』でしょ? 綺麗な名称だし、地元民には有名な話じゃない。源頼朝公が、夏に備えて家臣に雪を備蓄させたことが由来よね。小学生の時から、何度も聞かされたわ」
まさか、その話に裏話でもあるというのか。
「その通りよ。元々は、八幡様の裏手側の地域をそう呼んでいたようだけど。じゃあ、その前は、何て呼ばれていたかは?」
そう来たか。
確かに「雪ノ下」は鎌倉時代のエピソードが元で付けられた名称で、その名称が初めて文献に現れるのは江戸時代かららしい。だから考えてみれば、その前、それも鎌倉時代には別の名称が付けられていたということになる。
しかし、さすがの紀子も、その知識はなかった。
「その前はね、比企谷って呼ばれていたの」
紀子は、一瞬「日比谷みたいなものか」と考えがよぎったが、その名称には、紀子にも聞き覚えがあった。
「比企谷って、あそこにある幼稚園の名前よね?」
「そうね。比企谷幼稚園。比企谷の名称は、今ではその幼稚園の名前くらいでしかほとんど残ってないけど」
紀子は、雪ノ下にあるのだから、別に雪ノ下幼稚園でもよさそうなものを、なぜわざわざ雪ノ下の古名を持ってきたのか気になったが、涼子から茶々を入れるなと釘を差されていたし、涼子の話の本筋には関係なさそうだから、黙っていることにした。
「確かに、あの辺りは谷になっているから『谷』って付くのはいいとして、比企ってどういう意味なの?」
紀子は、そのくらいの質問は許されるだろうと思って、訊いてみたが、その質問は、意外にも、涼子の話の核心を付いていた。
「それはね、鎌倉時代、頼朝公の家臣で、あの辺りに屋敷を構えていた比企遠宗らの一族の名前から付けられたの。ちなみに、比企遠宗の妻は、頼朝公の乳母だった比企尼ね」
結局、鎌倉はすべてが頼朝公に通じる、という訳か。
「でね、ここからが大事なところなんだけど、その比企一族に仕えていた陰陽師が、私のご先祖様なの」
まさかの展開に、紀子は驚きを隠せなかった。
「えー!? ちょっと、それって、マジな訳?」
紀子のこの驚きは、とっくの昔に歴史上の存在になっていると思っていた陰陽師、その末裔が、今、自分の目の前に座っているということと、そんな純アジア風の能力者の末裔が、ミッション系の高校に通っているというギャップからのものだった。
「だから言ったじゃん、確証はないって。でも、うちの家には代々そう語り継がれているのよ。家系図とか、いくつかの文献もそれなりに残されてるし、取り敢えずは、事実として捉える他ないのよ」
それはそうとして、そもそも自分がそのような話を聞いて良いものか、紀子は不安になった。
「もっとも、鎌倉時代には、有名な安倍晴明のような陰陽師の発言が公私共に行動規範となっていたという時代ではなくなって、官職の中の一つの役割として、ほとんど形式的な扱いだったそうよ。今で言えば、一介の地方公務員。それに、もっぱら陰陽師を用いたのは公家や朝廷で、特に頼朝公が亡くなって鎌倉の支配者が北条氏なって以降、武将系は陰陽師は用いなかったようよ。だから、陰陽師っていっても、小説や映画になっているものや、紀子ちゃんが想像しているような凄いものではないわ。それに、うちは本家とはずっと昔に分家して、家系的にはずっと遠い血筋だし」
とはいえ。
紀子は「陰陽師の末裔」というだけでも、十分パワーワードだと思った。
「それで、その比企一族はね、頼朝公が謎の急死をした後、執権となった北条氏との権力闘争に破れ、滅ぼされたの」
「そうなんだ。もっとも、権力者が代わると、前の権力者に仕えていた家来が滅ぼされる、というのは歴史あるあるよね。前の権力者が暗殺されたのなら、尚更よね」
現在の日本の政治で言えば、総理が代われば内閣が総辞職するようなものだろう。
「ええ、少なくとも、表の歴史ではそうなってるわね」
「え? 『少なくとも』というのは?」
「表の歴史では、頼朝公最後の側近、比企能員が殺害され、比企一族は滅んだということになっていて、それを『比企能員の変』というのだけれど、我が家の言い伝えでは、この比企能員の息子が、『比企能員の変』を事前に察知したご先祖に助けられて、生き延びたらしいの」
歴史には「実は生きていた」と噂される人物が何人もいる。
日本史だけでも、源義経や明智光秀の生存説は有名だ。
歴史的偉人本人意外でも、例えば豊臣秀吉と側室との間に生まれた息子、国松が実は生き延びていたという伝説もある。
とはいえ、もし、それらの言い伝えや伝説が本当で、義経や光秀が生き残っていたとしても、その後の歴史の表舞台では活躍していないのだから、その点では、実際に生き残ったのかどうかは関係ないような気がする。
結局、鎌倉幕府は、後醍醐天皇から権力を奪われてしまうし。
紀子はそう思った。
「うん。涼子ちゃんのご先祖様が、陰陽師だったっていうのは分かったわ。でも・・・」
紀子がその先を続けようとすると、涼子が遮って言った。
「紀子ちゃんが言いたいことは分かるわ。ご先祖様が陰陽師だったとしても、もうそれは千年近く前の話。もちろん、今の私達に、陰陽師としての能力は受け継がれてはいないし、八咫烏とか日本の裏の組織――それがあればの話だけど――みたいなものとの関わりもない。けれどね、血は争えないもので、なんとなく感じるものはあるのよ」
「感じるって?」
予想外の展開に、紀子は自分の理解力が涼子の話についていけなくなっていることを自覚した。
「さっき、学校で家族が鎌倉から鵠沼に引っ越した話、したわよね」
「うん、覚えてる。確か、鎌倉は気が強いとかなんとか――」
紀子は、話の流れから、なんとなく悟ったような気がした。
「そうよ。さっきは誤魔化しちゃったけど、鎌倉はね、いろいろな『気』が渦巻いていて、特にお父さんが耐えられなくなってね」
「その、『気』というのは、具体的に何なの?」
「私達にもよくは分からないのだけれど、多分、一般的に『邪気』と呼ばれている種類のものだと思うわ。曾お祖父さんの話だと、それがね、関東大震災が起きた辺りから、急速に強くなってきているらしいの」
その話を聞いて、紀子は「うげっ」と思った。
「それって、もしかして、大地震が起こって、その『邪気』とかなんやを封じ込めていた力が弱まったってこと?」
「どうかな? 地震は単なる切っ掛けに過ぎなくて、それよりも前から、紀子ちゃんの言う『封印力』みたいなものは弱まっていたとも考えられるわ」
「えっ、じゃあ、だから地震が起きた、とか・・・?」
紀子は戦慄した。
「いやいや。『封印』も、さすがに、そこまでの力はないと思いわよ。地震なんて、定期的に起きるものだし」
「そりゃそうか」
「ただ、頼朝公が謎の急死をしたのには、何らかの呪いが関係しているって俗説もあるみたいだし、その後も『比企能員の変』に代表されるように、政変や裏切りで殺された人もたくさんいるから・・・」
頼朝公が急死したのは、糖尿病の合併症だとされる。
糖尿病は、悪化するとまず目が見えなくなり、その後、四肢が毛細血管の集まっている先端から徐々に壊死して行く病気だ。
頼朝公は1198年末、御家人の稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の追善供養のために建造した相模川に架かる橋供養に出席し、その渡り初めの際、帰り道に落馬し、回復することなく亡くなったという。
平安時代や奈良時代でも、糖尿病が悪化して命を落とした貴族は少なくない。
藤原道長も糖尿病だったといわれている。
頼朝公の糖尿病が悪化していたのだとすると、目は失明寸前で四肢の自由も効かなかったと思える。落馬するのも半ば当然と言える。
医学的な知識がなかった当時の人々から、糖尿病が悪化した頼朝公の姿は、まるで呪いにでもかかったように見えただろう。
「ようするに、そういう様々な人の想いみたいなものがここ鎌倉には渦巻いている、という訳ね」
紀子は、これまで都市伝説を鵜呑みにすることはなかったが、目の前にいる陰陽師の末裔の話には、一定の説得力があった。
「簡単に言えば、そういうこと」
「で、涼子ちゃんは、別にその話がしたかったわけじゃないよね?」
「そうよ。本題は、ここから」
涼子が鎌倉時代に活躍した陰陽師の末裔だという話だけでもお腹いっぱいなのに、これからどういう話を聞かされるのか。自分にその話を受け止められるキャパはまだ残っているのか?
紀子は思わず身構えた。
「ここから先は、私が感じたことをそのまま話すだけで、それ以外に何の根拠もないのだけれど、それでも良いかな?」
何を今更。
それに、自分が陰陽師の末裔であることを長々と話したのは「それが根拠」だって言いたかったんでしょうに。
「勿論」
紀子は、笑顔で手のひらを上にした両手をテーブルの上に差し出し、涼子に「どうぞ」というジェスチャーをした。
「実は、あの古着屋の店長さんなんだけど・・・」
意外な話の方向性に、紀子は思わず「え?」と口に出してしまった。
「私ね、あの人とは深く関わらない方が良いって思うの」
「それって、どういう・・・」
紀子は涼子の予想外な申し出に、それだけを言うのが精一杯で、その先を続けられなかった。
「私ね、陰陽師の末裔だからって、別に人のオーラが見えるとか、普通の人が見えない何かが見えるとか、そういう霊感的なものはないんだけど、あの人からはなんていうか、良くない『気』を強く感じたの」
また「気」か。
紀子にはその「気」というものが、具体的に何なのかはさっぱり分からなかったが、説明できない「何か」を表現するためには「便利な言葉だな」と思った。
「その『気』って、呪いとか呪詛とか、そういうもの?」
「いえ、そこまで具体的なものじゃないのだけれど、私が今まで感じ取ったことのない『負のオーラ』のようなもの、としか今は言えないわ」
その「負のオーラ」が何なのか、具体的に見えてこないのでは、いくら話し合っても無駄だなと紀子は思ったので、アプローチを変えてみることにした。
「じゃあ、もし、私が三輪店長と深く関わったとしたら、私はどうなるの?」
「分からない」
涼子は、両目をつぶり、残念そうに首を左右にゆっくりと振った。
「そっか。分かった」
紀子は、努めて明るい口調で言った。
「もともと、あの店には月一でしか行ってないし、店長ともそんな親密な関係じゃないからさ。店に行くときは、涼子ちゃんといっしょに行くことにするよ。まさか、あの店には二度と行くなって訳じゃないでしょう?」
「そうね。まあ店で買物するくらいなら大丈夫だと思うし、そうしてくれれば安心だわ」
涼子は笑顔で言った。
「それじゃ、今日はもう遅いし、これでお開きにしますか」
「そうね。私も言うべきことは言ったし。そうしましょう」
二人は、喫茶店前の駐車場で分かれると、それぞれ帰途についていった。
紀子が古着屋を見ると、店の明かりは既に消えていた。
涼子から聞かされた話は、実に奇妙な内容だったが、紀子にとって、それよりも来週末が提出日の「進路希望調査書」をどう書くかの方が重要な問題だった。
進学するにしても、国公立の大学か、私大か、それとも短大か専門学校か。
しかし、この時の紀子は、来週には、想像もつかないほど大きな問題に取り組まなくてはならないことなど、思ってもみなかった。
つづく。