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 それは、過ぎ去った日々。零れ落ちて戻らないもの。

 叶わない、約束。


――……から、約束。

――私が……時は、きっと……




「……ぱい、先輩! 名塚先輩!」


 はっとする。

 一瞬で視界が切り替わったような錯覚に囚われたが、気のせいだとすぐに思い直した。

 キーボードを叩くざわめきのような音と、時折鳴る電話のコール音。いつも通りの職場の風景だ。

 目の前には、お湯を注いで時間を待つカップラーメンと、くだらないニュースサイトを映したディスプレイ。

 少し……と言っても本当に数秒のことのはずだが、寝落ちて居たのかも知れない。名塚志信(ナツカシノブ)は、額に落ちかかった髪を鬱陶しくかき上げて、それから、声の主を探して後ろを振り返った。


「大丈夫ですか? 新田さんからお電話ですけど」


 後輩の雨宮鈴音(アマミヤスズネ)だった。去年入社したばかりの、素朴で明るい女の子だ。その申し訳なさそうな声に、ああ、と愛想笑いを返して、それから、差し出された電話と、カップラーメンを見比べた。


「……死んだって言っておいて」

「言えませんよ」

「死ねって言っておいて」

「余計言えませんよね!」

「土下座しろォッ! 新田ァッ!」

「なんなんですか!」

「……なんでもないよ」


 ため息をついて、しかしどうにも客と仕事の話をする気にもなれず、志信は緩慢な動作で椅子を引いて立ち上がった。


「……わり、離席してるからちょっと後で折り返すって言っといて」

「了解しました、まぁ急ぎじゃなさそうだったんで……ってあれ、先輩、ラーメン伸びちゃいますよ!」


 鈴音は小さい背を補うようにひょこひょこ飛び跳ねて昼食の危機を訴えたが、のっそり歩き出した志信はわずかに振り返って、手をひらひらと振って見せた。


「カップラーメンは犠牲になったのだ……クレームは新田さんまで」

「いや、まだ助かりますって。むしろこれから食べ頃じゃないですか」

「食って良いよ、雨宮」

「え、ほんとですかぁ、ってカレー味じゃないですかこれ! 白ブラウスの女子には、ちょっとレベルが……!」

「雨宮の女子力なら行ける、絶対」

「え、えー? いや、そう言われると照れちゃうなぁ……先輩がそこまで言うなら、ってせんぱーい!」


 元気の良い後輩との会話で少しばかり浮上した気分は、しかし、くぐったドアが後ろで閉まりその声が聞こえなくなると同時に、また沈み込んだ。



 

 限界と言うんだろうか。

 何となく、これじゃないというような、やるせない気分を感じるのはこれが初めてでは無かった。


 こじんまりとしたオフィスビルの屋上は狭い。そこから見える都会の空も、居並ぶビルに遮られて狭かった。

 本当は、屋上は立ち入り禁止なのだが、鍵がかけられて居ないのを良いことに時折志信は忍び込む。幸い、上司やら管理会社の人にバレて怒られると言うことには未だ至って居ない。


 胸ポケットにくしゃっと放り込んだ、若干くたびれたタバコを一本つまみ出して、火を付ける。

 フェンスに背中を預けて、立ち上って行く煙の行く先を見やる。


 喫煙室ならちゃんとそれなりのものがオフィスに設けられていた。ただ、そこには顔見知りの人間も何人も出入りしているし、それにそんなにタバコが吸いたいわけでもないのだ。


 ただ、一人になりたかった。


 仕事自体がつまらないわけじゃない。忙しいのは確かだったが、もう社会人になって6年目を迎えて、それなりの仕事を任せて貰っている。頼りにされるとか、困難な問題を解決するとか、そういうことに充実感を感じ無いわけでも無かった。

 

 だけど……頭の片隅で、何か違うと感じてしまう。


 仕事を認められて出世することも、給料をいっぱい貰うことも。

 仕事を通じて、誰かを幸せにするなんてことも。社会に貢献するなんてことも。


 何か違うと……感じてしまう。


 もっと、こんなことじゃなくて、やるべきことがあるんじゃないか、やらなきゃいけないことがあるんじゃないか、そう頭の片隅で思ってしまって。

 だから、頑張っている周りの人達とも、何かズレを感じてしまう。


 だから……ただ一人になりたかった。


――いつから、こんな風になったんだっけな……。


 初夏の風がすっと吹き抜けて、ゆっくりと立ち上っていた煙を散らした。


――考えるまでも無い……か。もう、顔も良く思い出せないのにな。


 タバコの煙を吸い込んで、瞑目する。


 さっき、一瞬の間に何かの夢を見ていた気がした。

 だけど、短い眠りの間に見る夢が大抵そうであるように、その欠片さえも掴むことは出来ず、ただ、靄のような何かを忘れているという不快感だけが、纏わりつくばかりだった。

 

――どうすりゃ、良いんだろうなぁ。


 これじゃない。こんなことをしている場合じゃ無い。そんな感覚は日々を過ごしていても、消えることはなく、ただ強くなるばかり。

 だけど、本当にやるべきことなんて、見つかるはずも無く、いや、この世界にあるはずもなく。

 ただ、こんな気分が一時的なもので……忙しさが落ち着けば紛れてくれるのを祈るのみだ。


 空を見上げるのにも飽きて、志信はフェンスから背中を離した。タバコの灰が零れ落ちる。


――そろそろ戻るか……電話も折り返さなきゃいけないし……。ラーメンどうなったかな。雨宮ほんとに食ってたりして……。


 そんなことをぼんやりと考えながら、携帯灰皿に吸い殻をねじ込んだ、その瞬間、ぐらりと揺らぐような感覚に囚われて、志信はよろけた。


――やべ……そんなに疲れてたっけか……。


 視界の焦点が定まらない。揺らぐ世界と、耳鳴りのように遠のく音。


――……けて。


「……え?」


 厚布越しに聞くようにくぐもった誰かの声を聞いたような気がして、志信は誰も居ないはずの屋上に声を漏らす。

 それは……泣き声混じりだったような、気がして。


――……世界を救って!


 だが、志信の意識は一際大きく揺さぶられる感覚を最後に、暗闇の中に落ちた。


  


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