最終話 世界の変換
「行ったね」
プラティスの後ろに、ファザムが立っていた。
「シリンがね、云ったんだよ。
小さいときに、女王様になる夢を見たんだそうだ」
ふたりは、長い砂の岸辺を歩いていた。
「そして、おまえは、術士よりも自動車の整備工のほうがいいって云うしね」
「世界の形が変わるのは、予定されていたことなんでしょう」
「ああ。ただ、この世界に生きている人間には、そのことが知らされていなかっただけなのさ」
「なぜ、知っていたの」
「父上が、おっしゃったのさ。おまえのことと、世界のつながりを」
ふたりの行く先に、黄階のプラティスのアパートのそばの堤防が見えてきた。
「世界の形が変わることと、ぼくの魂の形がシンクロすれば、こんなふうに自分の思うように空間と空間をつなぐことができる。
イメージすればいいんだ、ぼくは。それで世界が変えられるんだ」
「何をイメージする」
「この数日の間に考えたんだけど、工業デザイナーもいいかもしれないな」
「なら、工業系大学、できたら院まで行ける頭がいるな。せいぜい苦労しろよ。
今日はこれから、どうするんだ」
「もうすぐ試験なんだ。
工業デザイナーにも志望を広げるから、少しでもいい点とらなきゃね。それに、事件のおかげで、二教科ほどは試験問題を知っている。
でも、さすがにくたびれたな。
とりあえず、今日は寝るよ。
兄貴はどうするの」
「おまえのアパートで朝食を食べさせてくれ。お兄さんは、失恋して忙しいんだ」
ふたりは、防波堤を乗り越えた。
ふたりは八百屋でたくさんの熟れたトマトを買い、そしてレタスサラダに添えた。ファザムは手際よくオムレツをつくり、プラティスはすこし焼き過ぎのトーストにバターをつけた。
インスタント・コーヒーでそれらを胃のなかに流し込むと、それぞれの夢を見るために眠りについた。
海に面したプラティスの部屋の窓は開け放たれ、潮騒が、夢の岸辺へと導くのだ。
ひとりの男の死の夢だった。
身体中が、傷ついていた。
勝ち目のない戦だった。
それでも、行かねばらならかったのだ。
鎧も衣も剥ぎ取られ、ぼろくずのように打ち捨てられた自分を、誰が拾うのだろう。
そのとき、ひとりの女が近寄ってきた。
あのとき、あの唖の女だ。
「行きましょう、夢を紡ぐために」
女は云った。
「異なる世界の形でなら、あなたは生きてゆけるわ」
「シィ・リィン」
男は、その女の名を呼んだ。
女は、男に口づけした。
魂が、小舟に揺られて、遠くに運ばれるのを感じた。
潮騒が、耳許にやさしくささやくのを聞いた。
そして彼方から小舟が渚に戻って来た。
小舟は『二〇一〇年』をのせてきた。
誰かが舟を引き上げて、乗っていた時代を取り出した。
その瞬間より世界は二〇一〇年になった。
「市長、おはようございます」
秘書の声がした。
彼は、仮眠していたソファで目を覚まし、上体を起こした。
「また、ここで徹夜で研究なさっておいででしたか」
「ああ、シリン。
雑誌の原稿依頼をすっかり忘れていたんだよ。今日は、午後、大学の講義があるから、予定を開けておいてくれただろう」
「ええ。早くおっしゃってくださらないものですから、一度決めたお約束を調整するのに苦労しました。これからは、大学のほうのご予定も早目にお知らせくださいませ」
「それは良かった。ありがとう」
ファザムは、ソファから立ち上がり、窓から外を眺めた。
彼は、よく熟れたトマトが食べたくなり、昨夜、部屋に戻らなかったのを少し残念に思った。せめて、部屋に戻って書いていたら、朝食にありつけたろうに。
「早く、顔を洗っておいでください。
お弁当、お持ちしましたから」
シリンがタオルを差し出した。
そのシリンは、プラティスのイメージが作り出したものかもしれなかったが、その笑顔と態度は、ファザムのよく知っている女のものであった。
「ねえ、紫麟」
「何か」
「いや、ね」
紫麟かもしれない、と、ファザムは少し微笑んだ。
これで連載は終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
また近いうち、何か連載できたらと思っています。
その際はどうぞよろしくお願い致します。




