第二話 聖者サトウ
数百年が経過した。
かつて日本と呼ばれた島国は、今や巨大なガラスドームに覆われた「清潔の聖域」となっていた。
そこには、タナカ氏やサトウ氏の末裔たちが、驚くほど整然と、そして無機質に暮らしている。街の至る所には黄金の「手洗い場」が設置され、人々は一日に百回、祈りを捧げるように指先を消毒する。
もはや「握手」という言葉は、古文書の中にしか存在しない。
かつて人々を死に追いやった「接触」は、この時代では死刑に値するほどの大罪とされていた。
聖者サトウの教え
都市の中央広場には、一体の奇妙な銅像が立っていた。
それは、大量の塩の袋を抱え、天を仰ぐ男の姿――かつての詐欺師、サトウ氏である。
歴史の荒波に揉まれるうちに、彼の嘘は「真実」へと昇華されていた。
「サトウ聖者は、汚れた世界を浄化するために『幸運の塩』を配り、自らを犠牲にしてシェルターに籠もられたのだ」
人々はそう信じ、食事の前には必ず一粒の塩を舐め、彼の慈悲に感謝した。
一方、実際にワクチンを作ったスズキ博士の名は、どこにも残っていない。
「体に針を刺して異物を入れる」という彼女の行為は、この潔癖な時代においては「悪魔の儀式」として歴史から抹消されてしまったのだ。
非接触の恋
ある日、若者のタナカ君は、透明な防護壁越しに、一人の乙女・サトウさんと出会った。
二人の間には、厚さ五十センチの強化ガラスがある。音声はマイクを通じて合成音声でやり取りされ、視覚情報は常に除菌フィルターを通したモニター越しだ。
「サトウさん。僕は君に、愛を伝えたい」
「まあ、タナカ君。でも、それ以上近づいてはダメよ。検知器が作動してしまうわ」
二人の恋愛は、互いの「除菌ログ」を交換し合うことで成立していた。
「昨日の僕の平均除菌回数は百二十回だったよ」
「素敵だわ、タナカ君。そんなに清潔なあなたなら、一生を共にしてもいいわ」
彼らにとっての愛とは、互いに「存在しないこと」を証明し合う、高度に知的なゲームだった。
遺物の発見
そんなある日、都市の外郭を調査していた作業員が、一足の「古い革靴」を発見した。
それは数百年前にタナカ氏が履いていたものによく似ていたが、恐ろしいことに、そこには「当時の泥」が付着していた。
都市は大騒ぎになった。
最高評議会が開かれ、防護服を五重に着込んだ賢者たちが、その靴を遠隔カメラで観察した。
「これを見ろ。この茶色の物質……これが伝説の『不潔』か」
「恐ろしい。これに触れただけで、我々の高度な文明は一瞬で崩壊するだろう」
彼らはその靴を、百層のコンクリートで固め、深海へと沈めることを決定した。
人々は怯え、その日は一晩中、喉が荒れるほど強いアルコールでうがいをし続けた。
結末:自然の皮肉
さて、ドームの外はどうなっていたか。
かつてタナカ氏が握手をしたあの香港も、かつての日本の街並みも、緑豊かなジャングルへと戻っていた。そこには、進化したコウモリや豚たちが、元気に駆け回っている。
彼らはウイルスと共に生き、ウイルスを血肉とし、もはや病にかかることさえなかった。彼らにとってウイルスは、呼吸と同じくらい当たり前の「環境」の一部に過ぎなかった。
ドームの中で、一人の子供が窓の外の緑を見て尋ねた。
「パパ、外の世界はまだ地獄なの?」
父親は、白くふやけた自分の手を見つめながら、誇らしげに答えた。
「そうだ。外には、目に見えない悪魔が溢れている。我々のように『正しく』生きる術を知らない、哀れな生物たちがのたうち回っているのさ」
その時、ドームの隙間から、一筋の風が入り込んだ。
そこには、一粒の小さな、小さな埃が乗っていた。
数百年後の人類を絶滅させるのに、もはやウイルスは必要なかった。
あまりに清潔になりすぎた彼らにとって、それはただの「本物の土の粒子」だけで十分だったのだ。
翌朝、ドームの中では、全住民が「原因不明のくしゃみ」を同時に始めた。
彼らは慌ててサトウ聖者の像に祈りを捧げ、塩を飲み込んだが、もはや無駄だった。
世界はまた、新しい「清潔」へと塗り替えられようとしていた。




