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1 マーティの店(青界)


 

 

 渚に流れ着いたその『時間』は、『一九八七年』だった。

 なので、世界はその瞬間、一九八七年であることになった。

 

 マーティ・オズワルドのカフェで、わたしは初めてファザムに出会った。

 その最初の日、マーティのカフェでは、店の壁に取りつけられた大型のTVのフィールド・カラー・チェスの決勝トーナメントの行方を、店の客のほとんどが夢中で見入っていた。

 六色に塗り分けられた格子模様のなかを、選手はマーカーを追いながら走っている。マーカーで色のついた地面のその格子のヘソをタッチすると、その地面は白・黒に別れたチームのどちらかの色に変わり得点となる。もし、ペナルティが出たら、そのペナルティのランクに応じて、色を変えた格子の色が元にもどる。また、四方を同一チームの色で囲まれたら、そこはまた、そのチームの得点として色を変えることができる。制限時間までにどちらが多く自分の色に変化させたかが勝敗を決する。

 マーティは、カウンターでわたしのためにカクテルを作ってくれた。わたしの名前に因んで「シリンの夢」と名付けてくれたそのカクテルが、実は「シンガポール・スリング」という有名なものであることを知っていた。しかし、そんなことはどうでも良い。そのカクテルの名を「シリンの夢」としてメニューに書き加えてくれるマーティの性格が好きなので、だいたいはこの店に足が向いてしまうのだ。

「ところで、あの男の人、知ってる」

 馴染みの常連客がほとんどのその店の、新顔の青年を指さしてきいてみた。

「ご存じないんですか。さっき彼の荷物をお預かりしたのですが、その中に、<術士>の紋章が見えたんですけどね。

 以前、あの、市長さんがお見えになったときに、わたしに見せてくださったバッジと同じデザインだったと思うんですけど」

「あら、わたし、会ったことはないわよ。本物の<術士>なら、市議会の色術諮問委員会に出席しなければならないし、市長秘書のわたしが知らないはずはないわ」

「だったら、闇の<術士>でしょうかね。色術監視局に通報しなきゃ」

 青階の特例で、<術士>間の連絡仲介の仕事を委託されているマーティは、一般市民に極秘にされていることも、ある程度は知らされている。

「それなら、あなたに<術士>の荷物を預けたりはしないはずよ」

「それもそうですがね。でも<術士>に化けるなんて奴も信じられませんよ」

「あら、<術士>は特権階級よ。<術士>の特権を羨ましいと思ったことはないのかしら」

「この世界が、世間で云われるとおりに三重構造になっていて、そのそれぞれにわたしと同じ姿・形の人間が住んでいるっていうのはね、それはわかるんですが、それを実際に見るってのは気持ち悪いだけですよ。同じ顔が三つですよ、それも、全然別々の行動パターンだって云うじゃありませんか。これは不気味ですよ。

 世界を自由に行き来できる特権なんて、わたしには、まったく必要ありませんね。<術士>の皆さんのお話をうかがっているだけで、充分楽しんでいますよ。

 それに、<術士>になるためには、払う代償があまりに大きすぎる」

 マーティの云うことは、まあ一般の世間の人の共通の考えのようだ。世界の形は知っている。でも、それを実際に確認することは、この世界に生きる庶民にとっては、たいして意味もないだろう。

 でも、わたしは<術士>に憧れていた。それは小さな頃から夢に見るほどに強いものであり、それをたびたび口にしたが、そのたびに母親に嗜められた。そんな、なれもしないことに興味をもつより、わたしにはするべき事がたくさんあった。それに母は、<術士>というものを、まるでスパイか何かのように云うのだ。

 しかし、わたしの関心はもっぱら、他の階層の世界の事に向けられていた。世界の形や<術士>の仕事について記された書物は云うにおよばす、<術士>について書かれた冒険小説のたぐいまで読みあさったものだった。むろん、母への手前もあるので、図書館の中だけで閲覧するのにとどめ、自分でそれについての書物を買ったり、家に持って帰ったりというようなことは、市長の秘書になるまでまったくできなかった。

 そんな興味の根本は、じつのところは、他の世界のわたしはどのように暮らしており、どのような仕事をしているのだろうということだった。たぶん、こんなふうに、自分の嫌いなピアノを習わされることもないかもしれないし、それに、誰かにいい子って云ってもらいたくて何か良いことをするのではなく、自分がしたいから、するっていうふうに生きてみたいと思っていた。

 まだ幼いとき、わたしは母親に、そのことを話したことがあった。しかし、母親はそれには答えず、ただ不吉なことなのだと云うばかりであった。この世界の自分ではない、他の階層世界のわたしは、あくまでわたしの影であり、死んだ世界のわたしである、という母の考えは頑固で、そのような事を考えるのは、死にあこがれるのに等しいのだと、厳しく嗜めた。

 それでも、わたしはよく異世界の自分の夢を見た。その夢は、二つの異なる世界の設定で、それぞれに別のわたしが生活している。 ひとりの私は、大きな部屋に暮らし、ゆったりとした赤い高価な衣装を身にまとい、自動的に開く木作りの巨大な門から出入りする客を迎える。

 もうひとりのわたしは、少女で、貧しい身なりをして地下を流れる大きな河のほとりを歩いている。

 その二人は、果たして、わたしの別の階層世界に暮らすわたしなのだろうか。

 それとも、別の世界を夢みるあまりに見た妄想だろうか。

 <術士>というのは、強いイメージを持つ者だけに与えられる職業である。この階層世界の、それぞれの世界の形は、この<術士>によってイメージされている。

 この階層世界の形は、わたしが中学校で習ったかぎりでは、赤階・青階・黄階という、人と<術士>たちの住む三層の世界と、そして、この<術士>たちを総べる三帝王・三皇王が集う六色統合宮殿のある白階と、そして誰も住むことのできない黒階という、合わせて五層の世界から構成されているという。

 <術士>の他には、まったく世界の形を知らされていない黄階においては、人々は世界を三つの階層から成るとは考えることもできず、ただ、白階を天国、そして黒階を地獄と呼ぶのだそうだ。そして、人が死ねば、そのどちらかに行くと信じている。

 <術士>となるためには、ごく幼い頃に、白階の宮殿で選抜され、それから本人のみに知らされる。そして、その子供につけられる予定の師匠となる首席の赤階術士によってが世界の形の話を聞き、役割の話を聞き、その子がそれを受け入れたときに、階層世界の管理をつかさどる赤階に暮らす、それぞれの色の名を持つしかるべき<術士>の弟子となるのだという。

 わたしは、その迎えを待っていた。

 いずれ、来るものと夢見ていた。

 しかし、わたしのイメージの力は人並みだったせいか、わたしにはついにその迎えがこなかった。

 しかし、夢は見てみるもので、短大を卒業した頃に、市の行政局から、市長の秘書のポストが空席なので、ぜひ、市の職員試験を受けてくれという依頼があった。

 わたしは、厳しい母のおかげて、最近の女性にしては、ひととおりのお作法をきちんとした先生について学ばされ、ワープロやパソコンもお免状をいただいていた。市長の秘書としては、そのような人材がぜひ必要なのだという。

 わたしは、その市長の秘書なる仕事の中身をまったく知らされず、母の勧めに従って受験した。それが、じつは、<術士>たちの補佐的業務を行う者を選ぶ試験であることを知ったのは、試験が中盤を過ぎたころだった。 「いつも見る夢のなかに、異なる階層の夢と思われるものがあれは、それを、夢の中のストーリーに忠実に文にまとめなさい」

 という問題を見て、わたしは、夢がかなうと直感したのだ。

 筆記テストに合格し、そして市長みずからの行う面接の後、その場で採用が決められ、それから市長は、自分の正式な身分を明らかにした。

 市長というポストが、この世界においての役割と名称あって、その実が、この青階を司る藍玲帝王陛下であるということを。

 そして、わたしはその秘書として、通常の市長の業務をするにあたってのお手伝いに加えて、この青階で勤務する術士たちの会議室を管理し、会議の進行を記録する役割を与えられた。

 

 かの、新顔の青年が、わたしのほうにやってきた。そして、隣の席に座ると、わたしに話しかけてきた。

「あなたが、シリンさん」

「ええ、よくご存じね」

「さっき、赤階から降りてきたところなんだ。

 市長さんは、残業していたよ」

「新顔の、<術士>さん?」

「青のファザムといいます。このたび、黄階術士から昇進辞令を受けて、この青階に赴任してきたのです。

 藍玲帝王陛下が、おっしゃっていました。 わたしの可愛い秘書に会っておいでと」 それ以来、わたしたちは恋人とも友人ともつかぬ関係を、二年ほど続けている。

 

 週末の午後、毎週市長は術士諮問委員会を招集する。その日も、わたしは資料をコピーし、冊子に綴って席に配ってまわった。昼休み直後の術士専用会議室は、しんとして、静か。いつも、埃ひとつないように掃除がゆきとどいたこの部屋は、全体が白で、テーブルはモノトーンの大理石を使っている。色術というのは、ここが大切なのだ。埃と、色そのものが大敵である。

 飲み物をセットするために、一度キッチンのほうに行き、じきに戻ってみた。

 すると、妙な感じにとらわれた。部屋が少しおかしい。何も無駄なものがないはずの、その部屋のなかに、違うものがある。

 窓のそとから、ブラインド越しに、陽光がもれていた。その陽光に、シルエットをつくるのは、一輪の花。真紅の花弁をした小さな蘭が、細身の花瓶に差してある。

 わたしは、ぼうぜんと立ち尽くしてしまった。どうしても、動くことができないのだ。 その花の色は、わたしの夢の深いところに咲く花の色だ。きれいな色をしていた。

 しかし、片付けなくてならない。

「シリンさん。お花、あの位置でいいですよね。この部屋、殺風景なんで、飾ってみたんですけど」

 市役所に入りたての、秘書室の若いアシスタントの女の子だった。

「この部屋には、<色>を持ち込んではいけないのよ。他の部屋ならありがたいことだけど、この部屋に限ってはそういう決まりなの。

 それから、この部屋に出入りするのはわたしが指示した時だけにして。服の色も、白、ないしはアイボリー、そして黒以外は避けるようにね」

「どうしてですか」

「この部屋は、市長の特別な部屋だから。それ以外は機密事項に関することなの。あなたにはまだ話すことはできないわ。

 とにかく、それを守ってね」

「はい」

 彼女は、少し不満げな態度でそう返事をした。

 彼女は、秘書室に入って間もない。だが、わたしのように、最初から<術士>のことや世界のことなどの機密事項を知らされるわけではない。市長の話によれば、わたしほど強いイメージを持っているほうが特殊なのだそうだ。

 彼女は、こんなふうに、わたしの下で働いてしばらく素質を見たあと、それがレベルに達していないようなら、他の部門に配置がえになるだろう。

「もう時間がないから、急いで。

 それは、とてもきれいなお花だから、応接室に飾りましょう。持って行ってちょうだいね。

 それから、戻ってくるときに、キッチンに飲み物が用意してあるから、それを取ってきてちょうだい」

 わたしは、その花が視界から消えたことで再び動くことができた。

 わたしの中で、カチリと音がして何かのスイッチが入ったようだった。その事で、何かが変わってしまったようなのだが、それが何なのかは、わたしにはわからない。ただ、気分が、あの花を見るまでの気分とは、一転してしまったことだけは確かである。

 彼女と、セッティングを済ませてから、わたしは彼女をオフィスに帰し、そして部屋に鍵をかけた。誰も入ることがないように。

 間もなく、<術士>たちが、この部屋に集まるはずである。

 ひとまずオフィスに戻る途中、わたしは軽い頭痛をおぼえた。風邪かもしれない、と、そう思ったのだが、その痛みは、遠い記憶への郷愁をともなっているようにも思えた。映像としての記憶に残らなかった、失われた記憶という部分を、見てみたいとぼんやりと思った。

 

 

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