人生俯瞰図
それは、三十七歳の誕生日の夜だった。
仕事を終え、コンビニのショートケーキをひとつだけ買って帰った。部屋の灯りは白く、冷蔵庫の音がやけに大きい。フォークを入れた瞬間、スマートフォンが震えた。
差出人不明のメール。
件名は、ただ一行。
――あなたの人生俯瞰図をお届けします。
迷惑メールにしては妙に静かな文面だった。本文にはURLがひとつ。躊躇はあったが、酔いにも似た孤独が、指先を軽くした。
画面が開く。
そこにあったのは、地図のような図面だった。
白地に黒い線。一本の太い軸が横に伸び、そこから枝分かれする無数の細線。まるで都市の路線図。だが、左端に小さく記されている。
出生。
そして右端には、空白。
中央付近、三十七の位置に、淡く光る点。
――現在地。
喉が乾いた。
線には注釈が添えられていた。
十八歳、第一志望不合格。
二十二歳、告白せず。
二十七歳、転職見送り。
三十一歳、父の電話に出ず。
どれも覚えている。だが、どれも「選ばなかった」側の出来事だった。
ふと、枝線のひとつに触れてみる。画面が拡大される。
十八歳、第一志望合格。
その先に、別の都市が広がっていた。知らない友人、知らない職場、知らない配偶者。写真のように、しかしどこか色が薄い。
別の枝。
二十二歳、告白する。
春の河川敷。風に舞う髪。震える声。笑顔。
胸の奥が、静かに痛んだ。
さらに別の枝。
三十一歳、父の電話に出る。
「たまには帰れ」
ただそれだけの声が、こんなにも温度を持っていたのかと、いまさら知る。
画面の下部に、小さな文字がある。
※選択は現在地より先のみ可能です。
右端の空白が、わずかに脈打つ。
つまり、過去は変えられない。
だが、未来は。
画面には無数の細線が、これから先へと伸びていた。転職する線。結婚する線。病に伏す線。遠い土地へ移る線。誰とも深く関わらない線。
どの線も、確かに自分の延長だった。
俯瞰図は、残酷だ。
どれほど悩み、迷い、痛みを伴って選んだ道も、上から見れば一本の細い線にすぎない。感情は削ぎ落とされ、出来事だけが記号のように並ぶ。
だが同時に、俯瞰図は優しい。
どの線も、消えてはいない。選ばなかった可能性は、ただ「別の自分」として、静かに存在している。
スマートフォンを持つ手が、わずかに震えた。
右端へ、指を滑らせる。
四十歳。
四十五歳。
五十歳。
ある枝で、点が途切れている。短い線。
六十一歳、急性心不全。
別の枝では、七十四歳、孫と公園。
さらに別の枝では、孤独死、発見まで三日。
情報は淡々としている。悲しみも歓喜も、そこにはない。ただ、結果。
自分の人生が、これほどまでに俯瞰できてしまうことに、恐怖よりも奇妙な解放感を覚えた。
選ぶのは、自分だ。
正解はない。
だが、選択は、必ず線になる。
そのとき、画面に新たな注釈が浮かんだ。
三十七歳、誕生日の夜。
人生俯瞰図を見る。
そこから、枝が広がる。
閉じる。
誰にも言わない。
明日も同じ生活を続ける。
あるいは。
父に電話する。
あの人に連絡する。
履歴書を開く。
ケーキをもう一つ買う。
思わず、笑った。
こんなものを見なくても、本当はわかっていたのだ。選ばなかったことが、線になるということを。
スマートフォンを閉じる。
画面は暗くなり、冷蔵庫の音だけが戻る。
ケーキは半分残っていた。
フォークを置き、連絡先を開く。
父の名前。
呼び出し音が、やけに長い。
やがて、かすれた声。
「……もしもし?」
胸の奥で、一本の線が、確かに伸びる音がした。
それは俯瞰図には描かれない。
上からでは見えない、重みと温度を持った線だった。
窓の外、街の灯りがにじむ。
人生は、図にはならない。
それでも、線は、いまこの瞬間も、静かに引かれている。




