26 此の岸より彼方の岸へ 彼方の岸より此の岸へ(白 界)
男は、白い浜辺を歩いていた。
白階の砂浜は清潔で、海草の一筋さえ、打ち上げられてはいない。一体、生物など住むのだろうか、この世界には。
白い衣装をつけた女が、砂の上を歩いて来るのが見えた。
「新しい青帝王殿か」
「とんでもございませぬ、公主様。
ここにいるのは、ひとりのただの男に過ぎません。身の程知らずの術士の果てです」
「それをご存じなら、碧海帝王の名を名乗られてもよろしいかと存ずるが」
「御身は、白公主春黎女皇様にあらせられますな」
「さよう。
この世界の異変の修復に出てまいった。
この世界の異変は、先の異変のときに修復するべきであったのかもしれぬが、われわの船は眠りを解除しなかったものでな」
さざ波が、春黎の足元に波打つ羅を濡らした。
「この夢は、御身が引き継ぐものではなかったろうに」
「最初に、イリスが、先にケサルパーティのなかに潜んだ『思い』に感化された。わたし自身はどうでも良かったのだが、ある夜、夢を見た。この世界の空間軸に仕込まれた、ある男の思念だった。
わたしは、その思念がいったいどのような力を持つのか、すぐに分かった。だから、その思念を遠ざけ、そして、イリスとケサルパーティの心を引き離そうと考えた。
しかし、それはこの世界の仕組まれた変革の種子であることを悟ったが、その種子が、どのような者が触れることによって最も大きい力を得るのかということを知ったとき、わたしが先にそれに触れてしまおうと思ったのだ。
そして、古き時代の悲劇が、繰り返されることもね」
「なぜ」
「わたしは兄だし、彼を失いたくなかったからだ。暗い通路を、手を繋いで歩いた。父に会うのが恐かったときに、彼がいてくれたから、父に会う勇気が持てた。
そして、わたしは、あの頃の父の変化を知っている。あんな姿を見たくなかった」
「でも、それは、ぼくが引き継ぐ夢だったはずだ」
「ああ、わかっているよ、プラティス」
香嶺の背後から、シリンとプラティスが現れた。
「だから、わたしは一つ身の完全なる魂ではないからね、自分で自分の『影』を殺さなくてはならなかった。
シリン、久しぶりだね」
「ええ、ファザム。お元気そうで、何よりね」
「髪を切ったの」
「ええ」
「公主様の衣を着ている」
「新しい名前をいただいたの」
シリンは、ファザムに歩み寄った。
「いつも会いたいと、思っていたよ」
ファザムは、明るい太陽の光を背にして、わたしに云った。その顔は、まぶしい夏の白階の風景にシルエットになり、その言葉が、果たして少しばかり歪んだ笑みを口もとにたたえていたのか、それとも、なつかしさの心の感傷が瞳孔を変化させたのか、わたしには見てとることができなかった。
「ここのお暮らしは、いかが」
「悪くはないが、期待していたほどのことでもない」
「あなたは、変わっているわ」
「男なら、だれでもこれくらいの野心は抱いているものだと思うがね」
「あなたが死んでしまったとき、わたしはとても悲しかったのよ。悲しむことを忘れてしまうくらいにね。おかげで、いつもより仕事がはかどったけど。
でも、あなたは、ファザムかしら」
「ぼくもそう思うよ。
ぼくは、権力を手にいれるために、自分そのものを差し出してしまったようだ」
ファザムは、わたしの立っている場所まで歩み寄った。
「ここにいる、ぼくは、だれ」
「この世界の皇帝、熾碧皇帝陛下だわ」
「その名が、いまはうとましいよ。
会議の最中に、きみにそっとメモを渡して待ち合わせていた時間。氷が、琥珀の水に音を立てるのを聞いている時間。その時間が、今はなつかしい」
彼は、しばし沈黙した。
その時間は悠然と流れる大河のようであった。わたしと、彼の間にあるもの。お互いがお互いを他人として、それでも求めたがっている。肌のぬくもりさえ、知り尽くした仲であるのに、それとは他人と、信じている。
「ルージュをしている」
「ええ、あなたの望んだ色よ」
「きれいな色だ。
その衣装に、良く映える」
「聞きたかった言葉よ」
わたしは、彼の首に手を回した。彼の顔を引き寄せて、その唇にくちづけをした。彼はわたしを抱擁した。
「あなたは、ただの男に戻りたいの」
「ああ、できるならね」
わたしは、ファザムから離れると、リィンを呼んだ。
「あなたの、お兄様の魂は、この男の中に住んでいるのよ。
あなたが連れてお行きなさい」
リィンは、ファザムの頬を両手て触れた。
「ルクレッツィアか」
「ええ、長い旅をしてまいりましたわ」
リィンが、その男の頬から手を離すと、その手には剣が握られていた。
「これが、お兄様の魂」
リィンは、剣に口づけした。
ファザムの瞳の色が、明るい日差しの中で変化した。
「もう、大丈夫かしら」
ファザムは、もう一度、わたしを抱き締めた。
「彼の、真実の名を知っているかな」
彼は、わたしの耳許で囁いた。
「彼の名は、チェザーレ。チェザーレ・ボルジア=ディ・ヴァレンチーノ」
「ええ、彼はの魂は、もとの世界に戻り、そして、彼の心は、プラティスとして新しい生命を生きるのよ」
「じゃあ、もう行くんだね」
「ええ。
わたしと、リィンと、ゼルダと、三人で、あちらに行くわ」
わたしは、云った。
「あなたは、これからどうするの」
「うん、数学者の仕事がある。
それから、市長と、市民報の編集の仕事もね。
ぼくの、ぼくたる人々は、ぜんぶぼくの中に入ってしまったんだ」
彼は、爽やかに笑った。
「忙しそうだけど、数学者なんか、あなたにとても似合いだわ。
マーティの店にも、たまには行ってね」
わたしも、微笑みを返した。
「わたしは、シリンの名は、あなたのものよ。そして、このルージュ、あなたの愛したわたしよ」
わたしは、彼にあのルージュを手渡した。
「あなたに、あげるわ」
そして、わたしは彼に背を向けた。
「シリン」
背中で、彼の声がした。
「もう一度、会いたい」
「きっと、すぐに会えるわ」
わたしたちは、ファザムをひとり残して、六色統合宮殿に向かった。
宮殿の扉が、春黎様によって開かれた。
広間には玉座があり、そこにイリスが座っていた。
「この宮殿の主は、そこの皇后様なるぞ。
勝手に入ってくることは許さぬ」
イリスの前に、黒の老人が立ちはだかり、一同を制した。
ケサルパーティが、天井で騒ぐ羽音が聞こえる。
「時がきたのです、イリス。
わたしたちは、空間の海をわたらなければなりませぬ」
シリンは、老人に構わずに、その玉座にあるイリスに云った。
「わたしと、あなたは、ひとつの魂よ。
あなたには、もう、わたしの心が見えるはず。わたしの心に、あなたの心が見えるようにね」
シリンは、かすかな絹ずれの音をたてて、玉座に歩み寄った。
「行きましょう、イリス。
わたしたちが行けば、世界はもっとも美しい形を夢見て、そして、その形をつくることができるのだから」
イリスの顔は、凍り着いていた。
「わたしは、行かない」
ふるえる声で、玉座の肘掛けをつよく握った。
「あちらの岸辺もまた、美しい夢と魂に満ちているわ。
その夢を見るのは素敵よ。
リィンも、もう待っているのだから」
シリンの声が、イリスを椅子から立ち上がらせた。しかし、イリス自身は激しく抵抗しているのか、苦渋に口元がゆがんていた。
「行きましょうか、あの美しい岸辺へ」
宮殿の壁が透明となり、海に続く浜辺が見えてきた。
波打ちぎわの、泡だつ場所に、ひとりの男が立っている。
そして、その男のそばに立つ女がいた。
「ユーヴァンシーラ」
黒の老人は、その女の名を呼んだ。
震える足取りで、その女のもとに、老人は歩み寄った。
女のそばに寄ると、老人の姿は、精悍な顔だちの青帝王となった。
「あれは、母と、ぼくの真の父だ」
プラティスは、つぶやいた。
男は、青帝王の手によって、舟に乗せられて、沖に押しやられた。女は、いつの間にかあどけない赤子を抱いている。
「黒の老人は、永遠にあの時間に閉じ込められるでしょう」
白公主春黎女皇は、プラティスにそう云った。
沖に押しやられた舟の上から、男の姿は消えていた。
リィンが、舟を漕いで岸辺に舟を寄せた。
シリンとイリスは、舟の着く場所立にっていた。
「わたしたちが行けば、世界はほんの少しの間、混乱するの。
でも、すぐに世界の形が定まるはずよ、みんなの描いたビジョンが強ければ。
プラティス、あとは、あなたの仕事よ。
夢の形をとらえて、明確なビジョンをつくること。それが、異世界の形の魂をもって、この世界に生まれたあなたの役割よ」
三人が並んで、舟に乗り込んだ。
同じ顔のシリン、イリス、リィンは、まったく同じ表情をプラティスに向けた。
舟が、岸を離れた。
空間と空間の接点らしい水平線の彼方に、見知らぬ町のシルエットが浮かんでいた。
舟が遠くなると、宮殿の壁ももとの通りとなった。
玉座には、白公主春黎女皇が座していた。




