11 ルージュ(青 界)
わたしが目覚めたとき、ゼルダがそばにいた。
「気分はいかが」
頭がぼんやりとしたままだった。
「今のところの会議は終わったわ。そのあいだ、あなたは重要参考人で本来は会議の席に出なければならなかったのだけど、注射した精神安定剤が効き過ぎたようね」
「ええ、まだ少し変な気分です」
「わたしは、事件とあなたとは、直接関係していないと思っているのです。が、ランデイ師は責任感のおありになる方だから、少しばかり尋問の内容が行き過ぎていることもあるでしょうが、耐えてくださいね」
ゼルダ師のもののおっしゃりようは、いつも柔らかである。
「ところで、たった今はいった知らせですがこの階においてのファザムの部屋が何者かによって爆破されたのです。ローズマンションの、ね。
あなたは、彼の部屋の上にお住まいだったでしょう。残念ながら、あなたの部屋も爆風で床が抜けて使い物になりません。
今、警察が捜索していますが、見つかった貴重品などは、とりあえず警察で預かって、それからこちらのほうにリストが送られてくることになっていますけど、特になにか必要なもの、貴重なものや、大切なものがあれば云ってくださいね」
はっきりとしないわたしの頭は、知らされたその事を理解するまでにしばらくの時間を必要とした。
「ルージュを」
「ルージュ?」
「ヴァレンチノ・ロンバディのルージュをもって来てください。ベッドルームの、ドレッサーの引き出しに入っていますから」
「寝室のほうは被害が少なかったようね。たぶん大丈夫だと思うわ。
それだけでいいの」
わたしには、それだけしか要らないように思えた。どんどん、失われていく。わたしのまわりのものが。ファザム、市長、そして、わたしの部屋。
壊れていくようだった。今のこの市庁舎の壁が、ガラガラと崩れて…。
「とりあえず、当座の衣類とか、身の回りのものはもってこさせるように手配はしてありますから」
ゼルダは、現実の変化のスピードに順応できないでいるわたしの、先を読んでそう云った。
「お・ねがいし・ま・す」
わたしの言葉は、切れぎれだった。
「大丈夫。
みんな忙しいし、次々と事件が起こるのでしばらくは、あなたへの尋問なんて始められる状態じゃないわ。
もうしばらくしたら、食事をとどけますから、それを食べて、また休むといいわ。もう夕方だから」
ゼルダは、そう云って微笑んだ。
薬のせいか、わたしの頭の中は、また眠りの淵に引き込まれていった。
その日曜の午後、わたしが目をさますと、キッチンからいい匂いがしていた。それに、カイザーワルツの調べ。気分はだいぶ良くなっていたが、身体に淀んでいる疲労で、手足が鉛のようだった。ベッドから這い出て、寝間着がわりの丈の長い木綿のシャツの上からガウンを羽織っていると、キッチンからファザムが顔を出した。
「どう、具合は」
「うん、大分いいみたい。何してるの」
「今朝、本屋に行ったら何となく料理の本買っちまってね、ついでに作ってるんだ。ぼくの部屋じゃ、道具も調味料も揃ってないから、キッチン、借りたよ。
食べるんなら、すぐ用意できるけど」
「メニューは」
「ブロッコリーのクラムチャウダー、チキンのコンソメゼリー、小海老のバケット詰めミニグラタン、子牛のメダイヨン和風ソース添え、レアチーズケーキ・エバミルクソース添え。以上」
「それで、どれを自分で作ったの」
「クラムチャウダーとミニグラタン。他のは、電話を入れたら、すぐマーティが届けてくれる手筈さ。
そろそろグラタン、出来た頃かな。テーブルについて待っててよ」
ファザムは、キッチンに引っ込んだが、わたしはベッドの端に腰掛けたまま、しばらく動く気になれなかった。
「早くおいで」
「待って、せっかくだから、ましな服に着替えてからいただくわ」
「そのままでいいよ。チーズが固まるから早く」
「でも、せっかくあなたが一生懸命作ったのに、みっともない格好はできないわ」
「ぼくがいいって言ってるから、いいんだよ。料理が冷めるほうが、よっぽど失礼だと思わないか、シリン」
ファザムは、少しムッとしていた。
「…シリンさん、お食事、冷めますよ」
医務室の看護婦が、揺り起こす声で目覚めた。
「食欲がなくても、スープだけでも召し上がらなくては」
また、うとうとしていたようだ。
夢を見ていた。
彼の夢だ。
「身の回りのものが届いています。そこのバッグに。また何かあったら、知らせてください。わたしは、今夜、ここに詰めていますから」
後輩の女の子が届けたと思われるバッグの中には、下着類と、化粧品と、着衣がひとそろいと、そしてあのルージュが、その中に入っていた。まだ封も切っていない小さな箱に入ったそのルージュは、この前、ファザムよりプレゼントされたものだった。
なぜ、封を切らなかったのか。そのプレゼントが、それまでのふたりの関係にとっては異質のものだから。
ファザムとわたしの関係。もちろんいい歳をした男女が、ただの友人だったなどと云うつもりはないが、すくなくとも、その延長線ののものであったのは確かだ。
ルージュ。
そのプレゼントの意味が、わたしにはどうしようもなく、重いものに感じた。だから、ホテルのショップで選んでもらったその包みの封を切ることさえためらわれたのだ。
彼は、そのとき、友人よりも、ひとりの女が欲しかったのかもしれない。
なら、いっそ返せばよかったのに、それもできないでいる。明日、明日、そのうちにとためらい続けられたのは、まだ未来があると信じられた結果である。
しかし、もう、応えようもない。もう、明日などないのだから。
涙が、突然、湧き出してきた。
後悔なのか、悲しみなのか、たぶんどちらでもあるまい。わたしが喪ったのは、彼への回答だ。ファザムにとってのわたしがルージュなら、わたしにとってのファザムは……。砂丘のイメージが、頭の中に広がる。わたしの涙を吸って渇く、それがわたしの思いなのだろうか。
あの日の夢を見たあとだからだ。
あの日、グラタンのことでささいな喧嘩をしたあとで、結局、わたしが豪勢にドレスアップして、喧嘩の間に冷めてしまったグラタンを電子レンジで温めて食べたあと、マーティの経営するもう一軒のレストランに行き、たらふく食べて和解した。
そしてそのあと愛しあった。彼の部屋で。
翌朝早く。ファザムはわたしが眠っているつもりで、先にベッドから出て、裸のまま戸棚からバスタオルを出してシャワールームに入った。そのとき、わたしは目を開けて、その様子を見ていた。だいぶ明るくなってきた部屋のなかで、起立した彼とその姿がとてもきれいだと感じたのを覚えている。




