店内ではスタン・ゲッツが曲を奏でている。
4.都会 …失踪
「もしもし。」オレはコーヒーカップを置いた。店内ではスタン・ゲッツが曲を奏でている。
「あたしだけど?」見たことのない番号、聞き覚えのない声。
「だれ。」あっこ?と一瞬思った。
「ユキ。」そう聞いたとき、オレは亡霊と喋っているような気がした。
「あ、ああ。どこ行ってんだよ。」姿を消して、ダンス・カンパニーにも顔を出さなくなって。
「内緒。」オレは肩をすくめると、ハヤシさんに聞こえるように喋った。
「みんな迷惑してるんだぞ、友紀。」ハヤシさんは首を振ると、タバコに火をつける。
「ま、そういうウワサは聞いてる。」誰からだよ、とオレは言おうとしてやめた。
「どこに行ってんだよ、あっこにも言わないでさ。」そのこともあって、彼女とケンカしてばかりだ。
「お姉ちゃんはわかってない。」何がだよ。
「ススムさんもわかってない。」・・・
「なんでもない。」言わないとわからないだろ。
「いーよ、もう。」そう言うと友紀は電話を切った。
「切れた。」オレは呆然とケイタイを見続ける。
「寂しいんだよ。」ハヤシさんは静かにつぶやくと、灰皿にタバコを置いた。
「どうしましょう。」オレはため息をついて、周囲を見渡す。床には、あざやかな赤い絨毯が敷かれている。
「まぁ、根本的な解決は、なかなかタフだよな。」ハヤシさんはそう言うと、ゲッツの音楽をさえぎるように目をつむる。
「タフ。」オレはもう一度コーヒーに口をつけると、勢いをつけて立ちあがった。
人生はなにが起こるかわからない。友紀がいなくなったのは一週間前のことだった。オレはちょうどそのときハヤシさんとカフェで喋っていた。CAFÉ-ORG.「あなたの生活にもオーガニックライフを」というのがうたい文句のこのカフェをオレらは昔から愛用していた。都会の真中にあるオシャレで静かなこのカフェバー。いつもジャズが鳴ってて、スタバほど混んでいない。あっことケンカして、そのことをハヤシさんに相談しに行っていた。
「火あるか。」ハヤシさんは残り一本のタバコ吸おうとしている。
「車のシガーライターなら。」ハヤシさんは「オッケー」と答えてシガーライターのスイッチを押す。
「じゃあ、やっぱり。」オレが聞くと、ハヤシさんはうなづいた。
「最初はよかったんだけどな、元気いっぱいで。」外では都会の風景が夜に舞っている。
「あってると思ったんだけどな。」オレは運転しながらつぶやいた。
「いやー彼女なりに、がんばってたみたいだけど。」どいつもこいつも、問題はあるもんだよ、とハヤシさんは言う。ラジオからはストーンズの若かりし頃の演奏が続いていた。
「でも、問題の根っこが問題なんだ。」問題の根っこ。
「まぁ簡単に言えば、親。」親子関係。誰も立ち入ることができない聖域。
「友紀の場合は。」オレは思わず、アクセルをふかす。シガーライターがカチッという音をたてる。
「ああ、聞いたよ。離婚してんだろ、親が。幼いうちに。」そう、あっことゆきは母親の家に住んでいた。そいで養父と一緒にしばらくの間、育った。傷をかかえて。
「そこでなにがあったかまでは知らないですけど。」オレはハヤシさんのタバコに火をつけた。
「一見フツーなんだけどな。」ハヤシさんはタバコを吸って煙を窓から吐いた。
「青い髪の毛がフツーですか。」ハヤシさんは笑う。
「ああいう子の方がフツーなんだよ、ほんとは。」オレはあっこのことを考えていたけど、今や姉妹のどちらもコインの裏表でしかないように思えた。
かつてあっこがこう言った。「悲しいなりにがんばってんだよ。」そして彼女は笑顔を作った。あまりにそれが切なくて、オレはあっこが嫌いになった。いや、嫌いになるように努めた。しばらくは彼女がいなくてホッとした。でも何をしていいのかもわからなかった。時間と行動だけがすべてを解決へと導く。オレはアメリカに飛んだ。
「わかるよ、お前の言うことも。」コウイチはそう言うと、投げやりにベースを叩いた。
「わかってないよ、だってあっこのことはオレのほうが知ってる。」久しぶりに抱えたギターは、他人の赤ちゃんみたいにぎこちなかった。
「そう言われると。」コウイチは苦笑いしてアンプをいじった。
「だけど、だからといってオレがあいつにしてやれることって何?」ギターが手につかない。
「おいチューニング。」コウイチが指摘する。東京に来てますます冴えてきている。そりゃそうか、プロを目指してんだから。
「わりー。」じゃあオレはいったい何のために来てるんだろう。
「ギターは難しい。元野球少年にとっちゃ。」そんな言い訳、聞き飽きたというふうにコウイチは首を振る。
「せっかく来たんだから、スタジオでも入ろっぜ。」そう誘われて、オレはうれしかった。地元で最後に演奏したのはいつだったろう。
「何してんだよ。」コウイチはチューニングにてこずるオレのギターを手に取る。
「わるい。」オレはスタジオのミラーにうつった自分の顔を見る。歳をとった老人のような表情。
「なにボケっとしてるんだよ。」コウイチがミラー越しに言う。しかも、すぐそこには死神が立っている。
「ああ。」今のオレにはそう答えるしかなかった。
「できたぞ。」その時、コウイチは元気そうにコードを奏でた。
何年前のことだろう。学生時代も、そのあとも、しがないバイトを続けてきた。ダンスや音楽もやって、どれもモノにはならない。空気と一緒で女たらしは、しっかりと存在しているというのに。死んだ者たちも、生きとし生けるものたちも、同時に存在しているような気がする。親になり、子になり、そうやって続いていく。因縁のわっかがオレを絡みとる。
「何回来ても、会わないと思うよ。」おばさんはそう言った。
「いや顔だけでも。」二階の窓を見上げると、カーテンごしに人影が動いた。
「いやありがとね。」その言い方が、どこかつっけんどんなのにオレは気がついた。
「リンちゃんによろしくです。」やはり迷惑だったかな、とオレは思った。
「うん。」おばさんはそう言うとドアを閉めた。
「こ、コウイチがよろしくって言って。」オレは立ちつくす。いつまでたっても開かないドアを前にして。
「だからさ、お兄ちゃんもしつこいよね。」妹が泣きながら言った。
「あーそれだけがとりえだから。」くうちゃんを抱っこしながら、ミユは目をつむる。
「ちょっとしたストーカーじゃない?」うるせーよ。そうでもしないとさ。
「余計なお世話だって。」タマネギを切りながら、妹は歌う。
「なぁくうちゃんさ、最近寝すぎじゃない?」オレが言うと、さすがのミユも鼻歌をやめた。
「そうなんだよね。お兄ちゃんも気づいた。」そりゃ気づくさ。
「ちょっと様子がおかしいのね。」元々、自閉症の子ではあるんだけど。
「病院行くなら車出すよ。」包丁をトントンしながら妹はうなづいた。
「うんありがとう、またお願いするかも。」人と違うということはどういうことだろう。
「ああ。」オレも涙をふいた。
オレたちの踊りを見ててくれたかな?いやダンスのことじゃない、ボールを投げたり必死にバットを振ったりしていたときのことだ。風が吹いて「気持ちいい。」って言ったり、誰かに恋して照れくさかったり。そんなときのこと。オレは新たな冒険を終えて、帰ってきた。その間、あっこは日本で暮らしていた。まだ彼女は郊外の父親の家で、友紀と一緒に住んでいた。幼いころの記憶をひた隠しにして。でも傷ついた心は、どこに飛んでいくんだろう。天国、それとも地獄。
「東京に戻んなきゃ。」オレは電話ごしにセキをした。
「さよなら。」あっこは無機質なトーンで答えた。
「いや、だからさ。」オレは声を高める。
「なに?」あっこはガサゴサと何かしている。
「なにしてんだよ。」オレはそれが気になる。
「なにもしてないよ。化粧水。」オレはため息をついた。
「友紀のことなんだけど。」あっこがピタリと止まるのが彼にはわかった。
「なに?」オレは大きく息を吸い込む。
「いやだから、もし何かあれば警察に。」オレは言いかけて、途中で目を閉じる。
「母親から。」あっこがそう言った。
「え、なに。母親って。」オレはあっこの幼い頃の姿を見た気がした。
「そう、実の母親がさ、電話してきて。」今度はあっこがため息をついた。
「それで。」オレは次の言葉を待った。
「それだけ。」そう言うと、あっこの前に闇が広がるのがわかった。
「友紀のこと何か言ってたのか。」オレはその闇に踏み出そうとする。
「なにも。」あっこの声が震える。
「そっか。」オレが彼女の母親の話しを聞くのは、これが初めてだった。