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◇ ◆ ◇
「ふう……」
小屋の中では、沙弥と桜花が夕食の片付けをしていて、菊造はおそらく「あちら」の世界から持ち込んだのだろう、先ほども見ていた小さなメモ帳に何事かを書き付けている。
志信も手伝いを申し出たのだが、体を休めることに専念しろと断られてしまった。
手持ち無沙汰だったし、少し独りの空気が味わいたくて、木戸を開けて外へと出た。
空は気絶する前に見た曇り空が嘘のように晴れ上がっていた。
無数の星が瞬く夜空。東京はもちろんのこと、それに地方にあった実家でもこれほど星はくっきりとは見えはしなかった。
冷えゆく荒地の空気は肌を刺したが、まだ我慢できないほどでは無かったし、むしろまだぼんやりとした混乱の抜けない頭には、冴えるようでちょうど良かった。
「あちら」……そんな風に、つい昼間まで居た現実の場所をそんな風に呼ぶことになるなんて、誰が想像できただろう。
途中で残してきた仕事、賑やかな後輩や気の良い同僚、数は少ないけれど付き合いの長い友達、実家の両親。
あちらの世界に満足していたと言えば嘘になる、だけど、そう簡単に全部なくしてしまえるものでは無かったはずなのに。
――案外……堪えないもんだな。
これも、異世界に来てしまったなんていう、現実感の乏しい『現実』のせいなんだろうか。
あちらの世界でのことが、思い出までもが、全てガラス壁一枚隔てた向こう側に行ってしまったかのように、実感が持てなかった。
ふと、煮詰まった時の癖で胸ポケットをまさぐって……その存在を思い出す。
どうやら、異世界に連れてこられても、モンスターに襲われても無事だったらしい。
胸ポケットの中で一層くたびれた感じになったタバコを取り出してくわえる。
火を付けようとして、しかし、いつもズボンの右ポケットに入れてあるライターは不在なことに気づいた。
――あー……屋上で倒れた時に手放しちゃったのかな。
憮然としてタバコを戻そうとしたその時、目の前がぽっとオレンジ色に明るくなる。
「火がご入り用かな?」
皺の奥の目が微笑みを刻む。指先にライターサイズの炎を灯して、しかし、そんなのは現実では手品でしかあり得ないもの。
そんなことをさも当然にようにやってみせるのは、本当に異世界の魔法使いかと錯覚した。
「ありがとうございます、いただきます菊造さん」
「その代わりといっちゃなんじゃが、わしも一本いただいてもいいかな。タバコなぞ久しく吸って無かったが、懐かしくてな」
「ええ、是非」
火を貰ってから、なるべくくたびれていないタバコを選び出して、菊造に手渡す。
浅く吸って、はき出した煙の味は、昼間吸った時よりも随分美味い気がした。
「いや、やはり美味いもんじゃな。医者になんだかんだ言われて絶っていたが、やはり我慢はするもんじゃないのう」
指から出した炎を明かり代わりに中空に浮かべて、ぽっかりと輪になった煙を吐き出す。かっかと笑う菊造の横顔を、志信はみやった。
「菊造さんは、いきなりこんなことになって……平気ですか?」
「平気……というと?」
「すみません、藪から棒に。でも、なんかみんな普通にしてるから……あっちの世界からいきなり連れてこられて、思うこととかないのかなって」
「わしらはこっちにきてもう数日になるからのう……じゃが、ああ見えて沙弥は最初の内は随分泣いておったぞ」
「そう……なんですか?」
随分とマイペースで、元気よく見えた沙弥。
人は見た目はいくらでも繕えるということだろうか。
「わしなんぞはもうあちらどころか人生に思い残すことはないからのう、婆さんにももう何年も前に先立たれておるし、身軽なもんじゃが、まだ若い沙弥にも桜花にも色々あったはずじゃ」
「そう……ですよね」
タバコから灰が落ちる。
「そういう志信さんは……むしろ、随分平気なように見えるがね」
菊造のそんな言葉に、志信は苦笑せざるを得なかった。
「自分でもおかしいなと思ってるんですよ。それなりに残して来ちゃったものはあるはずなんですけど、それでも、あんまり悲しくも……腹立たしくも無くて」
「最初に集められた連中にも、異世界に来れたと喜び勇んでいるのも多く居たがね」
「そういうのとは違うとおもうんですけどね……もう、勇者だの魔法だの、憧れる歳でも無いですし……」
「勇者、正義の味方、魔法使い。そういったもんへの憧れに歳なんて関係無いもんじゃよ。ほら、わしだって」
そうローブを翻して、茶目っ気たっぷりに菊造は笑って見せた。
「婆さんが死んでから手持ち無沙汰ではじめたこのゲームじゃったが、気付けば随分熱中してしもうて。魔法使いじゃとはしゃいでるうちにこんなことになってしまって、ざまぁないと言うところかもしれんが」
「俺も昔は随分熱中したもんですよ。ほんと、勇者だなんだって」
「そんなゲームを止めてしまったのには、何か理由があったのかね?」
年取った人特有のどこか底知れず澄んだ目を向けられて、志信は言葉に詰まってしまう。
「そう……ですね。やっぱり勇者になんてなれないって……わかっちゃったからですかね」
「そうかのう、それは残念じゃ」
わずかに目を伏せる。勇者というのは、格好良い人なんだと無邪気に思っていたあの頃。
魔王を倒すのが勇者なんだと、単純に思っていたあの頃。
子供だったの一言で済ませてしまうには、大きすぎる思い出。
勇者として呼び出されたという志信達。ならば、勇者とは一体なんなのだろう。何をすれば勇者になれるのだろう、どうあれば、勇者であると言えるのだろう。
「魔王っていうのを倒せば、帰れるんですかね」
火の消えたたばこを指につがえたまま、天を仰ぐ志信に、菊造も同じように星空を見上げた。
「どうなんじゃろうなぁ……この世界の150年前に来たという勇者達がどうなったのか……調べていけばわかるのかもしれんのう」
「そうですね、何にせよ色んなことを俺達は知らなすぎる……」
「その通りじゃ。わしらも実のところまだこの世界の人達と話をしたこともなくてな。まずはこの荒地をすぎたところにある街に向かおうと思っておる」
「それが良いですね……というか、菊造さん達は何故こんなところに」
「貧乏くじを引かされた結果じゃよ」
珍しく不機嫌そうに菊造は鼻を鳴らして見せた。
聞けば、この世界に召喚され神の御前に集められた勇者達は、その場である程度の集団に分かれ、世界中に均等に散るように飛ばされていったのだという。
当然、SOの中でも有名だった高レベルや、人気プレイヤーの回りには多くの人が集まり、畢竟その行き先には大国が割り当てられた。
中小とはいえどもギルドや狩り仲間で固まることが出来た人々は、中小国や、大国の辺境都市へ。
そして……最後まで余り物だった、3人はとんでもない辺境に飛ばされた、ということらしい。
「こんな爺を誘う輩はおらんでな。沙弥は絡んでくる男どもみんなに噛みついていたから、しまいには誰にも相手にされず……桜花はゲームの中でも特殊な存在だったらしくてな。わしは寡聞にして知らなかったのじゃが」
「へえ……」
異世界に来てまで、ゲームの中のパワーバランスみたいなものの一端が見えて、志信は肩をすくめた。
「まぁ、わしは良かったとおもうておるよ、あんまり『元気の良い』連中ばかりでは疲れてしまう。沙弥も桜花も、手のかかる孫のような気分で相手が出来て良いことじゃ。志信さんも、良い人そうじゃしな」
「さぁ、それはどうでしょう」
面と言われることのない評価に、そんな言葉で照れを誤魔化した。
「あ、あと。志信さん、なんて良いですよ。もっと適当に呼んで貰えた方が、気楽で良いです」
「そうか。ならば……シノというのはどうかの。異世界にも居そうでいいじゃろう」
「……それ、昔の俺のキャラクターネームですよ」
「それは重畳」
かっかと笑われては、拒否することも出来ない。
「わしのこともキャラクターネームで呼んで貰おうかの。ダインと言ったんじゃ」
「菊造、よりはよっぽどファンタジーですね」
「じゃろ」
にやりと唇の端をもたげてみせる、実際の年よりは随分、若々しく見えた。
しばらくの沈黙が流れる。
青年と老人は揃って空を見上げた。巡りゆく星はそうやってよく見てみれば、やはり元の世界の星空とは確かに違っていた。
知らない星、知らない星座。
それらがゆっくり動くのを見上げて居ると、ふとどこまでも落ちていきそうな錯覚に囚われないでもなかった。
世界が、こうも簡単に変わってしまうものだなんて、思いもしなかった。
「神様がのう、誰だかの質問にこう答えておったんじゃ」
中空に浮かぶ火を消して、小屋の扉に手をかけながら、菊造はふと。
「何故わしらが選ばれたのか……それは、願いがあるものを連れてきたのだ、とな。人の子らよ、その願いはこの世界で叶うだろう、と……はて、わしには自分の願いがなんなのかはそう言われてもわからんかった。
……その願いを探してみるのも、また一つの目的かも知れんの」
ドアを開けると、沙弥が不満げな顔をしてなにやら騒ぎ立てている。
それを孫をあやすようになだめる菊造の背中を見ながら、志信はもう一度、空を見上げた。
――願い……か。
早速一日空いてしまいましてorz......
とりあえず導入はこんなところ! 次回から異世界冒険です!