23 夢と夢をつなぐ廊下 (黒 界)
長くて暗い通路を、手を引かれて歩いていた。狭い通路のすぐ下には、流れが渦巻いていた。
「どこまで、行くの」
暗いなかを行くのは心細く、そして行く手をゆだねる案内人もようやく術士の修行をはじめたばかりだった。それでも、彼は少しも怯えている素振りもなく、自信をもってどんどん繋いだ手を引きながら、さきに進む。
「もう少しだよ。もう少しで、お父様に会えるんだから」
「もう帰るよ、お家に帰ろうよ」
「プラティス、頼むから一緒においで」
「どうして」
「おまえがぼくの弟だからさ」
そして、暗いなかをどんどんと歩いていった。
大きな扉があった。
彼が触れる前に、扉がひとりでに開いた。
中は、光に満ちていた。それは、いままで暗い道を歩いてきたせいで、光は目に痛みをもたらした。
明るさに眼が馴れると、その広間の壁は白く、ところどころが金箔で飾られ、そしてたくさんの聖画で天井と壁が埋められていた。
手をつないでいたはずの彼は、緋の僧服をまとった老人であった。
「あれが、世界の中心だ」
彼は、広間の中央にある椅子を指さした。
椅子の上には、三重冠がのっていた。
「カルディナール」
背後から、そう呼ばれたので振り返ると、どこかの国の国王が立っていた。
「カルディナール・ヴァレンチーノ」
「これは、陛下。まことに失礼を」
そう返事をすると、
「かまわぬ。
わしは、そなたのために、ヴァランス公国を用意した」
「ありがとうございます」
「カルディナール・ヴァレンチーノから、デュカ・ヴァレンチーノとなるか。称号を間違って署名せぬようにな。
ときに、ナポリとの同盟はどうだ」
「王子ビシュリエ公に、妹ルクレッツィアを嫁がせることにいたしました」
「そうか。それは良かった」
広間に、賑やかに人々の声がさざめいていた。国王は、その人込みのなかに去り、また他の者に言葉をかけているようだった。
ふと、緋色の衣を着ているのに気付いた。さきほどの老人が着ていたものと、同じものであった。
広間を出ると、真昼の緑の揺れる窓の外の景色が見えた。廊下を、尼僧たちが往来している。
尼僧らは、緋の衣のわたしに、みな立ちどまり、ていねいな会釈をした。
「お兄様」
質素なドレスに、真っ白い前掛けをした女が、大理石の床の上を小走りにやってきた。
「おかえりなさいませ」
「久しいな、ルクレッツィア」
ふたりで、並んで廊下を歩き続けた。
「おまえに、頼みがあったんだ」
「なんですの」
「ナポリへ、嫁いでほしい。
今度は、幸せな結婚であることを約束しよう」
「信じて、よろしいのですか」
「ああ、たぶん」
それっきり、彼女は沈黙してしまった。
廊下の角を曲がった。
今年の最新のデザインらしい、シンプルで素敵なスーツが、ショーウィンドウのマネキンに着せられていた。
隣を見ると、彼女は予想どおり、そのウィンドウのなかのスーツに視線を送っていた。「あれ、なかなかいいと思うよ」
「そう。襟が大きすぎるわ。わたしは、あの手のデザイン、ダメなの」
待ち合わせたホテルのティールームから出たぼくたちは、映画の始まるまでの三十分ほどを、ホテルのテナントのショップのウィンドウを眺めて過ごすことにしたのだった。
次のショップは、数種類のブランドものの化粧品を取り扱う店だった。
『バレンチーノ・ロンバルディ』
そのブランド名に、なんとなく興味をひかれて、そのポスターから視線をしばらく外せなかった。
「何か、買ってあげようか」
僕は、その一瞬を言い訳するように、彼女にそう云った。
「あら、珍しい」
「その代わり、ぼくの選ぶものに、ケチをつけるんじゃないよ」
「わかったわ。そのかわり、それを気に入って使うことまでは期待しないでちょうだいね」
「うん、いいよ。
それじゃ、ここで待ってて」
ぼくは店に入っていった。
ショートボブカットの店員が、にっこりとほほえんで、
「いらっしゃいませ」
と云うので、ぼくは、何を買ってやるべきか、まるで女性の化粧品についての知識がないのに戸惑いながら、
「口紅、見せて」
と、ようやく口にした。
アイシャドウ、頬紅、ファンデーションぐらいまでなら、ぼくにもわかっていた。しかし、贈り物としては、そう云うのがきわめて自然だと思ったのだ。
「プレゼント、なさるんですね。あちらのお連れの方へでございますか」
「そう。
どんな色がいいと思う」
「ご一緒にお選びになったらいかがでございましょう」
「それじゃ、わざわざぼくがプレゼントする意味がない」
「承知しました。
それでは、お連れさまは、いつも主にどのようなお洋服を御召しでございますか」
「普段は、わりと楽なものを着ているけどね、仕事のときは、カッチリとしたスーツを着ているよ。だいだいは、タイトスカートのやつね」
「お色は、どんな色がお好みでしょう」
「彼女自身は、割と赤が好きなんじゃないかと思う。真っ赤な色が」
ぼくは、彼女が今朝、朝食のときに出したトマトを思い浮かべてそう答えた。それは、最近のスーパーにあるトマトの緑がかったピンクのやつとは全然ちがう、この薄皮を剥いただけですぐにケチャップになっちゃうんだろうな、と思うような赤さだった。
「でも、仕事のときの服は、だいたい白。時々はアイボリーだったり、淡い黄色のときもある。ごくたまに、紺色や茶を着ることもあるけれど」
「これなどいかがですか。アンナ・ルイスの新色ですが」
店員が見せた色見本は、上品な、少し茶色がかった趣味の良い色だった。しかし、そのとき、どうしてもあのポスターのブランド名が欲しかった。
「あの、バレンチノ・ロンバルディの見せてください」
「かしこまりました」
店員は、それまでカウンタ|のショーケースから商品を選んでいたが、急に、口元に微妙な、それまでとは違う笑みを浮かべて、カウンターから出てきた。
「ロンバルディ・コーナーはこちらになります」
いかにも、高級感のあるディスプレィのショーケースは小さめであったが、中に並んでいる化粧品は、黒の、洗練されたラインのパッケージデザインで、ぼくは一目で好きになった。
「こちらの色はいかがでしょう」
店員は、口紅のスティックが林のようにきちんと並んで立っている見本用のケースから一本を取って、手の甲につけて色味をみせてくれた。
「うーん、ちょっとちがうな。
その、カルジナル・レッドというやつ、それを見せてくれないか」
ぼくは、口紅の見本の下につけてあるシールの色名のひとつを読んだ。
店員は、その色を取り出すと、また手の甲につけた。
手の甲に付けても、男のぼくに、それがどんなメイクに映えるものか、どんな感じになるのか、想像するのは優しいことではなかった。
イメージすることが仕事である術士でも、やっぱりむずかしいこともあるのだ。
でも、その色でなければ、ならない気がした。
きれいに可愛くラッピングされた口紅を彼女に渡してから、ぼくの中で何かが動きはじめた。
また廊下をふたりで歩きはじめた。
扉につきあたり、ぼくはその扉を開けた。
広間があった。
広間の奥には、玉座があった。
そこには、三重冠をつけた聖母が座っていた。真紅の衣を着て、ふたりの子供が玉座の下にある階段を昇ったり降りたりしていた。
聖母の顔は、シリンであった。
ふたりの子供は、誰だろう。
ニーとライにも見えた。
でも、違うようでもあった。
その聖母のシリンは、髪を短く切り、そして、あのカルジナル・レッドの口紅をつけていた。
ひとりの貧しい階級の女性が、聖母に杯を捧げて、玉座の下の階段を降りてきた。
「この杯の中にあるのは、ある男の魂。きれいな赤い色をしておりますが、何も持たぬ男」
聖母は、騒がしい子供たちに、そう語っていた。
貧しい女は、こちらのほうにやってきた。
女が、手をさしのべて、ついてくるようにとうながすので、広間の扉を開き、また外に出た。
外は、たくさんの群集であふれかえっていた。さまざまな民族、そして、さまざまな時代の衣装をまとった人々が、祭りのように通りいっぱいに、踊りとも、熱狂ゆえの身振りともつかぬ仕草で、何者かを待っていた。
あまりの人いきれで、気分が悪くなり、細い路地をみつけて、その中に身をよせた。
人々の歓声がひときわ高くなった。
大通りに、山車が入ってきたのだ。
人々は、手にしていた、玉子やゴミなどの汚物を、その山車に投げつけていた。
山車には、十字架が立っていた。そこに、ひとりの男が梁付けられていた。
群集は、その男に向かって、汚物を投げていたのだ。
群集のなかから、ひとりの少女が飛び出した。そして、その山車によじのぼり、十字架の梁に座ると、梁付けられた男の頭を胸に抱き、そして口付けをした。
「あの女は、罪深い女だ」
路地に立って一部始終を見ていると、隣にギリシャ人の老人が並んで見ていた。
「あの女は、今でこそ賎民であるが、もとは裕福な商人の娘であった」
彼は、語りはじめた。
「まだ幼い頃、異端審問の僧侶が、彼女の町を訪れた。
彼女は、ほんのささいなことで、母親にしかられたことがあった。そして、愚かなことに、母親などいなければいいのにと思って、母親が魔女であると、異端審問官に告発してしまったのだ。
母親は捕らえられ、彼女は、じぶんのしでかしたことの大きさがわかった。
彼女の母親は結局、梁付け、火焙りとなったが、そのあと、彼女は森に入った。そこで出会った練金術士に、彼女は、自分の罪を告白した。
すると、練金術士は、彼女に云った。
『その災いは、おまえの口から始まった。
その罪を背負おうというのなら、おまえは生涯、口など聞かぬがよい。何も云わず、何も云わず、ただ、この世界をさまよえばよい。』
練金術士は、彼女に水銀をわたした。
彼女はそれを飲んで、声をつぶし、耳に数滴落として音を失った。
以来、ああしてさまよっている」
女は、いつの間にか美しい衣装に着替えていた。
この女が、わたしを救うかもしれないと思ったのだ。
わたしは、女を閨室に招き入れた。
「プラティス」
誰かが呼んだ。
「起きて、プラティス」
ぼくは、目を覚ました。
プラティスは、どうやり夢の回廊をさまよっていたようだった。
でも、いくつかの夢のうち、自分の夢はひとつしかなかった。
目を開けると、リィンがプラティスの顔をのぞきこんでいた。
何もする気力も、考える力もなかった。
「プラティス、わたしが誰か、判る」
それが、リィンの姿をしていて、リィンのものでない眼の輝きをしているのに気がついた。
リィンとシリンは、お互いが『影』の関係であるので、並べてみると同じ顔をしているはずである。リィンの髪は柔らかくて、ほんのすこしウェーヴがある。しかし、シリンはしなやかで、張りがあって、まっすぐだ。
プラティスは、シリンの髪に触れたことがないので、実際はどんな感触なのかはわからない。兄がもたらした資料によれば、シリンは、定期的に美容室で数時間を過ごしているらしいので、そのときにストレートパーマをかけているのかもしれない。
でも、眼の前にいるのは、まぎれもなくリィンなのだが。
「世界は変わるけど、でも、壊れはしないわよ」
リィンは云った。
「じきに、その黒宮の正式な持ち主が現れるわ。そのときまで待っていてね。
それから この娘にかけられた、ゼルダの精神支配を解いておくわ」
リィンの中に入っている、誰かがそう云った。
そして、リィンが変化した。
眼差しが、リィンのものになった。
しかし、そのリィンは、すこしばかり高貴な身分の女のようだ。
「あなたの中にいるはずの、お兄様はどちらに行かれたのかしら。
ジュンはご存じ」
「リィン、きみはどうしたの」
「時間が、隔てられているのですわね。きっと。
でも、この世界においでのことは、感じておりますの」




