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朝倉 ぷらす短編集

作家的自我の錯覚

作者: 朝倉 ぷらす



 作家的自我の錯覚、とでも言うべき自惚(うぬぼ)れの恥を、私は恐れている。いや、恐れているなどという言葉ですら烏滸(おこ)がましい。すでに私の心には、その深い闇の(うじ)虫が住み着いているのだ。


 私が筆を()ったのは、不思議なことではなかった。生まれた環境は、本を手に取らせることを不思議に思わせず、余人(よじん)より少しだけ(さか)しらで、言葉を多く知っていた。


 ただ、それだけの出来事によって、私は余人よりも想像の羽の届く先が遠かった。

 その、(あふ)れるほどのイメージを、思いのままに書き留められる言葉に憧れたのだ。


 けれども、(つたな)い言葉で飾った文章は、見てくればかりを整えようと必死で、物語を書きたいのかどうか定かでなかったように見えた。ともすれば、始めから私はすごい物語(丶丶丶丶丶)を書くことにばかり傾倒(けいとう)していたのかもしれない。

 内容など、二の次だったのかもしれない。


 だけれども、ああ、それは、逃げなのだ。


 そうだ、これこそが、私が唾棄(だき)すべき「作家的自我の錯覚」のひとつなのだろう。

 言い換えれば、自己防衛の本能なのだ。始めから志していなかったのだから、上手くいかなくとも、(なじ)られようとも本質的に、私の心を(おとし)めることなど出来ないのだという、言い訳なのだ。


 そうでもなければ、やっていられないのだろう。


 ああ、隣の人も藻掻(もが)いて、足掻(あが)いている。その苦しみが痛いほどわかるのと同時に、そういう人たちの間に混じっていることは、テスト中の、ペンが解答用紙を引っ掻く(せわ)しないリズムに似て、私の、気にするほどでもない些細な怠惰(たいだ)を浮き彫りにしているのだろうか、不安を煽ってくる。


 はじめは、ただ一人の心の臓でよかった。その奥深くに、永遠に残る(とげ)の様に、深く言葉が突き刺さればよかったハズだった。そうだ、拙くとも言葉で物語を飾ろうとしたのは、その方が言葉が届くと思って模倣(もほう)したからに、他ならないじゃないか。


 しかし今はどうしたことだろうか。


 端的に切って、承認欲求の奴隷、豚である。


 どれほど深く突き刺したか、よりも、どれだけ多くの関心を得られたか、それが可視化される数値ばかり気にして、上りもしない表示が毎秒ごとに変わっているのではないかと、更新ボタンを押すことばかりに思考を停止させて指を動かして時を無駄にしている。


 そうして、たまに何かの反応があると、踊り出さんばかりに内心で喜んで、しかし、冷静なフリをして私という偶像を演じるのだ。


 その、なんと醜いことか。


 私は幸運にも、余人より秀でているという傲慢(ごうまん)を忘れずにいることができたから、小さな見栄を張るために、賢しらであることを演じ続けるために、努力をした。その結果、余人よりも博識に育った。インターネットの世界に入って、それを顕著に感じられるようになってしまった。


 しかして、私は、余人よりも秀でている、という認識を持たれるようになったと思う。ただ、自身の虚構を取り繕うことに敏感だっただけなのに、迎合(げいごう)しないことを孤高と捉えられたのだ。

 そうなれば、私を慕うような、そういった反応も散見されるようになって、私の自尊心は満たされたのだ。「作家的自我」のようなものが、芽生え始めるのだ。


 それが錯覚であるということを、(うら)では理解しているというのに。

 私は、いつからそれほどにまで、偉くなってしまったというのか。

 冗長な幸せの中、真綿が首を絞めつける苦しみから逃れられない。


 例えばこうだ。


 悪が主人公の話。

 とある書評家が「その本質は主人公よりも悪である人物に対する、犯罪的手段での成敗が、ウケる秘訣なのだ。」といった。相対的な善が、ウケる秘訣なのだそうだ。私は即座に「そうだろうか?」と首を傾げてしまった。それは単純に、悪の、犯罪の魅力を描き切ることができないことへの、言い訳に過ぎないのではないか、と。むしろ主人公こそ、最悪であり、そこに葛藤(かっとう)も必要ないとさえ、考えていた。


 また、例えばこうだ。


 ロボ物の話。

 別の書評家が「ロボ物はイラストもなく、ディテールを想像させることが難しいから、小説向きじゃない。」といった。私は即座に「そうだろうか?」と、またしても首を傾げた。そもそも、ドラゴンだスライムだゴブリンだ、エルフだドワーフだという、認知度の高いキャラクターたちでさえ、そのディテールをイメージさせることは、難しいのだ。そもそも既存の作品をイコン化した言葉で、説明を省くというズルをしているのだ。


 それらの作品に触れる文化が無かった層に向けて、そのままの形で差し出せるものなら差し出して見給え、とすら思っている。


 つまりだ。


 突然、コールドスリープから目覚めた主人公が、宇宙船内に設置されたモニターから、船外の状況を知った際、戦闘が起きていたと仮定する。


 片方は、トールギスよりはエルガイムよりの、近未来的な白い騎士風ロボ。

 相手はマクロスのバジュラかズワァース、いやズワウスか、という具合だ。

 敵であってほしい側の後ろ、ガメラのレギオンのデカいヤツが控えている。


 というような描写であっても、わかる者にはわかるのだ。板野サーカスくらい必修科目に入れてほしい。


 そら、どうだ。事象に対する後付けの理由のこじ付けで、批評家ぶっているだけじゃないか。

 そのように、反論した気分に浸って、偉ぶっているのが私なのだ。


 わかるかな。


 それらが一般周知に至らなかったという事実が、私に矛盾を突きつけて、明け透けに(なじ)ってくるのだ。自称書評家は、ウケる作品作りの話をしているのであって、それ以上でもそれ以外でもないのだ。つまり、ウケている作品たちの関連さえ、知ったかぶっていれば、糊口(ここう)をしのげるのだ。


 ほら、これが作家的自我の錯覚だ。


 この醜い、「どの口がものをいうのだ?」という態度と、慢心が、恐ろしいのだ。並列関係の事象に、上下関係を持ちこむ態度は、私が書評家たちを詰る構図と、何が違うのだろうか。もしかしたら、潔癖であるとさえいえるのかもしれない。


 しかし、その正体に言葉を与えることで、何者かであるかのように振舞えてしまえる誤謬(ごびゅう)を、恐れている。私は、自身が無矛盾でなければならないと、恐怖しているからに他ならない。


 ゆえに、尻馬に乗り続け、ブクブクと肥大した一大ジャンルに、真正面から相乗りする図々しさも、切り込む度胸も持てないままだ。善と悪は並列の関係で、上下関係にはなく、ロボ物に限らずあらゆるジャンルは並列に並び、そこに優劣はない。そういう我が儘を言い続けている。


 畢竟(ひっきょう)、耳を塞いで(うずくま)って、呪詛(じゅそ)のようにその他大勢を否定することで、自身の正しさの形を保つことしかできない、中学生の心のままなのだ。思い通りにいかない、ただそれだけの劣等感で、思い通りになった者の、透けて見える傲慢に唾を吐きかけているに過ぎないという、醜い嫉妬の塊なのだ。


 それを悟らせまいとして、見た目をわかりづらくして、尖って見せているのが、私なのだ。


 これを、作家的自我の錯覚と言わずして、いかに(なじ)ろうというのか。


 私自身の最大の矛盾は、私が私を否定し続けているというところに根源を持つのだろう。



 そうだと言ってほしいのだ。









~fin~

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― 新着の感想 ―
[良い点] すごく共感します。 気づいてしまうと抜けられなくなるような感覚。 スポーツのように勝ち負けがはっきりしない分、悩みます。 楽しいから書いていた初心が大切かと。
[一言] 何かのコラムで読んだのが 読み手になんらかの予備知識が前提となるものがライトノベルで、必要無いのが文芸小説だと言うものでした。 だから宮部みゆきの「ブレイブ・ストーリー」はゲームを舞台にしつ…
[一言] そのうち虎に堕ちそうですね
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