「そうだけど。」目の前を、ずぶぬれの野良犬が歩いていく。
5.辺境 …捜索
「あーやだな。」あっこはそう言うと、シートを後ろに倒した。
「やだも何もあったもんじゃないよ。」オレはそう言うと、フロントガラスのワイパーを一つ強くする。
「だって雨。」彼女は猫のように、助手席に丸まった。
「じゃあ今日じゃなくてもいいのか。」雨粒が窓にぶち当たる。見知らぬ土地の見知らぬ道。
「そうだけど。」目の前を、ずぶぬれの野良犬が歩いていく。
「こんなところに住んでたんだ。」オレは見通しの悪い通りを見渡しながら言う。幹線道路から少し入って、工場や倉庫を抜け、小さな家や畑が点在していた。
「ほんとこんなところって、感じ。」彼女は起き上がると、外を見た。
「わるい。」それはオレらが出会う前の出来事。
「なつかしい。」彼女の暗い過去がつまった土地。
「お母さんには会ってないのか。」彼女は意味もなくオレのサングラスを手にとる。
「うん、もう十年ちかく。」そう言うあっこの表情は、雨のせいかもしれないが曇っていた。
「友紀は?」そもそも行方不明の友紀が、母親の所に来ているというのだ。
「あのコは、いるのかな。」そう言う彼女の顔はなお一層暗かった。
「うん。」オレは雨水でぬかるんだ道をゆっくり走らせる。
「もしいなかったら、警察に捜索願を届けないといけないかもね。」
「ああ。」雨がより一層強くなる。
「そこの路地、左に曲がったところで。」あっこは口紅をつけなおした。
「一方通行だぞ。」オレが言うと、彼女は大きなため息をつく。迂回して車をその家の右側に止めた。
オレとコウイチが野球部だった時代。つまりは中学から高校にかけての輝かしい青春時代。「青春とか言うやつ、殴ってやりたい。」とオレたちは言った。グランド整備に、ベースランニングと素振り。「華やかさのカケラもない。」「甲子園に出るしかない。」と言いつつ、いつも一回戦か二回戦で負けていた。あっこだけがオレたちの救いだった。
「わるいけど。」オレは道にツバをはいた。
「仕方ない。」コウイチは天を仰いだ。
「仕方ない、か。」冬の寒さが心にしみた。
「お前みたいにさ、本気になれないんだよ。」道を歩きながらオレはそう言った。スタジオ帰りだった。
「じゃあなんで東京に来たんだよ。」コウイチが白い息を吐きながらそう言った。
「それは。」オレにもその理由がわからなかった。みんな目的があるというのに。
「夢を探しに来ましたって、そんな年齢かよ。」そう言うコウイチは焦っているみたいだった。
「ああ。」オレはそんな怒るコウイチを見たことがなかった。
「下手でもいーじゃないか。一生懸命やって、それで駄目ならともかく。」やる前から辞めるのかよ、とコウイチは言った。
「そうかもしれない。」オレはただどうしたらいいのかわからなかった。
「まぁいーよ。お前に期待したオレがバカだった。」コウイチはしょっていたベースを振り回そうとする。
「やめろって。」オレはそんなコウイチを見て、バットを振っていた頃を思い出す。
「いーから帰れよ。帰っちまえ。」コウイチはそう言った。
「ああ。」オレは再びため息をつく。
「負け犬は、尻尾をまいて帰るんだ。ここは勝者だけが生き残る街なんだから。」コウイチは息をはずまして、ベースをオレに渡した。
「ああ、とにかく。ちょっと考えさせてよ、本格的に東京行くならまた連絡する。」彼がそう言うと、コウイチは彼の胸倉をつかんだ。
「そんなことだから、あっこだって。」コウイチはそう言いかけると、手を放してスタスタと歩いていった。
「待てよ。」オレはそう言ったけど、コウイチは待たなかった。
「おい。」部屋に戻っても、コウイチは一言も口を聞いてくれない。仕方なく、オレは眠ったふりをした。
「くそ。」泣き声が狭い部屋で聞こえてくる。
夢はどこに行った?甲子園にかけた日々はどこにいった。そう、そんな切れ端と、流れる血のカケラがバラバラになって、中央線でのたれ死んだ。どこぞの街の野良犬だってもう少しマシな死に方をしただろう。オレは年末に、のうのうとコタツに入ってミカンの皮なんてむいていた。コウイチは待ってくれなかった。向かい側のホームめがけてジャンプして、まったく、それは方向ちがいのホーム。
「仕方ない。」オレは紅茶を飲みながら答える。
「仕方ないじゃないよ。入院って、どれくらいの期間かもわからないんだから。お金だってかかるんだから。わかってんの。」ミユはそう言うと、小さな子の頬をなでた。
「ああ、そういう病気だろ。」妹相手だと彼も言葉を選ばなくなる。それでたまにケンカになる。
「病気って、簡単に言わないでよ。」さすがに今回の妹は感情的になっていた。
「そらが目覚めなくなってどれくらい?」彼はだいたいわかっていたけど、あえて聞いた。
「言ったでしょ。」三日と半日か。
「もうダメかも。」いつになく悲観的なミユを前に、彼はなるべく冷静になろうと努めた。
「明日、オレも行くから。入院の手続きをしよう。お金は、お金はなんとかなるさ。シンジにも相談して。」彼女のモト夫の名前を出すと、妹の顔色が変わった。
「うん、あの人にも話すべきかもね。」奴だって娘は可愛いのだ。
「ああ、なんだったらオレが電話したっていい。」妹はようやく席に座る。そらは安らかに眠っている。
「なるべく自分でやるけどさ。もしかしたら色々おにいちゃんにも頼むかも。」こういうときに限って、両親は海外旅行に行ってしまっていた。
「ああ。」彼は目をつむると、まるで別世界にいるような気がした。
「いつまで続けるんですか。」おばさんは玄関の前で言った。
「ええ。」オレはつぶやく。梅雨の湿気が肌にまとわりつく。
「もう大丈夫ですから。」相手の苛立ちもわかる。
「ええ。」オレはなにを言われても、この訪問をやめる気がなかった。
「はっきり言いますけど、コウイチが何を言ったかは知らないけど、もう迷惑ですから。」二階のカーテン越しにリンの姿は見えなかった。
「ええ。」オレは持ってきたお菓子の包みをおばさんに渡す。しかし受け取ってもらえない。
「そのうち警察呼ぼうかしら。」おばさんはぶつぶつ言いながら玄関のドアを閉めた。
「ええ。」オレはただそこに突っ立って、梅雨空を眺めていた。お菓子の包みを持ちながら。
得意のストレートをオレの胸元に投げ込む。「ああ、まったく親なんてな。」オレはカーブを投げてみるが、キレがない。「お前なんてまだいいぜ。」コウイチはそう言うとカーブを投げ返す。キレイにすとんと曲がるので、オレは思わず後ろにのけぞる。「なにが。」コウイチは器用なタイプではないけど、真面目に練習した。「うちは口うるさくって。」オレは思わず笑った。夕方の雲が美しく染まっていた。「そんなのどこだって。」オレはもう一度カーブを投げる。だけど曲がらない。
「お久しぶり。」そう言うと、あっこの母親は無表情に笑った。
「元気そうですね。」あっこも、ロボットみたいに会釈した。
「こんにちは。」オレはお土産を渡すと、外にいますからと言おうとした。
「いいから入ってください。」母親はそう言った。
「一緒に。」あっこに手を引っ張られて、オレは鼻をすすって傘をたたんだ。
「主人は今、出かけてますので。」母親はそう言うと、お茶をいれた。やけに濃い緑茶だった。
「元気なんだ。」あっこが冷たくそう言うので、温かいお茶も冷たく感じるほどだ。
「なんとかね。」母親がそう言っても、無反応にセキをするあっこを前にオレはどうしようもなかった。
「昔は一緒に暮らしてたって。」オレは沈黙をやぶり、取り持つように口を挟んだ。
「ええ。四人で暮らしてたんだけど。」母親はそこまで言うと、突然嗚咽した。
「泣いたって無駄だよ。」あっこはやはり冷たいまま言った。そんな彼女を見るのはつらかった。
「ごめんなさい。」母親はなんとか自分の感情を抑えて、オレの手前もあってチリ紙で鼻をかんだ。
「で、友紀はいるんでしょ。」母親はあっこの言葉を聞いて、うなづいた。
「電話じゃ、ちょっとと思って。」刀を持っているのはどっちだろう、と彼は思った。
「言えばいいのに、いるならいるって。」あっこはお茶を飲むこともしない。
「言ったら会えなかったでしょ。」と母親は真剣に言った。
「どこにいるの今。」彼女は母親の目もみない。
「出かけてるわ、あの人と。」母親がそう言った瞬間、あっこは立ち上がった。
「やめてよ、なんでそんなこと。」オレには何が起きているのかわからなかった。母親はおろおろと戸惑うばかりだ。
「友紀もあたしみたいにしたいの。」あっこはそう言うと外に飛び出した。傘もささずに。オレは追いかける。
「ちょっと。」母親の泣く声が後ろのドアから、雨の中へと染み出して消えていった。
雨の日になると、オレたちはギターを奏でた。もちろん自主トレをして、新体操をやってる体育館の前をわざと通って、コウイチとオレは教室に戻る。「なに笑ってんだよ。」「そっちこそ。」レオタード姿のあっこは、ひと際目立っていた。そんな彼女に妹がいると知ったのはいつだろう。「なんだ、妹いたんだな。」コウイチはそう言うと、あっこは笑ってうなづいた。そしてオレにも一人の妹がいて、コウイチにもおとなしい妹が一人いた。
「落ち着いたか。」横に座るあっこに向かってオレは口笛を吹いた。
「うん。」ハンカチで涙をふきながら、彼女は少し笑った。
「あたし、犬じゃないんで。」口笛やめてもらえますか?って言った。
「ああ、かわいそうな野良犬がいるかと思って。」余計なことをオレはいつでも言ってしまう。
「バカ。」と彼女は言う。
「そんなに泣いても、何も変わらないよ。」また余計なことを言ってしまう。
「わかってるよ。」あっこはオレの肩を叩いた。
「踊ったら?」フロントガラスには雨粒がはねている。
「なにがよ。」あっこもオレもただじっと、そのしがない町の路地で雨音に耐えていた。
「いやそう思ったんだ。昔みたいにさ。」オレはケイタイが鳴るのを無視した。
「でたら?」いいよ。
「ああ、本当はさ、あっこに踊ってもらいたかったんだ。」
「うん。」昔みたいに。
「もう踊れないよ。」ああ、ああ。
「でも少しならいけるかも。」彼女はそう言うと、ドアを少し開いた。
「おい雨。」小粒の雨が泥水にはねた。
「見てて。」彼女はそう言うと、雨の中に出て、傘を広げて舞った。
「ジーン・ケリー。」オレはそうつぶやく。そして外に出てみた。思ったほど、雨は強くなかった。
「ほら。」そう言うと、あっこは昔よりはうまくないけど、昔よりイキイキと踊ってみせた。
「うん。」泣きながら笑う。そんな彼女を見てると、オレは久しぶりに生きてる気がした。