「それで帰ってきのか?」ハヤシさんはそう言うけど、オレはいたたまれなかった。
6.辺境 …創作
「それで帰ってきのか?」ハヤシさんはそう言うけど、オレはいたたまれなかった。
「はい。」ハヤシさんはハヤシライスを食べた。
「まぁ友紀が無事でいるんなら、オレは何も言えないけど。」定食屋でオレは何も頼まなかった。
「いやそれが。」周りの男たちはタバコを吸っている。
「無事じゃないのか。」ハヤシさんは食べるスプーンの手を止めてじっとオレを見る。
「どうも妊娠してるらしくって。」オレは頭をかいた。
「え?」さすがのハヤシさんも声につまった。周りの男たちはタバコを吹かし続けている。
「あっこが、後からお母さんに聞いたらしいんですけど。」オレはカレー皿を見つめる。
「だったら本当じゃないのか。」ハヤシさんは水を飲んだ。
「そうですね、多分。」オレはあっこのお母さんが泣いている姿を思い浮かべた。
「それで、相手は誰だよ。」ハヤシさんが聞くので、オレは首を振った。
「ハヤシさん誰か思い当たる人いませんか。」そう言うオレは、一瞬ハヤシさんの目が見れなかった。
「まさかな。」ハヤシさんは二本目のタバコに火をつける。
「ええ。」駐車場ではトラックやダンプカーが音をたてていた。
「とにかく行くか。」ハヤシさんは食べかけの皿を置いて、定食屋のおばちゃんにお金を払った。
「はい。」あっこの代わりにオレが訪問することになったのだ。
隣でコウイチが言った。「なぁ知ってるか。」冬の寒さが東京の足元に忍び込んでくる。「なにが?」「お前の知らないあっこの話し。」「なんだよ。」そう聞くと、六畳ワンルームの部屋で、コウイチはセキをする。「風邪か?」「ああ。」「なんだよ、あっこの話しって。」「やっぱいいや。」コウイチは弱っているように見えた。地元にいるときはそんな姿、見たことない。「離婚したときのことか?」「そうだな、そんな感じ。」コウイチはそう言うともう一度セキをして、眠りにつくまでその音が何度かした。
「どうも。」とその男は言った。
「初めまして。」とオレは挨拶する。
「村田と言います。」あっこの母親の再婚相手。つまりあっこと友紀の義父だ。
「あの敦子さんとお付き合いさせていただいてます。友紀さんも昔からよく知ってます。」オレはさすがに緊張した。
「ちょっと出てるから。」とハヤシさんは席をはずした。
「すみません。」とオレは言って、村田の隣の席に座る。
「なんか変なことになっちゃったね。」村田は日本酒を注ぐとそう言った。
「いえこちらこそ、関係ないのにしゃしゃり出ちゃって。」オレもおちょこを持った。
「昔はよく、あいつらもここの店に連れてきたりしたんだけどね。」村田は肉体労働者らしく日に焼けていた。
「そうですか。」オレは何と答えていいのかわからない。
「もう十年以上たつのかな、あいつらが実の父親の方に行っちゃって。」村田はそう言うと、遠い目をした。
「はい、それは聞きました。」オレがあっこに出会ったのもその頃だ。
「だいぶ玲子には泣かれましたよ。あいつらの母親です。」男はじっと天井を見た。
「はい。」終着駅のわからないレールを走る列車。
「ほんとは母親と暮らすのが一番なんだけどね。」村田は独り言のようにつぶやいた。
「それは。」オレは言いかけて、下を向いた。
「そしたら友紀もこんなことになっちゃって。」男は再び、とっくりから日本酒を足した。
あっこは中学三年の転校生だった。そしてオレと出会い、単に帰り道が同じってのもあったし、体育祭や文化祭でのグループが同じってのもあって仲良くなった。しかも高校も同じところに行くなんて。そう言うとコウイチはうれしそうに笑った。「運命だよ。」と答えて、お好み焼きを焼いた。「ごめん遅れた。」そう言って、入ってきたあっこ。その隣には、まだ小学生の友紀が立っていた。
「お前、あっこと別れて東京に来るか、地元であっこと一緒に暮らすかよく考えてみろよ。」コウイチはオレにそう言った。
「お前に言われる筋合いないよ。」オレはそう言ってごまかそうとした。だけどそのときのコウイチはやけに絡んできた。
「あっこは、十分傷ついてるからさ。」コウイチはそう言って、居酒屋の安いウーロン茶を注文する。
「ああ知ってる。」てっきり彼女の離婚のことだと思っていた。
「両親のことだ。」ああ、両親の離婚か。
「親が離婚したって話しは、何回か聞いたよ。」オレはつまみを食べながら言った。
「その後の話しだよ。」コウイチはつぶやく。
「その後って。」オレはコウイチの目を見たが、コウイチは目を閉じる。
「色々あったんだよ、そのお義理さんとな。」コウイチは目を閉じながら話した。
「色々?」オレは一瞬寒気がする。
「ああ、言えないようなこと。」言えないようなことって、なんだよ。
「あっこ、中学んとき中絶手術したって知ってたか?」コウイチがそう言ったとき、オレはピクリとも動けなかった。
「いや。」コウイチは鼻をすする。
「内緒っていうか、誰にも言うなよ。」だからってオレにも言えないことだったのだろうか、今まで。コウイチには言えて。
「だから今話してるじゃないか。」本人から聞きたかった、とオレは真剣に思った。いや誰からも聞きたくはなかった。
「オレだってたまたま、たまたま聞いちゃったんだよ。」たまたま。
「友紀がさ、そんな話しをしてるのを。」コウイチはため息をついた。彼もため息をついた。
「その相手って。」それが問題だったんだよな。
「ああ。」お前が東京に来たがってるから、言っとこうと思った。
「そっか。」ずっと黙ってたんだぜ、あいつのためにも。
「ああ。」彼は天を仰いだ。新宿の安い居酒屋の天井は、しかし味気なかった。
だったら今までオレは彼女の何を見ていたんだ。むしろあの頃は、コウイチやオレのほうが暗いと思っていた。いや野球部だから、丸坊主で走りまくって砂まみれで、暗いなんて言ってたらボールとバットに笑われてしまうけど。相変わらずあっこは目立っていたし、華やかだった。彼女は暗さの片鱗も見せなかった。帰りにオレたち3人は、川辺を歩いて帰った。時にコウイチと彼女が後ろを歩いて。オレが振り返ると、夕方の長い影が二人にかかっていた。
「ええ。」男はそう言うとおちょこを空にした。
「友紀の相手は?」オレもおちょこを傾けながら尋ねた。
「言わんのです。」村田はたくましい腕をさすりながら答える。
「産む気ですか。」オレは本筋に迫った。
「もう五ヶ月だからね。」まいったな、それまで気づかないなんて。
「きびしいですね。」そういうオレを、男はまっすぐに見た。
「そう。」村田はもう一本日本酒を注文した。
「はい。」オレはうつむいて、じっとしていた。
「これはもう産ませてやるしかないと思うんだ。私としては。」村田は再びとっくりを手に取った。
「そうですか。」オレはおちょこに注がれる日本酒の匂いをかいだ。
「もう友紀も大人ですから。」大人と言っても、子どもじゃないかと彼は思った。
「でも。」オレは言いかけて、口をつぐむ。
「わかってます。父親がいなくて、子どもを育てるってのはね。」村田は再び遠くを眺めた。
「はい。」オレには結局何もすることができないのだ。
「私も妻もできるだけ協力しますが、向こうのお父さんの考えもあるだろうし。ただし、これは友紀の希望なんです。」村田はそう言うと咳払いした。
「はい。」オレは友紀の青い髪の毛を思い浮かべた。
「だから、あっこにもまた連絡いくと思いますが。」村田がそう言ったところで、オレはため息をついた。
結局、いつもオレには何もできない。コウイチに対しても、あっこに対しても、友紀に対しても。何の足しにもならない。お好み焼きにかける青海苔ほどの足しにもならない。「ね、おいしいっしょ。」あっこがそう言うと、隣の友紀は静かにうなづいた。あっこはその黒い髪をなでた。「やめて。」幼い友紀はそう言うと、姉の手を払いのけた。
「ほんと?」ミユはそう言うと水を飲んだ。
「ああ、シンジにも連絡したし、お母さんたちも明日には帰ってくるから。」眠り続けるそらを見ながら、オレはそう言った。
「このまま起きないんじゃないかって思うと。」ミユはベッドの横に座ると、弱りきった体を小さくした。
「先生も大丈夫って言ってたろ。」オレはなんとか妹を元気づけようとするが、この病室には無力感が漂っている。
「そうだけど。」ミユの小さな背中に、オレは手を置く。
「オレにも何かできればいいんだけど。」オレがそう言うと、妹は振り向いて首を振った。
「ありがとう。」妹にそう言われても、オレにはできることはなかった。
「うん。」ただこうやって寄り添うだけ、それだけがオレの存在証明。
「ありがとね。」おばちゃんは玄関の前でそう言った。
「え、いやはい。」オレはちょっと戸惑った。
「なんだか気がついたら、あんたが来てくれるのをいつのまにか待ってるのよ。」いつもと違う対応。
「は、はい。」柔らかい顔のおばちゃん。オレもそんな相手に心をうたれる。単純なほどに。
「リンは相変わらずだけど、どうぞ中に入って線香をあげてって。」おばちゃんはそう言うと、玄関のドアを開いた。
「あ、ありがとうございます。」オレはそう言って、二階を見た。人影が動いた。