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声は風に溶けて

作者: 綾戸燈和

放課後の教室は、もう誰もいなかった。冬の訪れを感じさせる弱い西日の光が机や椅子の影を長く伸ばし、黒板にはチョークで描かれた落書きがやわらかく輝いている。廊下から反響してくるチャイムを耳に入れつつ、ただ何もないはずの窓の外に視線を送った。手にした教科書よりも、遠くの空を眺める時間の方がはるかに長かった。


「ねえ、暇?」


突然、背後から声がした。振り返ると、クラスメイトの朝霞優李が立っていた。長い髪を片側に流し、制服のリボンを少しだけ緩めている。どこか無防備で、でも眩しい――そんな印象だった。


「うん、ちょうど…」


と返す僕の声は、少しごもってぎこちなかった。

彼女は春の朝のような穏やかな笑顔をつくった。その笑顔に緊張が緩んで僕も笑ってしまった。彼女が引き出しからごそごそと何かを取り出した。その様子に僕は目を見張った。


「これ、作ったんだ」


赤い毛糸と紙コップの糸電話。文化祭の準備でふざけて作った手作りのものだった。僕は一瞬、笑いをこらえた。


「まだ持ってたんだ」

「だって、捨てられなくて」


彼女は片方の紙コップを差し出した。僕は少し戸惑いながらも受け取り、糸をピンと張ってみる。

「じゃあ、試してみようか」


――聞こえる?


紙コップ越しの声は、驚くほどはっきりと響いた。

あの頃の記憶が、ふっと胸に流れ込む。


「聞こえるよ」


彼女は目を細めて笑った。その笑顔が、西日に溶けるように温かく見えた。


けれど、次の瞬間、彼女の表情が少し曇った。


「…実はね、私、来週転校するんだ」


僕はその言葉に、時計の針よりもはやく心臓が高鳴ってるのを感じた。


「え、急に?」


その言葉しか出なかった。その言葉しか出せなかった。自分の声が秋の仄かな涼しさと動揺で声が震えてることに気づいた。


「うん。親の都合で。ごめん、ずっと言えなかった」


彼女は笑っていた。泣かないための笑顔だった。僕も、つい笑顔を返す。でも、その裏で、胸の奥がひりついているのを感じた。彼女もまた目の奥では笑えてはいないのを感じた。


「でも…」


彼女は紙コップをもう一度握り、真剣な顔で僕を見つめた。彼女の目は冬の西日よりも僕の心をまっすぐに貫いた。


「糸電話って、遠くにいてもつながるって思うんだ。たとえ声が届かなくても、想いは伝わるって」


僕は沈黙のまま頷いた。


「…じゃあ、また作ろう。今度は絶対切れない糸で」


その言葉に、彼女の目が少し潤んだ。

僕も、胸の奥で強く決めた。

たとえ遠く離れても、想いは糸のようにつなぎ続けよう、と。


だが寂しさともどかしさが曖昧に溶け合って、僕の心は波を立てている。


帰り道、沈む夕日に照らされながら、二人の影が長く伸びて重なった。

離れ離れになることを知りながらも、その瞬間だけは、確かに一緒だった。




朝の教室。窓から差し込む光は柔らかく、机の上に置かれた教科書やノートを琥珀色に染めていた。

今日は、あの日の糸電話を交わした彼女が、この学校での最後の一日を迎える日だった。


僕はいつもの席に座り、心の中で何度も呼びかける。


「もう一度、笑ってほしい」


けれど、言葉は出ない。


彼女は教室の後ろで、静かに荷物をまとめている。


「ねえ…」


僕は振り返り、彼女の目を見た。


「今日で最後だぞ。私がいなくて寂しいー?」


彼女はいつも通りの明るさで聞いてきた。でも、それが僕には強がりだということを一瞬で理解することができた。


「私は寂しいよ」

「!」


僕は驚いて彼女の顔を見た。その顔はいつもの明るさとは裏腹に寂寥の念のような、どこか侘しい雰囲気を孕んでいた。

胸が強く締め付けられると同時に僕は、声を発した。


「                      」


声は震え、ぎこちなくしか出なかった。

彼女は笑顔を作ろうとしたが、その瞳は少し潤んでいる。


「でも、約束だよ。遠くに行っても、糸電話でつながっていようね」


彼女の手には、あの赤い糸電話が握られていた。

僕は紙コップを受け取り、糸を張る。


――聞こえる?


「聞こえるよ」


僕は答える。

彼女は短く頷き、荷物を肩にかける。

校庭の向こうに広がる朝日が二人の影を長く伸ばし、教室の空気は切なさで満ちていた。


やがてぞろぞろと疎にクラスメイトたちが登校してきた。みんな重い目を擦り、漫ろに教室に入ってきた。朝のホームルームが始まると彼女が転校することを担任の先生がみんなに伝えた。突然のことにみんな驚嘆していた。僕は俯いて話を聞いていた。ふと彼女の顔を見上げるといつも通りの穏やかな笑顔であった。彼女は最後の挨拶を済ませると、教室を出て行った。最後の最後のときまで彼女はまた笑顔であった。


「じゃあ…行ってくる。またね…」


僕は小さく手を振った。

心の奥で、約束を胸に刻む。

たとえ遠く離れても、糸は切れない。

彼女の笑顔と声を胸に、僕はその後、彼女の姿をみんなと共に見送った。




大学に入学して半年。

新しい友人、新しい環境、新しい毎日。

表面的には楽しんでいるふりをしていたが、心の奥には埋まらない穴があった。

中学時代、夕暮れの教室で交わした約束、赤い糸電話を握りしめた彼女の笑顔。

その記憶が、胸の奥でいまだに灯り続けて、僕の心を離さなかった。


ある日、大学の図書館で見覚えのある後ろ姿を見つけた。

背筋を伸ばして本棚を眺めるその姿は、時間が止まったかのように見えた。


「……え」


思わず声が出る。振り返ったその人は、あの日のあの人の面影と強く重なった。


「久しぶり……」


胸が跳ねる。まさか、また会えるなんて。


けれど、微笑んだその表情には、記憶の中の彼女にはなかった影があった。

仕草も、声の響きも、落ち着きすぎていた。


「久しぶりだね」


彼女――いや、その人は小さく笑った。

大学で偶然再会した、あの中学時代の彼女だと信じたかった。


その日から、何度か話すようになった。

けれど、どこか違和感があった。

昔のように笑い合えるはずなのに、どこか距離がある。彼女の視線は時々、あるはずのない遠い場所を見つめるように揺れていた。


ある雨の日、軒先でふと思い切って聞いた。


「…あの頃の糸電話、まだある?」


その人は少し黙り、やがて静かに答えた。


「うん…あるよ。妹が作ったものを、私が持ってる」


胸が凍る。

妹?

――その瞬間、世界が音を立てて崩れた。


「え……妹?」

「そう。あなたが想っていた子は、私の妹。私は朝霞優香。優李の姉よ。」


彼女は視線を落とした。


「あの子は……去年、事故で亡くなったの」


頭の中が真っ白になる。

耳鳴りがして、世界の音が遠ざかっていく。

彼女――姉は続けた。僕はそばだてて話を聞くことしかできなかった。


「あなたのこと、あの子からよく聞いていたの。糸電話で遊んだこと、転校する前に泣きそうになってたこと、全部話してくれたの」


彼女の姉の声は震えていた。


「あの子、あなたのことずっと大切に思ってた。大学に入ったら、もう一度会おうって……ずっと言ってた」


胸の奥で何かがひび割れる音がした。

再会できると信じていた糸の先には、もう誰もいなかった。

糸電話は、もう誰にも声を運べない。


夕暮れのキャンパス、水たまりに映る姉の姿。

雨に濡れる紙袋から、彼女がそっと赤い毛糸を取り出した。


「これ、妹が最後まで大事にしてた糸電話」


差し出された紙コップは、少し色褪せ、糸が途中でぷつりと切れていた。


手に取った瞬間、涙が溢れた。

声が出ない。

彼女の声がもう届かない現実が、胸を締めつける。


彼女の姉は静かに言った。


「あの子はね、あなたにもう一度会いたがってた。だから、せめて私が伝えたかったの」


僕はうつむき、赤い糸を強く握りしめる。

想いはもう届かない。

でも、心の奥でまだ、その糸は温かい気がした。




夕暮れのキャンパスは、金色の光に包まれていた。

風が渡るたびに、葉の影がゆらりと揺れ、校舎の窓に映る空は茜色から藍色へと変わる。

僕はひとり、屋上の手すりに肘をかけ、赤い糸電話を握りしめていた。ぼんやりとした不安にかられながら僕は彼女と過ごした日々をを思い出していた。


紙コップの先には、声はもう届かない。

でも、あの笑顔、あの声、あの瞬間――

中学時代に交わした小さな約束と、大学で知った悲しい真実は、胸の奥で今も生きている。


糸は切れた。

形としての糸電話は色褪せ、途中で絡まったまま。

でも、記憶の糸は決して消えない。

手の中の紙コップが軽く震えるたび、かすかな風が彼女の笑い声を運んでくれるような気がする。


あの日、転校する彼女の目に映った光、

そして、大学で再会した彼女の姉の静かな涙。

二度と会えない彼女への想いは、悲しみとして心に沈み、同時に温かい記憶として胸に残った。


届かないとわかっているにもかかわらず僕は紙コップを耳に当て、静かに問いかける。


――聞こえる?


やっぱり返事はなかった。かすかに返事はくるだろうかという思いを胸に秘めていたが、虚しく叶わなかった。

けれど、あの頃の笑顔が浮かぶ。

夕陽の光に溶け込む影、廊下の隅に落ちた小さな影、

風に揺れる木々の葉――すべてが、声なき声となって僕に届く。


胸の奥がきゅっと痛む。

届かぬ想い、叶わぬ再会、

それでも心の糸は、途切れたままではあるけれど、空に残る声として生き続ける。


僕は思い出す――

あの紙コップを通して交わした約束。


「遠くに行っても、つながっている」


その小さな約束は、悲しみの中で形を変えながらも、確かに僕の中で生きている。


夜の訪れとともに、屋上の風は少し冷たくなる。

僕は赤い糸をそっと結び直すように握りしめた。

届かない声を胸に抱き、でも前を向く。

悲しみは重く、でも希望の光はまだ残る――

彼女の笑顔と、彼女の姉の静かな涙と共に、僕は歩き出す。


空に溶ける夕陽の色のように、想いは形を変えながら永遠に残る。

切なくて、でも優しくて、どこか明るい、僕だけの糸の道。

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