20 紫 麟(白 界)
わたしは、海辺の建物の一室をあたえられた。とても不思議な部屋で、ダブルサイズのベッドほどの広さしかないサンルームに、一面羽毛が敷き詰められ、そしてガラス窓の向こうには、入江ごしに美しく巨大な純白の宮殿があった。
ふたりの女たちは、この部屋に入るなり、わたしの服をすべて脱がし、この羽毛の寝床に閉じ込めた。羽毛にくるまったわたしは、それから沢山の夢を見た。いくつも、いくつも、覚えていられないほどの情景のなかを、わたしは生きた。そして、夢は、麻薬のようにわたしの中に浸透していった。
これまで、夢は思い通りに見られないものと思っていたのに、夢をみつづけることで、夢の情景も設定も、ある程度は自分の望むようにできるのだ。
これが、イメージなのだろうか。術士たちの持つ、世界を形づくる力。だが、わたしの見るそれは、どうやら術士たちの持つその力とも、違う種類のものかもしれない。異世界の夢を見るのだ。
その夢のなかに、誰かと踊っている夢があった。その相手の男を愛しているのだが、その男の夢を果たすために、みずからの愛を投げ出す夢だった。
妙に心に残っている。
どれほどの時間が経過したのかは分からないが、夢の間に間に見る窓の外の光景は、午後の静かな海のままであった。
それでも、太陽は、確実に巡ってゆく。頂天と水平線のあいだの同じ位置を、ただを円を描くように移動させてゆくだけだ。
向こうに広がるのは、海だが、驚くほど透明で、底の砂の白さが透けて見える。青さのない、わずかに碧色がかったその不思議な海の色に対する空の色は、明るい宇宙の色をそのまま透かしていた。透きとおったグレー。 太陽のあたりの星は、その光にさえぎらてしまうのだが、地平線あたりにある星、星雲は、にじみもせずに、冷えた光で空にある。 わたしの見た夢の数々よりも、この世界の形のほうが夢に近い。誰もいない浜辺と、人の気配のまるでない、漠としたこの世界。どれほどの時間が経過したのか分からないが、夢の間に間に見る窓の外の光景は、午後の静かな海のままであった。
窓の外の海辺には、誰もいない。
この階には、特別の者しか入れない。
それでも、不思議なことに、人のいる感じはする。この世界にいる人々の意識の形が、見えるようにわかるのだ。
それも、ほんの数人。
二人の公主たち、その意識の形は知っている。
他に、三名。
その意識の形のひとつは、わたしとシンクロしており、あとのふたつは、懐かしい、余知っている者の意識だ。
感覚が研ぎ澄まされているのに気づく。海の底の、はるか彼方まで見わたせる眼に気づく。
これは、わたしのイメージの世界なのだろうか。
「そろそろ、こちらにいらっしゃい」
二人の公主たちは、古い時代の王女の衣装を着て、片方は黒耀石を飾ったティアラで、いま一人は、オパールを飾ったティアラでそれぞれヴェールを留めていた。
黒耀石を飾った公主のほうが黒公主香嶺女皇、乳白石を飾った公主が白公主春黎女皇。ふたりは、銀色の王女の表掛けをわたしの肩にかけた。
その羽毛の部屋から出ると、白い廊下をたどり、別の部屋に着いた。
ひとりの男が、そこにいた。
「マーティフェレス」
黒公主が男の名を呼んだ。
「わが主方、この身はここに控えております」
術士のケープをまとう、跪いたその男はマティ・オズワルドであった。
「このシリンを、これから戦士に仕立てます。まず、宮女を準備なさい」
そう命じられ、マーティは目を閉じて念じた。すると、間もなく部屋の壁から湧き上がるように、女たちが数人現れた。
女たちは、わたしをとりかこみ、その部屋よりさらに別室に連れ出した。そこは広い浴室で、彼女らは、わたしから打ち掛けを外して、わたしの身体を洗いはじめた。
数人の女たちによって、手際良く入浴を終えたわたしは、バスローブをつけてさきほどの部屋に戻された。
大きなソファの左右に、公主たちはゆったりと腰をかけていた。それに対するように置かれたもうひとつのソファに座るように命じられた。
わたしが腰掛けると、マーティがお茶を運んできた。わたしの好きな、アールグレイの香りが、あたりに広がった。
「マーティフェレス、彼女に、お話ししてあげなさい。この世界の形と、意味と、そして彼女が問うことを」
「シリン様、お健やかで何よりでございます」
マーティは、そう挨拶すると、絨毯の敷き詰められた床の上にじかに座った。
「わたくしが、このような場にいることの理由については、またのちほど、お話しいたします。
まず、世界の形について、お話しいたしましょう」
マーティが、そのように話し始めた。公主たちは、テーブルに置かれた茘枝の実を指でつまみ、桜貝のような色をした指先で黒い皮をむいては、真っ白い大粒の真珠のような果実を口に運んでいた。
「世界の形、あなた様のお暮らしになりました青階におきましては、世界は、黄階・青階・赤階の三層に分かれており、それぞれが社会体制や風俗こそ違え、根本的な点については相似の関係にあるというように教育されていると存じます。また、あなた様は、青の帝王でございました市長、藍玲帝王ギィ・ラロス陛下の秘書でございました関係から、この世界はそれぞれの階層の統治者であります三人の帝王と、それぞれの階層の仲立ちと補佐を勤める三人の皇王によって維持され、そして、その下に、それぞれ各階層に術士を置いて実際の統治が行われているということも知っておられます。
また、各階層の、世界の認識のしかたでさえ、黄階はまったく正確なことは知らされておらず、青階には、世界の形そのものだけ、赤階において、一般には世界の形と統治体系だけが知らされているにすぎませぬ。
世界の真実と、その形と体制を、本当に知っているのは、赤階の上級貴族と、三階層に派遣されている術士たちのみということでございますから。
さて、いまこの世界で起こっておりますこと、それとほぼ同様のことが、二十年ほど昔にございました。そのときのことを、お話しせねばなりますまい。
あれは、まだ、紅階の華妃帝王サイセリア陛下、青階の藍玲帝王ギィ・ラロス陛下が、それぞれの色の首席術士でおいでの頃でございました。その頃、紅の帝王でございました蘇芳帝王ユーヴァンシーラ陛下が、蒼海帝王ノスタシエリ陛下のお子様をお産みになりまして、五年が過ぎたころでございましたでしょうか。蘇芳帝王陛下は、職務のかたわらお子様をお育てでございましたが、お子様がすっかり大きくおなりでしたので、術士に育てるべく、赤階の首席術士オーゼィグラン様にお預けになりました。そうして、蘇芳帝王は再び帝王としての仕事に全面的に復帰なさいましたが、そんなある日のことでございました。
黄階の海岸に、ひとりの男が打ち上げられておりまして、その男は、どうやら異世界より流されてまいった様子でございました。
黄階の術士たちに命じて、一般の者に影響が及ぶ前に、男は赤階の王宮へと運ばれたのでございます。帝王・皇王陛下の皆様は、集われて話し合いましたが、赤階の王宮にあるかぎりは、大丈夫であろうということで、このことを、ひとまず蘇芳帝王陛下に一任することになりました。
男は、すぐに気がつきましたが、記憶を失っておりました。異世界より流れ着いた人間は、決まってこのような事がおきます。世界と世界を隔てているのは、目に見えぬ壁であると申しますが、その壁を越えるためには、前の世界の記憶を引換にせねばならぬのでしょう。
蘇芳帝王は、お優しい方でございました。それに、お子様を手放されたばかりで、お寂しくていらしたのでしょう。毎日、じかに男の部屋を見舞っては、男とわずかの間話をします。それは、消えた記憶の断片が言葉の端々にのぼることがあるので、異世界の情報をもれ聞くためでもございますが、それは日を追って、時間が長くなってゆきました。
男は、時折、寝言で『ルクレチア』なる名をもらします。また、蘇芳帝王陛下とお話しの折りに、取り返しのつかないことを、大切な人にしてしまったような気がする、と申しておりました。また、赤の衣装をまとう蘇芳帝王陛下に、『あなたは、神の名がいつも正しいと思ったことがあるか』と、つぶやいたこともございました。
蘇芳帝王は、その言葉の断片から推察できる、男がこの世界まで流されてきた理由を思いやり、深く男にご同情なさいました。
異世界の者は、その世界に心を留めることがつらくて、この世界に至るのです。心を留める場を失い、自らの名を厭うたときに、世界と世界をつなぐ広い海を越えて、この世界に至ることが許されるのです。ゆえに、記憶など邪魔なのでございましょう。
しかし、女が、深く男に心を寄せるのは、好ましい結果を産むとはかぎりませぬ。男が数ケ月、王宮に留まるうちに、蘇芳帝王陛下は、またご懐妊なさいました。その頃には、蘇芳帝王陛下が、その異世界の男を愛人になつったことは、公然のこととなっておりました。
それを知って、蒼海帝王陛下は、いたくお嘆きになりました。蒼海帝王陛下は、蘇芳帝王陛下をお妃になさるにあたって、他の帝王・皇王の方々を説得なさらなければならなかったのです。正式にお妃としての承認を得るのに、五年も費やされたのですから。
他の帝王陛下・皇王陛下の方々も、当然、そういった順当なる手筈を踏んだ蒼海帝王陛下にお味方なさいました。そして、男を小舟に乗せて、また海へと流したのです。
他の世界の岸辺へと、また流れつくように祈りながら。
しかし、蘇芳帝王陛下のお気持ちは、それでおさまるものではございませんでした。許された愛より、禁じられた恋のほうに、心を乱されるのはよくあることでございます。蘇芳帝王陛下は、そのことを悲しみながら、ひとりでご出産に臨まれました。
蒼海帝王陛下は、蘇芳帝王陛下のお心が戻らぬので、最初の頃は、どうにかして関心を取り戻そうと、さまざまな贈り物をなさいましたが、なかなか蘇芳帝王陛下はお会いにもなりません。そして、ご出産ということをお聞きになると、生まれた子供を自分のお子様として名付け役になることをお申し出になりました。蘇芳帝王陛下の側近らは、蒼海帝王陛下にお子様を差し出すと、蒼海帝王陛下はお子様をつれて、宮殿の外に出ておしまいになり、青の首席術士のもとにお預けになりました。
蘇芳帝王陛下は、そしてようやく蒼海帝王陛下にお会いになりました。そして、かようにおっしゃいました。
『わたしの心が欲しくておいでなら、この世界を、すべてあなたの手になさりるがよろしい。』
その一言で、蒼海帝王陛下はなさってはならぬ道に踏み込まれたのでございます。
まず、他の帝王陛下・皇王陛下を、負傷させ、弱らせて術の力を落としたうえで、地下の黒宮に幽閉なさいました。
そして、自らが皇帝にお立ちになりましたが、自分に反抗する術士たちを、次々と処刑なさいました。
それが、暗黒の時代でございます。かようにして処刑された術士たちの数は、現在の術士たちの総数の二倍をはるかに越えておりました。
蘇芳帝王陛下は、その事をごらんになり、蒼海帝王陛下が皇后の称号を与えるという申し出を、よろこんでお受けになりました。
しかし、それから間もなく、終焉のときがきたのでございます」
シリンは、マーティの話を聞きながら、その情景が頭の奥で、現実のような映像に変換されるのを感じた。窓の向こうの砂丘の上に像が結ばれ、そして、そこに作られたイメージの一室のなかで、たたずむ男女の姿が見えてくる。
「蘇芳皇后、あなたは、この事態にどう対処するべきなのか、わかっていらっしゃるのですか。
この奥の庭で、花を眺めてばかりいるようですが、色帝王としてのお務めは、充分に果たしていらっしやるのでしょうな。
近頃は、会議の席にもつかれぬではございませぬか。
他の四色の皇王方よりゆだねられたこの階層世界、よもや、このわたし一人に押し付けておしまいになるおつもりではございませぬか」
男は云った。
女は、カウチにもたれ、聞いているのか、いないのか、じっと目をとじていた。
薄物の絹の部屋着につけられた細かいプリーツが、床でも波うっている。
「赤帝王蘇芳皇后」
男は、しばらく答えを待っていたが、再びその名を呼んだ。
「赤階の術士の養成学校の入学許可証の発行は、向こう三年間の期限つきで、中止することにいたしました。
二日前に起きた、青階D区の事故処理に、赤の青階術士マーティフェレスを派遣いたしました。青の術士にも、協力を要請いたしましたが、素早い青階層庁の応対、まことに感謝しております」
女は、目をとじたまま云った。
「あなたは、ご自分の領分は完全に管理なさっておられるとおっしゃるのですか」
「さようでございます。
赤階のこと、及び、赤帝王の仕事の領分につきましては、陛下のお手を煩わせることのないように、努力しております。
陛下が六帝・皇王制を廃される以前には、皇王会議は、緊急の場合を除き、七日に一度でございました。あとは必要に応じ諸帝王・諸皇王の関係するそれぞれの間で、調整するのが慣例でございました。
わたくしは、陛下が、現在の赤帝王の領分除く五つの領分を統率なさることにお慣れなったご様子でしたので、補佐の職を、陛下のの騎士にお返ししたにすぎませぬ。特に、赤階においては異変がございませぬので、特に報告することもありませぬ。ですから、代理に所定の報告に行かせましたが、お聞きではございませぬか」
「愚弄するな、蘇芳」
「まあ、お怒りでございますのか」
「世界に異変が起きておるのに、特に異変がないとは」
「御身が、この世界の秩序をお乱しになるのであれば、異変が起きるのは当然ではございませぬか。術士の数もたいへんに少なくなりましたからには、この世界のあるべき姿をイメージできる者が幾人おりますものか。イメージに支えられぬ世界は、姿を変えてしまうのは、あたりまえでございますから。それは予定された異変でございましたが、御身はそのことを、ご存じなかったと申されますかえ」
女は、声をあげて笑った。
「それも、これも、おまえのためにした事だ」
男の声には、砂を掴むような、空しさがあった。
「わたしが、それを望みましたか」
「望んだだろう。あの日、わたしの心が欲しければ、世界を手に入れろと」
「なら、わたしは望んではおりませぬ」「云うか」
「わたしの心を望んだのは、あくまで御身ではございませぬか。わたしは、世界を手に入れてくださった報酬に、わたしの心を差し上げますと申した憶えはございませぬ」
「あのとき、おまえは何を望んだ」
「望んだのは、ただ一人の男、ただ一人の息子でございます。
そっとして置いてくだされば、たぶん、このようなことにはならなかったでしょう。あの子を育てているうちには、いま一人の息子の事も気にせずにはいられますまい。ならばその父親だとて、ないがしろにはできませんでしたのに。
あなたは、間違いを犯されたのですよ」「今さら、云うか」
「わたしのことをお分かりでしたら、そのようなことはなさらなかったはずです」
「わかるというのか、おまえのことが、このわたしに。おまえは、わたしから心が離れてしまっていたというのに」
「なぜ、そのようにお思いになられたのですか」
「あの男を、愛したではないか」
「わたしが、愛さねば、あの男はあのままわずかに残る記憶にさいなまれ、心を枯らして死んでしまったでしょう。
あの心の空洞の深さを、わたしは見てしまったのです。そして、気が付いたら、わたしはその空洞に、落ちていたのです。わたしはその心の空洞を埋め、そして地面に這いでなければならなかったのです。あと、もう少しのところだったのに、あなたは。すべてが終われば、彼を異世界への舟に乗せ、送り出すつもりでおりましたのに」
「あとからなら、何とでも弁解できる」「なぜ、お信じくださらないのか」
男は、片手に剣を握っていた。
「その言葉に、偽りがないのなら、命ごいなどするな」
「あの男の修羅に、あなたを落としてしまいましたな」
女は、それだけ云うと、床に膝をつき、男を見上げ、そして目を閉じた。
そして、女は待っていた。
男は剣を振り下ろした。
「かくて、蘇芳帝王陛下は、お亡くなりになり、そして、そのことを悔いた蒼海帝王陛下もまた、胸をお刺しになりました。
別室で控えておりましたわたくしが、その部屋に入りますと、その場にいた精霊ケサルパーティがお二人の血を舐めておりました。 わたしくは、まだ蒼海帝王陛下の息があることを知り、ただちに生きている他の術士たちを連れてまいりました。
蒼海帝王陛下は、以後、帝王・皇王制の復活を指示なさり、黒階へと降りてゆかれました。黒階に幽閉されていた方々も、地上に解放されました。
しかし、わたしは、蘇芳帝王陛下の片腕として、働いてきた身でございましたので、蒼海帝王陛下にお願いし、記憶を消して、一般の市民として、青階で暮らすことになったのです」
「心とは、罪なものでございますな」
「さよう。
心を持つとは悲しゅうございますな」
二公主はつぶやいた。
「心が愛を知れば、世界を描くイメージは強くなる」
「しかしながら、それゆえに、あるべきイメージが強く曲げられることにもなる」
二公主は、さきほどと少しも変わらぬ姿でソファにあった。
「シリン、あなたは誰」
ふたりは同時にわたしに話しかけた。
「わたしでございますか」
わたしは、突然そう尋ねられて、とまどうものと思ったが、わたしの心の中の何かが、口のなかに昇ってきた。
「わたしは夢でございます」
「どんな夢」
「暖かく、健やかな、うららかな春の日差しの夢でございます」
「その夢には、誰か住んでいる」
「すべての人が、それぞれの好きな春の日の午後の場所でまどろんでおります」
「あなたには、その姿が見えるかしら」「はい。
すべての場所が、わたしの場所でございますから」
「あなたは、その夢が好き」
「はい。たぶん」
二公主は、顔を見合わせた。
「香嶺様はいかが思われます」
「春黎様、それはずるうございましょう。 あなたのお考えからお聞かせくだざい」「夢は、魂のイメージですわね」
「なら、よろしゅうございますね」
二公主は、ソファから立ち上がり、ゆっくりとわたしのほうに歩いてきた。
「シリン、あなたは、あなたの名をお捨てなさい」
二公主は、わたしの背後に立った。
丁寧に洗われ、乾かされたわたしの髪が、ふたりのどちらかの手によって梳かれはじめた。
「マーティフェレス、鋏を」
中まで届く長さのそれを、切りはじめた。 髪以外の何か、別のものが、鋏が一度鳴るごとに、断ち切れてゆくのを感じた。
「あなたは、わたしたちの一人となる。
ゆえに、あなたの事を、忘れなさい」
髪が、少年のように短くなった。
そして、化粧が施された。頬と目尻に紅粉をはたき、そしてアイラインがくっきりと描かれた。
二公主は、わたしを立たせると、わたしのローブを取って、自分たちと同じような衣装をわたしに着せた。
そして、最後の仕上げに、黒公主香嶺女皇が、わたしの前に立ち、胸元よりわたしのルージュを取り出した。まだラッピングされたままのそれを、彼女は解き、そしてスティックのキャップをはずした。
ローズ系のそのレッドは、わたしの普段着ている白いスーツに似合いそうな色だった。 それも、誰かの夢の色だ。
頭に、いくつもの宝石を飾り、そして、最後に灰紫色の上着を掛けた。
「あなたに、新しい名前を差し上げましょう」
「灰公主紫麟女皇、紫麟があなたの新しい名」
わたしは、その名を口にした。
香嶺様の思いが、わたしに触れた。
春黎様の思いが、わたしに触れた。
二公主の記憶が、わたしの前に現れた。
世界の歴史が、わたしの中にこぼれて、その長い物語が、瞬時にわたしの頭の中に再生された。
優しい物語。
この世に悲しみをもたらした者の魂さえ、愛しい形をしている。
わたしのまわりに、星のきらめく幻影が生じた。星の海のなかを、二公主に導かれて、時の長さをもたない旅をしていた。
大きな牡丹の花が見えてきた。
とても壮大な大きさで、それは、そのそばに輝く渦状の銀河と同じ大きさだった。
「美しいでしょう、この赤い花は」
香嶺様の声であった。
その牡丹の花は、中心になるほどに黄色くて、外側になるほど赤い。そして、花弁の一枚一枚も、黄色から赤へ、美しいグラデーションになっている。
「この花弁の、このあたりが、わたしたちの世界」
春黎様が、外側近くの花弁の一枚の、真ん中のあたりを指差した。
「この、一個の細胞の核が、わたしたちの太陽。そして、この花ひとつが、わたしたちの銀河」
わたしは、その花を知っていた。
「その花は、誰でも、持っているのよ」
「この世界に生まれ落ちるときに、命の証として、魂の中心に」
極大と極小。
大きさの概念と、広さの概念、そして、存在の概念。
それまでわたしの信じてきた世界さえも、夢の一部なのだと知った。




