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7 木綿の服の女 (黄 界)


 その夜、とりたてて事は起こらなかった。 早朝、シリンより電話があったが、それは朝食の招待だった。プラティスは遠慮なくそれを受け、シリンの入れたコーヒーの香りを楽しみ、そして、サニーサイドエッグを塩と胡椒で食べた。添えてあるカリカリベーコンとホウレンソウのソテーはバター風味で、よく熟れたきれいな赤いトマトを添えたレタスのサラダには、チャイニーズドレッシングがかけられていた。

 それとトーストを何枚か食べたあと、シリンが着替えを済ますあいだに、後片付けを手伝った。

 食事の最中、彼女は云った。

「あなた、年のわりには頼りになりそう。そんなところはファザムに似ているわ。

 あ、ごめんなさいね、あなた、ひとかどの<術士>だったわね」

 プラティスは、ちょっと微笑んでみせた。

「気にしないで。

 ぼくの前任の黄階の術士が病気になったもんで、運よく昇進できただけだから。まだ成り立てだから、大して修行中の子供と変わりないよ。

 で、シリンさんは、もう元気なの」

「ええ、大丈夫よ。

「あなた、赤の帝王の殺害の調査をしているんですって」

「ええ。市長閣下の秘書のあなただから云いますけどね、午後には市庁舎にこれまでのところを報告に伺います。

 兄にも、そんな事、聞いてたんじゃないでしょうね」

「別に、聞く必要はなかったわ。仕事のことは、わたしが把握していたもの」

「<術士>にそれを聞くのは、市庁舎のあの会議室以外では厳禁のはずですよ」

「まあ、云うことが可愛いじゃない。真面目なのは良いことだわ。秩序が大切なのよ、世界には」

 それは、会議の席上でよくゼルダが口にする言葉であった。

 そして、二人でマンションを出た。

「久しぶりのような気がするわ。出勤するときに誰かとこうして家を出るなんて」

 シリンは、深呼吸した。

「最後にこうして家を出たのは……」

「ぼくは知っている。兄の殺害の件についても調査中なんだ」

 彼女が、続けようとした言葉を、プラティスは遮った。

 だが、その一言を云ってしまってから、プラティスは急に心が曇った。兄のことを調査しなければならない事が、ではない。もっと他の理由だ。

 たとえば、この眼の前の年上の女性が、どれほど痛々しい様子をしていたとしても、プラティスは、イリスの「影」の監視を続けなければならないし、なぜ、その事で心が曇るのかと云えば、彼女のために、何もできない自分だからであった。

 だが、そう云いきってしまうのも違うような気がする。

 あやふやな感情。

 だが、その感情は、プラティスにとっては決して嫌なものではなかった。


 黄階にあるの自分のアパートに戻って、すぐに学校に行った。ギリギリで、遅刻をまぬがれたと思ったら、その日はいきなり中間テストだったのでびっくりした。

 その、びっくりは、自分に強いた感情であった。<術士>の仕事をしていると、自分の暮らすべき世界の、自分の好きな姿を忘れてしまうかもしれない。その恐怖がいつも自分の中にあり、つい、演技をしてしまうのだ。自分の理想の形に、自分自身に対して。

 そして、世界の異変にかまけている間に、プラティスの直面したい当座の問題が忘れられていたことが、残念でならなかった。出席日数など、テストの結果いかんでは、どんな努力も無駄になるからだ。

 <術士>として学んだことが、この世界の学業では、ほとんど役に立たない。それはすなわち、現実に生きるためには、どれだけこの世界の空想の産物である学業が役に立たないかを表している。語学や工業技術などのことに関してなら、その原理も理解できる。しかし、術士にとっては科学の法則など、黄階の人間の勝手に生み出した幻想の世界のための法則なので、プラティスの知っている本来の世界の形にはあてはまらない。

 幸いにして、その日は歴史と現代国語であった。翌日が数学なのだが、その次の時間が歴史なので、二日ほど科学をやる時間ができたようだ。

 その日のテストが終わると、プラティスはクラスメートを誘って喫茶店に行った。そこで翌日の数学のヤマをはったノートをどうしても見せてもらう必要があったのだ。そして彼は二千円ばかりの出費で、科学の全教科のノートをコピーして明日もってきてもらう約束を取りつけた。

 プラティスは、そのまま友人と別れて、家の方には戻らず、中心市街地のほうに足を向けた。路面電車に乗って十分足らずの停留所で降りると、そこはいつも夜のように真っ暗だ。中心街のこのブロックを含めるかなりの広さが、じつは建物の中にある。それは天井が恐ろしく高い5階建てのビルで、中央に吹き抜けがある。吹き抜けの下は公園になっていて、そこからは暗い建物の内部に縦横上下に連なる商店街の明かりがとてもよく観察できる。

 プラティスは、アイスクリームショップでチェリーチーズケーキを買った。コーンにディップしてもらったそれを食べながら、公園のベンチに腰を下ろして眺めていた。

「ジュン」

 女から声をかけられた。

 彼女は、ウエーブのかかった髪を腰まで伸ばしている。二十才ほどの年齢に見えるが実際は少しばかり上だ。木綿の洗いざらしたデニムのワンピースの裾と襟もとからは白い綿レースがのぞいている。その少女のようないでたちが年齢を若くみせてくれるのだろう。「リィン、今日もいたの」

「ジュン、それ、おいしい」

「うん、おいしいよ」

「じゃあ、あたしも買ってくるから、待っててね」

 彼女は、うれしそうにアイスクリームショップに駆けて行った。その姿は、まさに妖精に似ていた。

 リィンは、本名は麟子という。彼女の精神は幼いままに時間が止まっている。市の中心街のはずれにある修道院で暮らし、そこで世間の風から守られながら、シスターたちに仕事を習い、そして、身につけた刺繍の技術でわずかばかりの収入を得て、神に祈り、そして散歩する毎日を繰り返す。

 だいたいは、午後のこの時間に、このあたりを散歩している。このもう少し夕方が近い時間になると、彼女はシスターとともにひとり暮らしの老人の家々をまわって夕食を届けるのだが、この午後の二時間ほどは、シスターたちは神学の奉仕に励むので、彼女はその間、自由に散歩することを許されている。

「これ、おいしいね」

 彼女は、プラティスのそばに腰掛けて、アイスクリームにぱくついている。

 彼女は、素直で、プラティスとは親友といっても良い。プラティスを兄のように慕うのだ。彼女の妖精のようなそのイメージが、自然にプラティスにその役割を演じさせてくれる。

「今日は何してたの」

「あのねぇ、今日はね、午前中、少しだけ刺繍したの。だいぶ進んだのよ。あとちょっとで出来上がるの」

「シスターマドレーヌはお元気」

「うん、今日は、わたしの刺繍を見てくれたのよ」

「それで、何ていった」

「クチュリエの中谷先生が、来年の夏のブラウスの仕事をくださるそうよ。

 少しだけ、お給料も上がるんだって」

「よかったね」

 プラティスの言葉に、ニコッと笑った。その子供のような話し方を除けば、彼女はとてもふつうの女性と変わらない。むしろ、その邪気の無い心と素直な瞳とが、彼女を魅力的にしている。それに、いつも彼女の身なりは清潔だったし、質素でもその服は彼女にとても似合っていた。それは、シスターたちが彼女をとても大切にしている証拠でもあった。 彼女は、約束で年に二回、春と秋に服を新調するために生地を買ってもらうことが許される。その生地を買うのに、修道院長は以前プラティスを付き合わせたこともあるし、デザインも町の洋服屋を回ってセンスの良さそうなものを見つけて、それで型紙を起こすのは常だ。

 彼女は、特定の男性を愛することがないのか聞いてみたら、道を歩いているみんなが好きなのだと答えた。大好きだから、幸せなのだとも云った。

 シスターたちは、彼女について、神様から祝福された娘と呼んだ。彼女には、一片の曇りもない。だから、妖精のようでいられるのだ。彼女は何も持っていないのだが、必要なものはすべて与えられていた。

 アイスクリームを食べ終えると、ふたりは修道院に行った。たわいなくても楽しいおしゃべりをしているとじきに、女子修道院の門の前に到着した。

「あのさ、修道院長にお会いしたいんだけど」

「さっき、教会の礼拝堂に行ったのよ」

「そう、行ってみる。

 じゃ、またね」

「今度、お給料が出たら、マダム・トルテのケーキ、一緒にたべようね」

 彼女は、束ねた長い髪を揺らしながら、修道院の建物に消えていった。

 プラティスは、修道院の屏づたいに表通りに面している教会の礼拝堂に入った。結婚式のあとで、修道院長がみずから、ほうきをもって掃き清めていた。

「こんにちは」

「まあ、淳一さん。また、リィンを送ってくださったのね。いつもありがとう」

「いえ、ぼくのほうこそ。リィンとおしゃべりするのは楽しいですから。

 ところで、あの、ちょっとご相談があるんですけど」

「あら。でしたら、むこうのほうでお茶でも飲みながら話しましょう」

「ええ。

 そのお仕事が済んでからでいいです。

 お茶、ぼく自分でいれますから、済ましてきてください」

 プラティスは、ひとりで教会の談話室に入っていった。


「淳一さん、お待たせしました」

 修道院長が入ってきたとき、淳一はお茶を入れてカップに注いだばかりだった。

「お忙しいのにすみません。

 じつは、<黒の老人>のことなんです」

「黒の老人は、お元気です。

 最近、少しばかり、なにか気になさっておられるご様子ですが。お会いになりますか、プラティス殿」

 修道院長は、じつは紫の黄階術士ルーファムである。

「ええ。是非に。

 でも、それは後でいいんですけど、もう一つお願いがあるのです」

「何でしょう」

「お忙しいのは充分わかるのですが、なにぶん、青階は優秀な術士をひとり失いましたものですから、わたしは、青階と黄階の両方の仕事をカバーしなければなりません。

 なにぶん、わたしは未熟な身ですし、まだどれほどの事ができるか、わたし自身にもわからない状態ですから。

 それで、赤の術士イリスの件なのです。

 わたしは、兄の仕事を引き継いで青階のイリスの影を監視しますが、院長様には、この黄階のイリスの影を監視していただきたいのです」 

「それはもちろん、わたくしのできる範囲でできるだけの協力はさせていただきます。わが師ラプサスよりも、あなたの仕事をできるだけ援助するようには申し遣っておりますので。

 しかし、わたくしもこのように修道院に暮らす身でございますし、黄階の<術士>の議長職にある身でございますから、どれほどお手伝いできることか」

「この仕事は、あくまでわたしの仕事ということは充分承知しております。ですが、この仕事は、院長様のご助力なしにはできないことなのです。

 真実を申し上げますと、黄階におけるイリスの『影』、それはリィンなのです。

 おそらく、イリスはご存じのとおり切れる術士でございました。能力も、素晴らしく他の術士を上回るもの。ですが、個の能力は三階の影の能力を平均すれば、それほど極端に違うわけはありません。心のなかの善と悪の成分もです。

 もし、リィンがより無垢に近い魂の成分とするなら、イリスは、よりのそれと反対の方向に近い成分を持っていることになります。いまひとりの青階においてのイリスの『影』が、中庸のところでバランスを保っているのであればと仮定してです。

 わかりますね、この理屈が」

 プラティスに、修道院長は顔を曇らせた。

「例の事件の犯人が、イリスだとすると、もし我々がイリスを処分せねばならなくなったら、その影響は当然リィンにも及びますのね」

「ええ、もちろん」

「でも、あの子に罪はありません」

「それは確かです。しかし、三層世界のそれぞれの自己は、潜在意識の部分で共鳴しています。罪はないとはいいきれません。リィンの罪を犯すべき部分の精神が、イリスの意識のほうにスポイルされてしまっただけのことです。そして、イリスにとどまってその方向を正さなければならなかった良心が、リィンのほうに向けられた。

 とくに、イリスの場合は、イリスがそう望んでその精神の変化が行われた傾向が強い。イリスの『影』の意識に共通して言えることは、異常に他の個体に比べてその精神の共鳴が大きいのが特徴です」

「もし、あなたのお兄さまの犯人次第ではイリスの罪は、もっと重くなりますのね」「ええ。でも、あの事件の犯人は、イリスではないでしょう。あの時間は、たぶんイリスは赤階のどこかにいたはずです」

「イリスの狙いは何なのかしら。このような事をしでかすなんて、とてもまともな考えではないわ。

 やはり、イリスの意識が、ケサルパーティにつけ入れられやすかったということでしょうか」

「ケサルパーティの中にある意識は、元々が赤の帝王の血のなかに宿っておりましたものですから、赤の<術士>としての修行が長いほど、その影響は受けやすいでしょう」 それに、赤という色は力があります。その炎で、他も焼きますが、自らも焼いてしまうでしょう。自らを焼いているうちはいい。狙いのものを焼き、自らを焼き尽くした炎が他に延焼するのを防がなければ」

「だから青の術士が狙われるのかしら」「もし順調に、目的のものだけ燃やして、自分の炎をそこで静めるものがいたら、イリスの中に宿った者の野望は成功します」

「あなたは、イリスをこの異変の中心人物とみなしているのね」

「ええ。慎重に検討した結果です。だが、なにぶん証拠が足りない。そして、たぶんイリスは、中心人物のひとりですね。

 そろそろ老人に会わなければなりません。 わたしの中にある推理を確信とするためにね。その後、青階の市長に報告に行く予定です」

 修道院長は席を立って、壁に掛けてある鍵を渡した。そして、礼拝堂の裏庭にある、今は使われない倉庫にプラティスを導いた。

「リィンのことは、善処しましょう。たしかに、あの子と生活をともにしているのはわたしたちですからね。

 鍵は、あとで礼拝堂のほうへ。シスターの誰かがいるでしょうから」

 プラティスは鍵を開け、中に入った。


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