表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

文学研究って、作家の「伝記」を書くことですか?そうじゃないでしょ?あくまでも作品研究でしょ。作家と作品は乖離してもいるのだ。

作者: 舜風人

文学研究家のしばしば陥る「落とし穴」がある。


そもそも文学研究とは

そこにある、小説なりポエムなりを

つまり「作品」そのものを分析する?研究するってことでしょ?

それが本筋のハズ。

ところが真正面から作品自体の分析をするのは大変?なので

ついつい?

作家と作品との相関関係について?

つまり作品を作った作家の分析から始めてしまうのである。


作品分析の補助?としてどういう作者だったか、、

というのを一応知っておくのも無意味ではあるまい。


だがよほど用心しないと、、その先に待ち構えているのは「落とし穴」だ、


それは作家の成育歴とか「なんとか体験」

詳しく研究することで

その作家を理解した?と

錯覚してしまうことである。


まあ、その作家がどういう人生を送ったのかというのを詳しく

調べつくすというのも、あながち無意味ではないだろうが


作家の成育歴(伝記)イコール、文学作品解明?という誤解?が生まれる危険性がある。

作品とはあくまでも、独立した創作物であり、

作家という創作者の理念や想像力で生まれた「被造物」である。

そういう意味では作家からは独立した存在でもあるのだ・


例えば、、ゴッホの伝記や生涯をつぶさに詳しく知ったからといってじゃあ、

肝心の絵のほうは、絵の研究は?

それに、触れないのでは、、意味ないでしょ。

文学においても、

それを安易に?

「この作品は、作者のなんとか体験が背景にある」、、とか結び付けて

さも作品自体を理解したかのような研究が世の中には多すぎる。


じつはそういう作者の「なんとか体験」が確かにあったのだろうが、

だがそれは作者の中で昇華されて作品化しえたという事実にはなるだろうが

作品の芸術性とかの分析にはなってないというワナがある。


例えば、、

ヘルダーリンのディオティーマ体験

ノヴァーリスのゾフィー体験

ホフマンのユーリア体験


などなど、、だけが詳しく論じられて


じゃあ、、

「ヒュペーリン」自体の文学的な分析はどうななんだよ、

「青い花」の錬金術的な意味はどうなんだよ?

「悪魔の霊液」のゴシック性については?


そういう研究こそ文学研究でしょ?


といいたくなるのは私だけでしょうか。



作品そのものを虚心に読み解き、その意味とか芸術性を論じなければ

それは文学論からは、乖離したものでしかないのである、


例えば宮沢賢治のナマの伝記をいくら詳しく書いてみたところで、

彼の童話の秘密を解明しえたことにはならないのと一緒である。


作家の伝記を書いてみたってそれで作品の秘密を解き明かしたことにはならないのである。

文学研究とはそれはあくまでも「作品論」でなければならない。


作家の人生とか成育歴とか、伝記とか、石ころが好きだったとか

法華経の信者だったとか

「賢治の人生におけるトシ子体験」とか

そんなことだけいくら詳細にほじくり返してみたところで、

じゃあ


「クラムボンは笑ったよ。

 クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」


という、なんとも魅惑的なフレーズの解明には何の役にも立たないということだ。

作品自体を虚心に読み解くという作業から逃げて、作者の伝記を詳しく書き綴ってみたところでそんな行為は

文学論でも、何でもない。ただの「伝記」をかいたということだけなのだ。

例えば、、「ゲーテ研究」という1500ページの

すごい分厚い研究書?がある。


で、、

中身を読んでみると。

何のことはない。

1500ページにわたって

ゲーテの幼少期から青年期・壮年期・老年期までの


実に重箱の隅をつついたような詳しい伝記でしかなかったという笑えない事実。

そこでは、、

彼の作品については

「ファウスト」は何年に書かれました、、

「ウイルヘルムマイスター」は第一部が何年に、第二部が何年に書かれました、、という事実の記載だけです。

作品の内容分析なんて皆無、


まさにこれでは、ゲーテの伝記研究ではあっても、ゲーテの文学研究ではないでしょ。


ゲーテのただあまりにも詳しすぎる1500ページの伝記でしかない。

文学研究ではないでしょ。

どこにもゲーテの個々の作品の秘密や深奥や、芸術性の詳しい探求も

研究もない。掘り下げもない。

ただの伝記で「ゲーテ研究」というのではこれは文学研究じゃないでしょ。


だが、、世に横行するいわゆる「文学評論」とか

「作家研究」というのは

この手の作家の伝記を書いただけ、、というのがほとんどなんですよ。


それが世に横行する「文学研究」の実態です。


というのもそもそも

批判を恐れずに言ってしまえばですね。

いわゆる「文学研究者」というのは

自分に文學創作の才能がない人が最後に落ち着く逃避先?だからです。


こういう人にそもそも、その作者の文學創作の深奥が分かるはずもない。

作品の秘密や芸術性やポエム性や心象風景が

わかるはずもない。


だから?

ただ、作者の伝記を書いて

「ゲーテ研究」なんて言う

何のことはない地道に調べ上げたゲーテの、事細かい

というか、どうでもいいような事実の寄せ集めである「伝記」を

1500ページも書いて、得意満面で、「これがゲーテ研究の究極です」

などと

うそぶくだけなのだ。


でもこんなの文学研究でも何でもないシロモノでしょ。


あるいは、

「ゲーテの日常生活」なんてのを1000ページも書くのも同様ですね。

だからどうなんだよ、

ゲーテが、どういう食事が好きだったとか

どういう服装をしてただとか、

どんな癖があったとか

こんなおもしろい逸話があったとか

そんなトリビアな知識が

作品の事態の芸術性とか訴求性の研究にとっては

どうでもいいでしょ?そんなこと?


そんなのより、

例えば「ミニヨン」の

創作上の秘密とか、意味づけでも研究しろよ。

と、、思うのは私だけでしょうか?


まあいわゆる「文学研究者」なんて言うのは

自分に文才もなくて

創作もできないような人がなるって決まってますから。


どだい創作の秘密なんてわかるはずないんですよ。

だから作品自体(小説やポエム)に向き合って掘り下げるなんて無理なんですよ。

だから作者の伝記に逃げるんですよ。


伝記書くのは、ただ地道に資料集めれば

誰だって?

いくらでも膨大な、1500ページだって

「ゲーテ伝」を書けますからね。

でもこれでは「文学研究」ではないです。

ゲーテの伝記を書いただけです。


そうではなく。

文学研究とは改めて言うまでもなく。

ゲーテの作品を解明した、追及した、

掘り下げた

創作の秘密を解明して見せた、


そういうことでしょ。

それをしないで?

それができないで?


誰だってただ地道に資料を調べればできるような

作家の伝記を書くという「逃げ」に走ったら


それはもはや「文学研究」ではない邪道だということです。


だから?


例えば、、、


匿名の作者の、とんでもないようなずば抜けた作品というのは

こういう「エセ文学研究者」には大の苦手ですね。

作者が誰だかわからないのではエセ文学研究者のお得意の「伝記」を書いてお茶を濁すという得意技ができないからです。

作者の作品に及ぼした「何とか体験」も、書くことが不可能ですからね。

彼らの一番苦手な

直截に作品分析するしかないのですから困ってしまうというわけです。

まあ、、そもそもこういう作者匿名の図抜けた作品になど、彼らは手を最初から出しませんけどもね。



そうして、、


世の中には、


こういう


作家の伝記だけでもって、これぞ文学研究ですよ、、的な

まあはっきりって、ごまかしでしかないような


いわゆる


ニセ「文学研究」


エセ「文学評論」なるものが


ほとんどすべてだ、、という


悲しい?


あるいは


笑えない?


事実だということなのです。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ