断章・その3
◆断章・その3◆
ハインリヒ・シュミット。それが彼の捨てた、かつての名前である。
ドイツのローテンブルク郊外にある裕福な家庭で生まれ育ち、大学では中世史を専攻。拷問吏だったという先祖に興味があったのが、その理由である。
そして中世の拷問史を調べているうちに、拷問そのものに興味が移った。
卒業しても大学に講師として残り研究を重ね、両親の遺産をつぎ込んではアンティークの拷問具や、そのレプリカを買い漁った。
その後助教授に昇格し、大学の恩師の娘と結婚。
コレクションは納屋の地下室に隠した。
妻は解放的な性格だったが、同時に女権運動家でもあった。拷問具の中には女性専用の道具もあったので、これらの存在を知られると面倒だ。
ある日ネットで知り合った同好の士に秘密の魔術結社を紹介された。
大学で中世史を専攻していたせいか、入会してすぐにのめり込んだ。
カバラ魔術に使われる大仰な道具の数々は彼の嗜好によく合い、習った魔術は拷問具との相性が良かった。
これらを組み合わせて魔術的な拷問具を生み出した時、結社の上層部に認められて【残忍なる3番】のコードネームを授けられた。
それとは別に魔術の儀式に使う魔法名を持っていたが、結社ではドリットの名を好んで用いている。
その後結社の拷問係に任ぜられ、裏切り者の処罰や派閥争いなどで彼の研究成果は思う存分に発揮された。拷問は暗殺と同義の任務だったが、大学の助教授などよりも遥かに有意義な仕事であった。
ある日の出来事である。
予定されていた大学の講義が中止となり、早く家に帰ろうと道を急いでいると、街中で妻が知らない男と一緒に歩いているのを目撃したのだ。
妻は軍人らしい男の腕に絡みついていた。ただの知り合いでないのは明らかだ。
彼は妻を心の底から愛していたが、彼女の方はそうでもなかったらしい。
裏切り者には拷問を。それが彼の結社における役割であり、彼の信条でもあった。
すぐに大学へ戻り、化学実験室から一瓶のエーテルを盗み出した。
エーテルは麻酔薬の一種で、クロロホルムの代用にもなる。それをハンカチに含ませ、家の玄関で妻に嗅がせて眠らせた。
映画やドラマとは違って、人間を薬で眠らせるのは大変な労力を必要とする。
なかなか眠ってくれない妻を押さえつけ、時間をかけて何とか意識を失わせた。
ぐったりとした妻を引きずって、納屋の地下にあるコレクションルームへと向かう。
そこにはまだ誰にも使っていない拷問具の数々がある。彼はその収集品を使って、妻から浮気の事実を洗いざらい白状させようと考えていた。
殺そうとまでは思っていなかった……その時までは。
眠っている妻を拷問台に乗せて、革のベルトで手足を縛り上げる。
目を覚ますと何か呻いていたが、猿轡を填めているので何を言っているかはわからない。
だがこの時、ハインリヒは拷問の準備に熱中するあまり、妻から浮気の供述を得るという本来の目的を完全に忘れ去っていた。
ゴールを見失った拷問の日々が始まった。
若い馬、苦悩の梨、尋問椅子など、3日3晩に渡ってありとあらゆるコレクションが試された。やり方は先祖の古文書に記されている。
苦しみに悶える妻の姿は美しかった。
絶叫は耳に心地良かった。
彼は夢中になって妻を虐り続けた。
そして4日目の朝日が昇った時、彼はようやく妻が息絶えている事に気がついた。
彼はボロ雑巾のようになった姿を愛しいと感じたが、死んでしまってはもう拷問ができない。
残念だ。もっともっと拷問したかったのに。
また妻の苦しむ姿を見たい。できれば永遠に彼女を責め続けたい。
そしてしばらく死体を苛めていたその時、彼の頭脳に天啓が舞い降りたのだ。
さっそくコレクションの拷問具を組み合わせ、人形を作った。
胴体に見立てた鉛色の鉄の処女に妻の遺体を納めて魔術を施す。
そして亡き妻の魂を捕らえて死体に縛りつけると、人形は地獄の咆哮を上げた。
動き出した拷問人形は【鉛の案山子】と名づけた。
これでずっと妻と一緒にいられる。
彼は妻を愛していた。これからも愛し続けるつもりだった。
そして大学講師ハインリヒ・シュミットは、俗世間から姿を消した。
結社の仕事で世界中を駆け巡り、改造を重ねた鉛の案山子を連れて、裏切り者や結社の敵を捕らえては拷問を加えた。荒事は得意ではないので、標的は常に不意打ちで仕留めている。
そして彼の功績は組織に高く評価され、新たな任務が与えられた。
大手のオカルトサークルに潜入し、乗っ取りのための情報収集を行うのだ。
肩書きは拷問史のアマチュア研究家である。ついでに魔術マニアも名乗った。
潜入任務は初めてだが、これなら何も隠す必要はない。
そんなある日、魔術サークルの上層部から、内偵を目的とする新設部署に入らないかと誘われた。 もちろん拷問の知識を買われての事である。
スパイに内偵をさせるなど本末転倒だ。サークルの行き末を心配したくなるドリットであったが、これなら正体がバレる心配はないだろう。やりたい放題だ。
そして最初の任務で、通訳を連れて台湾へと渡った翌日の事である。
北東から強烈な魔力の波……いや閃光を感じたのだ。
サークルではなく結社にメールで問い合わせると、すぐに返答があった。
【魔王の翠玉】という伝説上の宝石によるものらしい。
宝石の調査と奪取を命じられ、その日のうちに商売道具を積んだ小型コンテナ船で、日本の神之寝島に向かった。
通訳も一緒だったが、彼には調査のみと伝えている。
いざとなったら通訳を殺し、盗んだ宝石を持って逃走すればいい。
貨物に紛れてひっそりと上陸し、準備を始める。
そして通訳がアジトと移動手段の調達をしている間に、上陸に使ったコンテナ船の船員を全員捕縛した。
彼の魔術には生贄が必要なのだ。
しかし目を離した隙に全員逃げ出してしまい、鉛の案山子に捕まえさせたものの、力加減を間違えて殺してしまった。
しかも地元警備員に見つかりそうになって、そのまま埠頭に放置してしまったのだ。
だが現時点において計画に支障はない。もっと生贄を集めねば。
しかし最初の【狩り】で現地の警備員を捕らえてみると、妙な3人組が現れて邪魔をされた。
その1人は鉄でできた人形で、伝え聞いていたより小さいものの、魔王の翠玉を使って駆動しているらしい。
そしてその人形は、まるで生きているかのように鮮やかな動きを見せていた。それどころか、自我すら持っているようだ。
そうか、あの宝石はあんな使い方ができるのか。
あれを手に入れれば、永遠に妻を拷問できるに違いない!
もう結社もサークルも関係ない。
あれを奪い取って、鉛の案山子に取りつけよう。
宝石の力で妻の死体を動かして、終わる事のない拷問と悦楽の日々を送るのだ。
サークルはともかく、結社の命令に背くと恐ろしい制裁が待っている。
彼の仕事が正にその制裁だったので、結社の恐ろしさは誰よりもよく理解していた。
だが彼は畏れない。躊躇わない。
なぜなら彼は、亡き妻を深く深く愛しているのだから。