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 目覚めは、朝のそれよりは余程はっきりしていた。

 

 眠りでは無い、これまで経験したことの無い意識の断絶の危機感によるのが、恐らく一つの理由。

 そしてもう一つの理由。横たわっていた場所はいつまでも目覚めを阻害する自宅の布団でも無く、医務室や病院のそれなりに寝心地の確保されたベッドでさえも無かったということ。


――あれ……俺……。


 最後に見た空は青かった。

 だが、うっすらと開けた志信の目に映ったのは、不吉な昏い色の腹を晒す分厚い雲に覆われた空だった。

 時折、疼くように光るのは雲の間を翔る稲妻か。遅れてやってきた音が、耳朶を震わす。


――俺……屋上にいって、それで……。


 晴れ上がっていた天気が随分急変したものだと思う。尤も夏の天気は変わりやすい。ゲリラ豪雨だなんだとニュースになる時代だしと、自分を納得させて起き上がろうとした。

 目眩に襲われて気絶までしまったようだが、幸い大きな怪我はしていないようだった。体に大きな痛みも、痺れるような感覚も無く、手足も動かそうと思った通りに動く。


――仕事中に気失うとか洒落にならないよな……いや、心置きなく休暇を取れて万々歳か……あれ?


 両手を体の脇に突いて……そこで初めて、志信は違和感に気付いた。


 ごつごつとして掌に刺さる地面。手入れが行き届いているとは言い難かったが仮にもコンクリートを敷き詰めて作られていた会社の屋上とは、全く異なる質感の……大地。

 頭を覆っていた気怠さは一瞬で吹き飛び、跳ね上がるように体を起こす。


 屋上を囲んでいたフェンスも、空を隠していたビル群なんて影も形も無く、あったのはただ一面の荒野。

 緑なんて見る影も無い無彩色の大地に、天に突き刺さらんばかりの岩山が遠く偉容を成す。


「なんだ……これ」


 オフィスビルどころか、東京であろうはずも無い。日本であるのかも怪しい。どこまでも荒涼としきった景色に、志信は立ち尽くした。

 

――夢でもみてんのか……それ以外あり得ないよな。どうやったって……。


 これが現実である可能性……気絶していたわずかな間に起こりえたどんなことでさえ、今見えているものの辻褄を合わせることは不可能だった。

 明晰夢というものがあるという。夢を夢だと自覚して、自分の思ったとおりに夢の世界の中でも行動できる夢。きっとこれは初めて経験する明晰夢なのだろうと志信は思った。


――明晰夢って確か夢の内容もある程度思い通りになるんだよな。えっと可愛い女の子、可愛い女の子。黒髪で素朴な感じで切れ長の目の……じゃねえよ。


 沸き上がったあらぬ煩悩を打ち消して、かぶりを振る。夢なのだとしたら早く目覚めないと。気絶してからどれくらい経ってるのかは知らないが、午後にもいくつか予定が入っていた。電話もいい加減折り返さないとならないだろうし、後輩も心配しておたおたしているだろう。


――悪いことしたな、雨宮。


 目覚めろと願えば、目覚めるものなのだろうか。

 だが、心の中で目覚めろと10回は呟いても、目の前の景色が消える気配は無い。

 頭を掻きやって、ため息をついた。夢の中で仕事の心配するなんて因果なものだなんて思う。


 ……だが。


 ル、グルゥ……ッ


 若干途方に暮れた志信の耳を、吹きすさぶ荒れた風とは異質な音が打った。


 低い、低いうなり声。少し遅れて鼻先をかすめる、生臭い臭い。


 本能的な危険を告げる感覚に、弾かれるように振り返る。


――っ!? いつの間に……っ


 そこに居たのは、犬……志信が目にしたことのある動物の中では犬に最も近い。だが、大型犬と呼ぶにもいささか大きすぎる体躯の……獣。

 志信の二倍はありそうな全身は薄汚れた灰色の毛並みで覆われ、赤い瞳が爛々と輝く。牙は閉じられた口からもはみ出すほどに長い。

 そんな獣が、今にも飛びかかろうと身を屈めて、志信の方をその凶暴な光の目で睨み付けている。


「こんなの出てこいなんて、願ってねえぞ……」


 夢だとわかりながら、思わず漏れた声が掠れた。願ったとしたら美少女なのに。それともこれは深層意識か何かの反映か。荒涼とした大地に、襲いかかりくる獣。


――割と今の俺の心理状態にはぴったりな気もするな。


 そんなことを考えて苦笑した。

 次の瞬間、撓めたバネが弾けるように、鋭い一吠えとともに獣が志信に向かって跳躍する。


――っ!


 反射的に、ほとんど横に倒れ込むように飛んで身を躱す。だが、身構えてさえもいなかった上、デスクワークでなまった体は平均的な運動能力を発揮するかどうかさえ怪しい。

 弧を描いた獣の爪が、肩をかすめた。


「あっ、ぐああああああああっ!!」


 血飛沫と一緒に、絶叫が宙にはじける。


 急激に高まる心拍。頭を痺れるような圧迫感が満たし、耳の中でうるさいほどに鼓動が鳴る。胃がちじみあがって、こみ上がってきた吐き気が、空咳に変わって口から零れた。


――嘘……だろっ


 その一時で、志信は理解していた。理由だとか、原因だとか、あり得るだとかあり得ないだとか、そんな論理的な思考は一切飛ばして。

 ただ、肩から全身に広がる燃え上がるような激痛が、唯一の真実を告げる。

 

 これは、現実だと。


 一体何がどうなってしまったのかは全く解らない。こんなことがあるはずがないという判断はまだ頭の中で大半を占めている。それでも、相手が自分を殺そうとしているという現実は理解出来た。


 必死に起き上がり、よろけながらも獣の方を向き直った。一撃で獲物を仕留めることに失敗した相手は、次の機会を狙って隙無く、四肢を踏ん張っている。

 

 こちらには武器も何も無い。鍛えている訳でも無い拳が武器の代わりになると過信出来るはずも無い。

 逃げようにも、あれだけの跳躍を見せた獣を振り切るなんて不可能だ。

 灼熱感を伝える肩に庇うように手をやると、生暖かい感触と供にまた痛みが走り、うめき声が漏れた。

 今まで流したことの無い量の血が……少なくとも掌をべったりと濡らすほどには、流れ出しているようだった。


――良くわからんけど……これ、もしかして俺死ぬのかな。


 ふと頭に浮かぶ、まるで、随分他人事のような感想。

 急な目眩に襲われて倒れたと思ったら、見ず知らずの荒野にいて、見たことも無いような獣に襲われているという、現実感に乏しい状況だからだろうか。

 それとも人間、実際死にそうな状況を目の前にすると、こんな風に他人事にしか感じられないものなんだろうか。


――あいつは、どうだったんだろうな。


 随分と昔のことを思い出してしまうのは、もしかして走馬燈と言う奴か。


 苦痛に歪みきった顔で、それでも皮肉めいた思いに唇の端を持ち上げたその時。


 もう一度、獣が跳躍する。

 もう次は無いと、一度目以上の速度で。


 避けようと思った瞬間には、眼前に大きく開かれて赤黒い色を見せる獣の口腔があった。


 迫り来る獣の牙ばかりがコマ送りのようにゆっくりと近づく。

 命の危機に晒されると全てがゆっくりに感じられると言う。けれど、これじゃまるで拷問だと志信は思った。体は空気が固体に変わって纏わり付いたように重くて、動きやしないのに。

 引き延ばされた死までの時間で、ただけだものの口を観察することしかできないだなんて。


 獣の口が閉じながらゆっくりと近づく。牙がちょうど首筋の辺りに落ちかかってくる。


 それが刺さる痛みもスローモーションなんだろうかと恐怖しながら、そればかりは磨かれたように白い牙の先が、ゆっくりと肌に触れて……。


螺旋弓(スピニング・ショット)!!」


 ……瞬間――烈声。

 

 その声は志信をコマ送りから解放するとともに、牙が突き刺さる寸前で、獣を横様に吹き飛ばした。

 動き出す景色の中で、志信は呆然と辺りを見回す。


 随分と遠く放れた岩場に、人影が見えた。といっても、数百メートルはあろう、視力も大して良くない志信にとっては人であると辛うじて認識できるレベルのものだ。


「た、助けてくれ!」


 張り上げたつもりの声は掠れて、とてもそんな遠くまで届くはずもないのに……

 なのに、返事は耳元で発せられているように良く通った。


「動くな!」


 刹那、顔の横を風の塊がかすめる。

 

 ドドッと鈍くて重い音がして、志信は後ろを振り返った。


 獣は既に死骸となって、倒れていた。

 その体に突き立つ、3本の矢。


――ああ……さっきのは。


 間一髪で自分を救ってくれたのはこの矢だったのだ。

 じわりと滲み出した獣の赤黒い血が、荒野の大地に色を付けていく。


 よろよろと崩れるように膝をついて、肩を押さえていた掌を見やる。

 獣と同じ、赤黒い血。

 そして、少しでも遅かったら……地面を染めていたのはこちらの血だったのだと思った瞬間に、くらりと意識が遠のいた。


――あー……健康診断の採血とかは全然平気なんだけどな……。


 そんなくだらないことを考えながら。


「大丈夫!? ねえ!?」

「おい、お若いの! しっかりせんか!」


 また、遠のく声を聞きながら。


 志信は随分短い時間の間に、二度目の気絶を体験した。


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