プロローグ : 名を呼ぶ風の夜
風が、鳴いた。
山の奥、天城神社の古い祠のほうから。
夜は湿っていて、遠くで蝉が泣き止む。
風鈴の音が一度、震えて止んだ。
澪はその気配に気づいて、顔を上げる。
提灯の光が、ひとつ、またひとつ消えていった。
「兄さん……風が、変だよ」
石段を掃いていた蓮が、箒を止める。
「また封印の鏡か?」
「うん。鈴が鳴った気がする。誰も触ってないのに」
蓮は短く息を吐き、足元の土を踏みしめるように歩き出した。
その背中を見つめながら、澪は一歩遅れて続く。
社の奥は、昼でも薄暗い。
木々のざわめきが、囁きのように耳を撫でた。
「——やっぱり、揺れてるね」
鏡の前に立つと、空気が冷たくなった。
表面が波打ち、黒い靄が滲み出ている。
「……祓う。離れてろ」
「待って、兄さん」
澪が、囁くように言った瞬間、風が止まった。
鈴の音が、ひとりでに鳴った。
「——呼んでる」
「誰が?」
「……名前の、ないものが。」
鏡の奥から、かすかな声が響いた。
——なぜ、呼ぶ。
——なぜ、覚えている。
蓮は札を放つ。白い光が走り、靄を封じ込めた。
光の向こうで、澪の瞳が揺れている。
「兄さん……あれ、神様じゃないよ。でも、神様みたいに、寂しそうだった。」
「……そんな神はいない。」
その声は、少しだけ震えていた。
封印は閉じた。
だが、その夜から——澪の夢には、
“名を持たぬ神”の声が囁くようになった。
新作です。
代表作の方が行き詰まってしまったので、気分転換がてらに書き始めてみました。




