卒業式の日、学校の七不思議が一つ減る
俺の卒業証書は、最初から用意されていなかった。
◇
「三年二組、藍沢健太」
「はい」
俺の前に座っていた藍沢が立ち上がり、壇上へ向かった。
次は俺だ。
卒業生名簿は五十音順。
藍沢健太。
相原蒼。
青木美優。
昨日、教室に貼られた順番を確認している。
藍沢が校長から卒業証書を受け取った。
一礼し、壇上を降りる。
担任の長谷川先生が名簿へ目を落とした。
「三年二組、青木美優」
「はい!」
俺は腰を浮かせた姿勢のまま、固まった。
青木は俺の次のはずだ。
「先生」
呼びかけても、長谷川先生は顔を上げない。
「俺が先です」
返事はなかった。
青木が席を立ち、こちらへ歩いてくる。
「青木、待って。俺が飛ばされてる」
青木は俺を見なかった。
避けようともしない。
そのまま正面からぶつかってきた。
「危なっ」
反射的に身体を引こうとした。
間に合わなかった。
青木の身体が、俺の胸を通り抜けた。
冷たい風が、心臓の真ん中を吹き抜ける。
「え」
青木は何事もなかったように壇上へ向かった。
俺は自分の両手を見る。
透けてはいない。
指も動く。
床には影も落ちている。
席へ戻ってきた藍沢の肩をつかもうとした。
指先が制服をすり抜けた。
「藍沢」
反応はない。
「おい。聞こえないのか?」
青木が卒業証書を受け取る。
体育館へ拍手が響いた。
卒業生と保護者を合わせて六百人近くいるというのに、俺の声へ反応する者は一人もいない。
「相原君」
たった一人を除いて。
卒業生の列の端で、黒川栞が立ち上がっていた。
肩より少し長い黒髪を、今日は紺色のリボンで一つに結んでいる。
卒業式が終わったら髪を切る。
昨日の放課後、栞はそう話していた。
その栞が、顔を青ざめさせて俺を見ている。
「黒川」
「こっちへ来て」
「でも、俺の名前が」
「早く」
栞は鞄を抱え、卒業生の列から抜けた。
「黒川、どこへ行く」
担任が小声で呼び止める。
近くの生徒たちも、不思議そうに栞を見た。
栞は見えている。
見えていないのは、俺だけだ。
体育館脇の扉を開けた栞が振り返る。
「相原君。急いで」
「俺の卒業証書は?」
「ないの」
「ない?」
「昨日、全部確認したから」
栞の指が、扉の取っ手を強く握った。
「相原君の卒業証書は、最初から一枚も用意されていない」
◇
体育館の裏へ出ると、卒業式の声が遠くなった。
三月の冷たい風が、渡り廊下を吹き抜ける。
「どういうことだ」
「昨日、生徒会の手伝いで卒業証書を並べたの」
栞は鞄から一枚の紙を取り出した。
三年二組の出席簿を複写したものだった。
「三年二組の証書は三十九枚だった」
「うちのクラスは四十人だろ」
「私もそう言った。でも、長谷川先生は最初から三十九人だって」
「俺のことは?」
「相原って誰だ、と聞かれた」
「昨日の時点で?」
「先生だけじゃない。職員室にいた先生は、誰も相原君を知らなかった」
出席簿を見る。
藍沢健太。
青木美優。
二人の間には、不自然な空白がある。
「俺の名前がない」
「昨日から」
「だったら、どうして昨日まで授業に出られたんだ」
「分からない」
「受験は? 進路指導は?」
「相原君、進学先は?」
「東央大学の文学部」
「合格通知は?」
「家にある」
「本当に?」
スマートフォンを取り出す。
写真の中から、合格通知を探した。
ない。
受験当日に撮った写真も、大学から届いたメールもなかった。
「消えてる」
「昨日まではあった?」
「あった。母さんと一緒に見た」
「お母さんの連絡先は?」
連絡先を開く。
母の番号がない。
父の番号もない。
家族とのメッセージ履歴も空だった。
「何だよ、これ」
「相原君の住所は?」
「南町」
「番地は?」
「駅を出て、コンビニを右に曲がって」
白い壁。
玄関横の植木鉢。
夕食の匂い。
そこまでは思い浮かぶ。
だが、番地も、両親の名前も、顔すら出てこない。
「出身中学は?」
「やめろ」
「中学の友達は?」
「やめろって!」
声が渡り廊下へ響いた。
三年間の記憶はある。
入学式。
体育祭。
文化祭。
修学旅行。
放課後の図書室。
けれど、入学式より前には何もない。
俺の人生は、この学校の昇降口から突然始まっていた。
「俺は何なんだ?」
「それを調べてた」
栞が言った。
「昨日から、ずっと」
体育館から拍手が聞こえる。
卒業証書授与が、また一組分終わったらしい。
「卒業式が終わるまで、あと二時間くらい」
「それがどうした」
「式が進むほど、相原君の記録が消えてる」
栞が卒業アルバムを開いた。
三年二組の集合写真。
最後列の中央に、一人分の空白がある。
左右の生徒が、不自然に間を空けて立っていた。
「今朝までは、ここに相原君が写ってた」
「式が始まってから消えた?」
「最初に公的な記録。次に写真や電子記録。最後に、人の記憶」
「式が終わったら」
「私も、相原君を忘れるかもしれない」
栞はそう口にしたあと、唇をかんだ。
「だから、その前に見つける」
「何を」
「相原君が誰なのか」
◇
俺たちが向かったのは、図書室だった。
扉には『本日休館』の札が下がっている。
栞が図書委員長用の鍵を差し込んだ。
「鍵は返したんじゃないのか」
「記録上は、昨日返したことになってる」
「でも、持ってる」
「紙の記録から消えても、物は残ることがある」
鍵が回る。
誰もいない図書室へ、細い朝の光が差し込んでいた。
返却台に、一冊の古い本が置かれている。
『緑ヶ丘高校七不思議調査録』
何度も補修された本だった。
「これ、黒川が借りた本だ」
「三年前にね」
貸出カードを開く。
借りた人間の欄には、黒川栞。
貸出日は、三年前の入学式翌日。
返却期限は、とっくに過ぎていた。
余白には、栞の字で一文が書かれている。
『この本を返すまで、私は学校へ行く』
「何だ、これ」
「入学したころ、学校へ来るのが嫌だった」
栞は本の表紙をなぞった。
「中学でずっと一人だったから。高校へ入っても同じになると思ってた」
「それで七不思議を調べた?」
「七つ全部見つけたら、学校へ来るのをやめようと思った。最後に一つくらい、自分で何かを見つけたかったから」
「でも、見つからなかった」
「六つまでは調べられた」
栞が本を開く。
一つ目。
卒業式の日、無人の音楽室で鳴る行進曲。
二つ目。
卒業前夜、集合肖像画から消える生徒。
三つ目。
上るたびに場所が変わる、東階段の十三段目。
四つ目。
誰もいない理科準備室で名前を呼ぶ人体模型。
五つ目。
旧校舎の鏡に映る、存在しない教室。
六つ目。
返却期限を過ぎた本を、夜中に棚へ戻す透明な図書委員。
そこで記録は終わっていた。
「七つ目は?」
「どこにも書かれてない」
「七不思議なのに?」
「学校新聞も、生徒会誌も、郷土資料も調べた。でも、必ず六つで終わってる」
栞は複数の資料を机へ並べた。
『緑ヶ丘高校七不思議を検証』
見出しには七とある。
本文は六つ。
別の年代の記事も同じだ。
さらに、手書きの調査記録があった。
『七番目について分かった。これは』
文章はそこで終わっている。
別の記録。
『七つ目を見た。あの生徒は』
続きは白紙。
もう一枚。
『卒業式の終了後、七番目は』
やはり、そこで途切れている。
「七つ目を調べた人は、全員途中で書くのをやめてる」
「忘れた?」
「たぶん」
「それが俺と関係あるのか」
「相原君の記録の消え方が、七つ目の記録と似てる」
最後まで記録されない存在。
名前を残せない何か。
「俺は、七つ目に消されてるってことか?」
「まだ決めつけたくない」
「ほかに何を調べる」
「相原君が、この学校へ入った日のこと」
◇
入学年度の資料は、図書室奥の資料庫に保管されていた。
入学者名簿。
始業式の記録。
クラス写真。
健康診断票。
俺たちは一冊ずつ調べた。
一年二組。
出席番号一番、藍沢健太。
二番、相原康平。
三番、青木美優。
「相原康平?」
「相原君じゃない」
「名字は同じだ」
備考欄を見る。
『入学式前日に県外転居。入学辞退』
「俺は、入学しなかった生徒の名字を使ってる?」
「偶然かもしれない」
「蒼って名前は、どこから来た」
名簿のどこにもない。
入学式当日の集合写真を開く。
一年二組は三十九人しか写っていなかった。
俺はいない。
五月の遠足写真には、俺がいる。
「俺が最初に写真へ出てくるのは?」
「四月二十二日」
栞が学校新聞を開いた。
図書委員募集の記事。
図書室のカウンター奥に、俺が立っている。
「入学式から二週間後」
「私がこの本を借りた翌日」
七不思議調査録の貸出日は、四月二十一日。
俺が初めて記録に現れたのは、四月二十二日。
「健康診断票がない」
「紛失したのかもしれない」
「入学届もない」
「学校側の不備かも」
「三十九人の写真に、五月から一人増えてる」
「あとから転入した可能性もある」
「転入記録は?」
栞は答えなかった。
「ないんだろ」
「ない」
答えに近づくたび、栞はそれを否定しようとしている。
「黒川は、何を知ってる」
「何も」
「昨日から調べてたんだろ」
「それでも、分からないことばかり」
「本当に?」
栞は俺を見た。
目が赤くなっている。
「思い出したくないことがあるだけ」
「何を」
「相原君と初めて会った日」
◇
栞のスマートフォンに、三年前の録音が残っていた。
日付は四月二十一日。
七不思議調査録を借りた日の放課後。
「どうして録音なんて」
「七不思議を見つけたときのため。証拠を残すつもりだった」
再生する。
椅子を引く音。
三年前の栞の声が聞こえた。
『七不思議調査、一日目』
今より少し幼い声。
『記録されているのは六つ。七つ目が見つかったら、もう学校へ来なくていい』
長い沈黙。
『どうせ私がいなくなっても、誰も困らない』
俺は再生を止めた。
「黒川」
「続けて」
「でも」
「聞いて」
再び再生する。
三年前の栞が泣いている。
『七つ目さん。本当にいるなら返事をして』
静かな図書室。
『最後に一つだけ、本物の怪談を見つけたかった』
窓が開く音。
紙が何枚か床へ落ちる。
『誰?』
返事は録音されていない。
『名前は?』
沈黙。
『名前、ないの?』
録音には、栞の声しか入っていなかった。
しかし、栞は誰かと話している。
『じゃあ、私がつけてもいい?』
窓の外で、風が吹いている。
『今日は空が蒼いから、蒼』
俺は息を止めた。
『名字は、そこに書いてある相原でいい?』
入学者名簿が掲示されていた昇降口。
入学を辞退した生徒の名字。
相原。
『相原蒼』
栞が初めて、俺の名前を呼んだ。
その瞬間だった。
それまで栞の声しか入っていなかった録音に、別の声が加わる。
『変な名前』
俺の声だった。
『つけてもらって最初に言うことがそれ?』
『悪い。でも、ありがとう』
『お礼を言うなら、七つ目を探すのを手伝って』
『見つけたら学校を辞めるんだろ』
『うん』
『だったら、見つからないほうがいいな』
録音が終わった。
図書室に沈黙が落ちる。
「思い出した」
俺は言った。
名前を呼ばれる前の記憶はない。
暗闇にいたわけでもない。
意識そのものがなかった。
栞が相原蒼と呼んだ瞬間から、俺の記憶は始まっている。
「黒川が俺を作ったのか」
「違う」
「でも、俺は名前を呼ばれて現れた」
「名前をつけただけ」
「何に?」
栞は答えられない。
「何に名前をつけたんだ」
「分からないよ!」
栞の声が図書室へ響いた。
「人だと思った。最初から普通の生徒だと思った。次の日にはクラスに席があって、みんな相原君を知ってた。先生だって、普通に名前を呼んでた!」
「最初の日は?」
「私にしか見えてなかった」
「じゃあ、今と同じだ」
「違う!」
「何が違う」
「今の相原君には、三年間がある!」
栞が俺の胸へ手を伸ばす。
指先は、まだ制服に触れた。
「文化祭も、修学旅行も、放課後の図書室もあった。笑ったことも、喧嘩したことも、全部あった」
「卒業式が終われば、全部消える」
「消させない」
「どうやって?」
栞は七不思議調査録を胸へ抱いた。
「この本を返さなければいい」
「それで俺は残れるのか?」
「三年間、相原君は消えなかった」
「本を借り続けていたから?」
「それだけじゃないかもしれない。でも、今ある手掛かりはこの本だけ」
貸出カードには、三年前の栞が書いた言葉が残っている。
『この本を返すまで、私は学校へ行く』
「この本が俺を学校につないでいるとして」
俺は貸出カードを見た。
「返さなければ、栞はどうなる?」
栞は答えなかった。
ただ、本を抱える腕へ、いっそう強く力を込めた。
体育館から在校生の送辞が聞こえ始める。
卒業式は終盤に入っていた。
「まだ、七つ目が何なのか分かってない」
俺は言った。
「分かってる」
「俺を消している何かかもしれない」
「そんなもの、見つけなくていい」
「見つけなければ、どうやって止める」
栞は答えない。
「調査記録の続きを探そう」
「全部調べた」
「七つ目について直接書いた記録が消えるなら、間接的な記録を探す」
「間接的?」
「七つ目を見た本人じゃなく、その話を聞いた誰かの記録だ」
◇
古い学校新聞を年代順に並べた。
最初に七不思議という言葉が使われたのは、昭和三十二年だった。
その年の三月一日。
卒業式の最中、旧校舎で火災が発生している。
卒業生一人が、逃げ遅れた下級生を助けるため校舎へ戻った。
下級生は助かった。
卒業生は死亡。
死亡した生徒の名前だけが、記事から抜け落ちていた。
「これが七つ目の始まり?」
「可能性はある」
翌年の学校新聞を開く。
『卒業式を欠席した生徒へ、何者かが卒業証書を届ける』
入院していた卒業生の病室へ、同じ学校の制服を着た男子生徒が現れた。
学校側は誰も派遣していない。
届けられた卒業証書だけは本物だった。
十年後。
『卒業式前夜、屋上で保護された生徒』
進路への不安から屋上へ上がった生徒が、知らない卒業生に説得された。
その卒業生は、出席簿に存在しなかった。
さらに二十二年前。
『息子の遺品を取りに来た母親を案内した生徒』
事故で卒業式を迎えられなかった生徒の母親。
教室まで案内した男子生徒は、最後にこう言ったという。
『卒業おめでとうと、伝えてください』
時代も制服も違う。
それでも共通点があった。
「卒業できなかった人の前へ、知らない生徒が現れてる」
「学校へ来られなくなった人や、卒業を迷っていた人も」
「全員、学校の外へ進めなくなっていた」
俺は調査録の余白へ書き出した。
一、卒業を諦めた生徒の前に現れる。
二、同じ学校の生徒として認識される。
三、卒業するための手助けをする。
四、卒業後は記録にも記憶にも残らない。
「この生徒が七つ目?」
「だとしたら、相原君を消しているのは」
「卒業生を助ける七つ目」
「でも、なぜ相原君が狙われるの?」
「俺も卒業できない生徒だから」
「証書がないだけで?」
「俺は入学さえしていない」
入学届もない。
健康診断票もない。
本来の相原という生徒は、入学を辞退している。
「俺も、卒業できない側なのかもしれない」
「だったら、七つ目が相原君を卒業させようとしてる?」
「その七つ目は、どこにいる?」
資料には、必ず知らない生徒が一人だけ現れる。
今回、栞の前に現れたのは俺。
では、俺を送り出す生徒がもう一人いるのか。
卒業式が始まってから、栞以外の誰にも会っていない。
「もう一つ、おかしい」
俺は資料を見比べた。
「助けられた人は七つ目を忘れる。それなのに、どうして体験談が残ってる?」
「忘れる前に書いた?」
「記録の日付は、卒業式の何日もあとだ」
入院していた卒業生の記事は一週間後。
屋上の生徒の手記は一か月後。
名前も顔も思い出せないが、誰かに助けられたことだけは覚えている。
「完全には忘れられない?」
「違う」
俺は記事の署名を確認した。
「書いた人間は、助けられた本人じゃない」
病室の記事を書いた新聞部員。
屋上の生徒から話を聞いた教師。
母親の証言を記録した当時の校長。
「七つ目について直接書こうとすると、途中で忘れる」
「でも、誰かから聞いた話なら、起きたことだけが残る」
「だから全部、不完全なんだ」
名前。
顔。
声。
それらは残らない。
残っているのは、何をしたかだけ。
「火災の前を調べよう」
「前?」
「七不思議と呼ばれる前だ」
昭和三十一年の学校新聞を開く。
紙面の隅に、小さな予告があった。
『次号、緑ヶ丘高校六不思議を特集』
「六不思議」
翌年、火災後の記事から七不思議へ変わっている。
「やっぱり、火災で死んだ卒業生が七つ目?」
「卒業名簿を確認しよう」
昭和三十二年の卒業名簿を取り出す。
三年一組。
三年二組。
三年三組。
全員の名前がある。
欠落はない。
「火事で亡くなった人も載ってるはずなのに」
「クラス写真と照合する」
一組。
全員いる。
二組。
全員いる。
三組。
写真には三十九人。
名簿には四十人。
「一人足りない」
空白の位置から出席番号を確認した。
該当する名簿上の生徒は、卒業後も生存している。
別人だ。
「火災で亡くなった生徒は、名簿へ最初から載っていなかった?」
「そんなはずない」
「入学名簿を見よう」
昭和二十九年度。
三年前の入学者名簿。
三年三組になる生徒は三十九人。
卒業時の名簿は四十人。
「一人増えてる」
「転入生は?」
「記録がない」
入学時は三十九人。
卒業時は四十人。
卒業写真には再び三十九人。
俺たちのクラスと同じだ。
「三年間だけ、一人増えていた」
俺の声が震えた。
「卒業式になると、最初からいなかったことになる」
火事で亡くなった生徒が七つ目になったのではない。
火事で亡くなったのが、すでに存在していた七つ目だった。
その年、卒業を諦めた誰かの前へ現れた。
三年間をともに過ごし、卒業式の日、火災からその誰かを助けた。
存在しない生徒の犠牲が新聞に載ったことで、六不思議は初めて七不思議と呼ばれた。
ただし、その正体だけは記録できなかった。
「待って」
栞が新聞を光へかざした。
「写真の裏に、筆圧が残ってる」
表の紙へ書いた文章の跡が、次の頁に残ったらしい。
鉛筆の側面で薄くこする。
文字が浮かび上がった。
『七つ目。卒業を諦めた生徒の前に、同じ学年の生徒として現れる』
次の行。
『周囲は、最初から同級生だったと思い込む』
三行目。
『卒業式が終わると、記録と記憶から消える』
最後の一文。
『その生徒の正体は』
続きはなかった。
書いた者は、そこで忘れたのだ。
けれど、俺たちには十分だった。
◇
俺は机の上へ、すべての資料を並べた。
「七つ目は、卒業を諦めた人の前に現れる」
栞は俺の向かいに座っている。
「三年前、栞は学校を辞めようとしていた」
「うん」
「七不思議の本を借り、七つ目へ呼びかけた」
「うん」
「その直後、俺が現れた」
「でも」
「俺には名前がなかった」
「私がつけた」
「入学を辞退した相原康平から名字を借りた。窓の外の空を見て、蒼とつけた」
「それでも」
「入学式の写真に俺はいない。最初の記録は、栞が名前をつけた翌日」
栞は首を振る。
「俺の存在は、昨日から順番に消え始めた」
「それは七つ目に消されてるから」
「七つ目を直接記録した文章は、すべて途中で途切れている」
「だから、七つ目が別にいる」
「だったら、どうして俺たちは、その七つ目を一度も見ていない?」
「姿を隠してるから」
「七つ目は、卒業を諦めた人の前に現れるんだろ?」
栞は今も、卒業を諦めようとしている。
本を返さず、この学校へ残ろうとしている。
条件は満たしている。
それなのに、俺以外の生徒は現れない。
「七つ目は、もう栞の前にいる」
「違う」
「三年前から、ずっと」
「違う!」
「俺を消している怪異なんて、最初からいなかった」
写真から消えたのも。
名簿に名前がないのも。
教師やクラスメイトが忘れたのも。
誰かに奪われたからではない。
卒業式が終われば消える。
それが、七つ目の性質だからだ。
「七不思議なのに、六つまでしか記録できない理由も同じだ」
七つ目は普通の生徒として教室にいる。
見つけたときには、すでに同級生として受け入れている。
卒業式が終われば、親しかった者からも忘れられる。
だから誰も、その内容を最後まで書き残せない。
「卒業式の日、学校の七不思議が一つ減る」
俺は、自分の声で答えを口にした。
「減るのは、俺だ」
栞が両手で耳をふさいだ。
「聞きたくない」
「探していた七つ目は、最初から俺たちと一緒にいた」
「違う」
「俺自身が、この学校の七つ目だ」
口にした瞬間、これまでの手掛かりが一つにつながった。
卒業式へ出られなかった生徒。
学校を去ることが怖かった生徒。
未来を諦めた生徒。
名前のない俺は、その隣へ同級生として現れる。
学校の外へ送り出す。
そして最後には忘れられる。
それが、何十年も繰り返されてきた。
栞は七不思議調査録を胸へ抱きしめた。
「だったら、なおさら返さない」
「栞」
「この本を借りている限り、蒼君はここにいられる」
「その代わり、栞は卒業できない」
「卒業しない」
「大学は?」
「行かない」
「司書になるんだろ」
「ならなくていい!」
栞の声が、誰もいない図書室へ響いた。
「大学も、司書も、どこにも行かなくていい。蒼君が消えるより、ずっといい!」
「俺にとっては、よくない」
「どうして!」
「栞が学校の外へ行くために、俺はここにいるからだ」
「そんな役目、知らない!」
「俺も今まで知らなかった」
「なら、やめればいい!」
「やめられるなら、やめたいよ!」
俺も声を上げた。
「俺だって卒業したい。証書が欲しい。クラス写真に残りたい。大学へ行く栞も、髪を切った栞も、司書になった栞も見たい」
「だったら残って!」
「俺が残れば、栞は進めない」
「私が決めることだよ!」
「そうだ」
俺はうなずいた。
「だから、栞が本当に行きたい未来を選んでくれ」
「蒼君がいる未来」
「学校の中だけだ」
「それでもいい」
「何年たっても卒業できない。大学にも行けない。司書にもなれない。そんな顔をした栞の隣で、俺が笑っていられると思うか?」
栞は答えなかった。
「三年前、栞は自分で決めた」
「何を?」
貸出カードを開く。
『この本を返すまで、私は学校へ行く』
「学校へ行くこと」
「蒼君がいたから」
「それでも、毎朝教室へ入ったのは栞だ」
図書委員長になった。
後輩へ仕事を教えた。
文化祭の古本市を成功させた。
受験勉強を続け、大学にも合格した。
「全部、蒼君がいたから」
「それでも選んだのは栞だ」
俺は受付に残っていた鉛筆を取った。
三年前の文字の下へ、一行を書き加える。
『この本を返したら、私は学校の外へ行く』
「勝手に書かないで」
「図書委員の共同作業だ」
「認めない」
「返却期限は三年前だぞ」
「延滞料金は取られない」
「透明な図書委員に怒られる」
「そんな七不思議、適当に作っただけでしょう」
「覚えてたのか」
栞は泣きながら俺をにらんだ。
「全部、覚えてる」
「うん」
「忘れない」
「うん」
「絶対に忘れないから」
俺は答えられなかった。
卒業式が終われば、栞も俺を忘れる。
それだけは、きっと変えられない。
「栞」
「嫌」
「本を返そう」
「嫌」
「俺を卒業させてくれ」
栞の動きが止まった。
「蒼君を?」
「誰かを送り出すばかりで、俺は一度も卒業していない」
何十年も。
もしかすると、もっと長い間。
卒業できなかった誰かの隣に立ち続けてきた。
名前を持ったのは、今回が初めてだった。
三年間、同じ教室へ通ったのも。
文化祭に参加したのも。
修学旅行へ行ったのも。
卒業式で名前を呼ばれるのを待ったのも。
すべて初めてだった。
「栞が名前をくれた」
相原蒼。
借りた名字と、あの日の空の色。
それでも、俺の名前だ。
「栞が俺を、三年間だけ本当の生徒にしてくれた」
「三年間だけなんて言わないで」
「だから今度は、俺が卒業する番だ」
体育館から校歌が聞こえ始めた。
残された時間は、もうほとんどない。
「最後の一歩は、栞が決めてくれ」
俺は待った。
無理に本を奪うことはしない。
誰かを送り出すための存在だからこそ、卒業を押しつけることはできない。
栞は調査録を抱きしめたまま泣いていた。
やがて、震える足で返却台へ歩き始める。
一歩。
また一歩。
「大学へ行く」
「うん」
「友達も作る」
「うん」
「司書になる」
「うん」
「髪も切る」
「見たかった」
「見せるから」
栞は本を返却台へ置いた。
「どこかで見ていて」
約束はできなかった。
怪異が消えたあと、どこへ行くのか俺にも分からない。
「分からない」
「そこは嘘でも、見てるって言ってよ」
「最後に嘘はつきたくない」
「正直すぎるよ」
「ごめん」
「謝らないで」
校歌が終わる。
館内放送から、校長の声が聞こえた。
『以上をもちまして、県立緑ヶ丘高等学校、卒業証書授与式を閉式いたします』
俺の指先が透け始めた。
「蒼君!」
栞が俺の手をつかむ。
まだ、かすかに触れることができた。
窓が開き、春の風が図書室へ吹き込む。
栞の髪を結んでいた紺色のリボンがほどけた。
覚えている。
三年前。
七不思議を探すために旧校舎へ入った日、栞の制服の袖が釘に引っかかって裂けた。
俺は、どこから持ってきたのかも分からない紺色のリボンで、裂けた袖を結んだ。
『卒業したら返す』
栞はそう言った。
『そのころまで覚えてたらな』
俺は笑った。
「このリボン、卒業したら返すって約束したな」
「返す」
「今でいい」
「今は嫌」
「どうして?」
「もう一度会う理由がなくなるから」
俺は笑った。
「じゃあ、預けておく」
「十年後でも、二十年後でも返すから」
「うん」
「絶対に取りに来て」
「分からない」
「そこは来るって言って」
「努力する」
「怪異なのに?」
「卒業したから、もう怪異じゃないかもしれない」
足元から身体が光へ変わっていく。
栞が俺へ抱きついた。
身体の半分はすり抜けた。
それでも、残った両腕で抱きしめる。
「行ってらっしゃい、栞」
栞は何度もうなずいた。
「行ってきます、蒼君」
その言葉を聞いた瞬間、俺は初めて学校の外にある青空を見た。
◇
卒業式のあと。
黒川栞は、誰もいない図書室に立っていた。
どうしてここにいるのか分からない。
頬が涙で濡れている。
返却台には、『緑ヶ丘高校七不思議調査録』が置かれていた。
貸出カードには、自分の名前。
三年前の貸出日。
今日の返却印。
そして、見覚えのない鉛筆の文字。
『この本を返したら、私は学校の外へ行く』
文字を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
何か大切なものを失った。
けれど、何を失ったのか思い出せない。
右手には、紺色のリボンが握られていた。
端に、小さな文字が書かれている。
『卒業したら返す』
誰に返すつもりだったのだろう。
分からない。
それでも、捨ててはいけないものだと思った。
窓から春の風が吹き込む。
風に混じって、誰かの声が聞こえた気がした。
行ってらっしゃい。
「行ってきます」
なぜそう答えたのか、自分でも分からなかった。
◇
十年後。
県立緑ヶ丘高校の図書室に、新しい司書が着任した。
黒川栞、二十八歳。
大学で資格を取り、市立図書館で経験を積んだあと、母校へ戻ってきた。
卒業式の翌日に切った髪は、今も肩につかない長さに整えている。
なぜ急に髪を切ろうと思ったのかは覚えていない。
ただ、切らなければ誰かとの約束を破るような気がした。
「黒川先生」
放課後、一年生の生徒が受付へ来た。
「この学校の七不思議って、六つしかないんですか?」
「七不思議なのに?」
「はい。一つ足りないんです」
栞は手を止めた。
胸の奥に、懐かしい痛みが走る。
「昔は、七つあったのかもしれませんね」
「どんな話だったんでしょう」
「さあ」
栞は窓の外を見る。
卒業式を終えた生徒たちが、校門の前で写真を撮っている。
泣いている生徒。
笑っている生徒。
何度も校舎を振り返る生徒。
「きっと、卒業に関係する話だったんじゃないでしょうか」
「どうして分かるんです?」
「そんな気がするだけです」
生徒が帰ったあと、栞は返却された本を棚へ戻し始めた。
最後の一冊は、『緑ヶ丘高校七不思議調査録』だった。
何度も補修された古い本。
見返しには、十年前の貸出カードが残っている。
自分の名前。
卒業式の日の返却印。
そして、見覚えのない鉛筆の文字。
『この本を返したら、私は学校の外へ行く』
栞の目から、突然涙が落ちた。
「どうして」
理由が分からない。
誰が書いたのかも分からない。
それなのに、声を上げて泣きたくなるほど懐かしかった。
窓が開いた。
春の風が、机の上の返却票を床へ落とす。
栞が拾い上げる。
裏側に薄い筆圧が残っていた。
紙を光へかざす。
『相原蒼』
人の名前だった。
「相原、蒼」
声に出した瞬間、記憶ではない何かが胸へ戻ってきた。
誰もいない図書室。
窓の外の青い空。
名前のなかった誰か。
いつも先に歩き、何度も振り返ってくれた背中。
「蒼君」
理由も分からないまま、名前がこぼれた。
栞は鞄の内側から、古い紺色のリボンを取り出した。
十年間、一度も手放せなかったもの。
端には、小さな文字がある。
『卒業したら返す』
七不思議調査録を開く。
六つ目の記録の次。
ずっと白紙だった最後の頁に、鉛筆の文字が浮かび上がっていた。
『七、卒業を諦めた生徒の前に、名前のない同級生が現れる』
『その生徒は、卒業の日まで隣にいる』
『卒業式が終われば、誰の記憶にも残らない』
『ただし、名前を与えた者が学校の外へ進んだとき、七つ目も卒業する』
最後の一行だけは、別の筆跡だった。
『卒業おめでとう。行ってらっしゃい、栞』
栞は何度も、その文章を読んだ。
記憶は戻らない。
顔も。
声も。
三年間の会話も思い出せない。
それでも、あのころ一人ではなかったことだけは分かった。
誰かが見つけてくれた。
誰かが名前をもらった。
互いに学校の外へ送り出した。
栞は紺色のリボンを、白紙だった頁へ挟んだ。
「卒業したら返すって、約束したんだよね」
返事はない。
「もう十年も過ぎちゃったよ」
春の風が、本の頁を揺らす。
「取りに来ないなら、もう少し預かってるから」
栞は泣きながら笑った。
「ただいま、蒼君」
学校の七不思議は、一つ減った。
それは、怪異が消えたからではない。
誰にも名前を呼ばれなかった生徒が、たった一人から名前をもらった。
三年間を同級生として過ごした。
最後の卒業生を学校の外へ送り出し、自分自身もようやく卒業した。
だから七つ目は、もうこの学校にはいない。
卒業式の日、学校の七不思議が一つ減る。
それは、誰にも見送られなかった七つ目が、初めて誰かに見送られ、学校の外へ出る日だった。




