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届けが受理されるなり、アンダーソン公爵家は大々的に婚約解消を周知した。
公爵夫人への切符を失うばかりか、この年齢で結婚相手がいなくなったタチアナは、自らの正当性を示そうとレストランでの一件を触れ回った。
奇しくも十五年前に彼女の父親がしたのと同じような行動である。
だが過去とは違い、今回周囲の反応は冷ややかだった。
「なぜアンダーソン閣下がそんなことを?」
「わたしを独占したいからよ!」
「まさかご自分が愛されているとでも?」
「そうよ!」
ぷっ。
どこからともなく噴き出す音がした。
続くようにクスクスと嘲笑がさざ波のように広がる。
「なんで笑うのよ!」
「あのお方が義務であなたを娶ろうとされていたのは、皆の知るところですもの」
「ええ。あんな不幸な事故がなければ、あなたなんて隣に立つことすら許されませんわ」
「ああ、勘違いしないでくださいましね。不幸というのは、公爵閣下にとってという意味ですから」
セオドアは婚約者としての義務をかかさなかった。
求められれば頻繁にタチアナをデートに連れて行ったが、いつも無表情で淡々としていた。彼が望んでしたことではないのは傍目にも明らかだった。
「きっかけなんて関係ないわ。あの男はわたしのことが好きで、おかしくなっちゃったのよ。だから身を守るために婚約解消したの!」
「あらそう」
「口先だけなら、なんとでも言えますわね」
「よしんばあなたの仰ることが本当だとしても、わたくしならそれくらいで婚約解消したりはしないわ」
「ええ。ご両親に甘やかされすぎて、堪え性がないのではなくて?」
「こんな短慮な方が、公爵家の夫人にならなくて安心いたしましたわ」
タチアナを取り囲んだ貴婦人たちは、ここぞとばかりに攻撃した。
身の程知らずの男爵令嬢が、卑怯な手段で自分達の上に立とうといていたことに憤慨していたのは一人や二人ではない。
しかもセオドアの妻として相応しくあろうと、健気に努力していたならまだしもタチアナの場合は公爵家の権力や資産を我が物のように振る舞っていた。
鼻持ちならならない女が自ら転落したのだ。叩かない理由はない。
「セオドア! わたしを愛してるって、この人たちに言ってやって!」
どんな神経をしていたら相手が応じると思えるのか、タチアナは騒ぎを聞きつけて近づいてきたセオドアに縋った。
いつものようにその体に触れようとしたが、アレイスター夫人が身をていして防いた。
息子のジャスティンも側にいたが、むやみに女性の体に触れたら別の問題が起きる。自分からは触れないという意思表示のために体の後ろで手を組むと、セオドアを庇うように立った。
「……残念だ、ギルスタン男爵令嬢」
重々しく告げられた言葉に、タチアナの動きが止まる。
周囲も固唾を呑んでなりゆきに耳をそばだてた。
「俺達の婚約は感情ではなく、責任で結ばれたものだった……。きっかけはどうであれ、俺は君に償うことに徹していたというのに。……君は自分の一存で契約を破棄しただけでなく、俺の名誉に傷をつけようというのか」
苦悶の表情を浮かべて、セオドアは絞り出すように言った。
ゆっくりと語られた言葉は、ヒートアップしていた場に理性を取り戻した。
「ええ。誠実な閣下が感情を排して義務を果たされておいでだったのは、皆様もごぞんじでしょう? どこを見たら、恋慕だの加害だのと言えるのかしら」
アレイスター夫人が一歩前に出て、周囲に語りかけた。
「なによそれ!? ――騙したわね!」
先日の話を全否定されて、自分が嵌められたことに気づいた彼女は気色ばんだ。
「わたしと婚約解消するために仕組んだわね! 卑怯者!」
「聞き捨てなりませんね。どうして閣下が婚約解消しようとするのでしょうか?」
「わたしと結婚したくないからよ!」
「先ほどまで愛されすぎて怖くなったと言ってませんでしたか? 無茶苦茶ですね。あなたこそ頭がおかしいのでは?」
母親に続き、ジャスティンがタチアナの支離滅裂さを批難した。
「騙されたんだから、婚約解消は無効よ!」
「……話にならないな。俺は君の望みに沿って行動していた。婚約解消にしてもそうだ」
「そうですよ。閣下があなたを騙してでも……手段を選ばず婚約解消するような方であれば、もっと早くに実現していました。十五年間も無駄にする必要はなかったんです」
主従が一刀両断すると、周囲も「その通りだ」と頷いた。
正直なところ貴族たちにとって、真実などどちらでも構わなかった。
大事なのはセオドアの婚約者が不在になったこと。
降ってわいたチャンスを見逃すような間抜けはいない。
セオドアは責任を取ろうとしたが、タチアナが拒否した。
それがすべてだ。
「解消届には、婚約解消の理由について口外しないという文言があったはずだ。君のための条件だったのに、なぜ無駄にするような行動をしたのか理解に苦しむ……」
セオドアは暗にタチアナに原因があると告げた。
厳しい表情から、周囲は不義理をされてなお元婚約者に対して配慮しているのだと察した。
「現在進行形で名誉毀損もしていますよ。違約金と慰謝料……相当な金額になりますね、男爵家に払いきれるでしょうか」
「おっ、お待ちください!」
会場中の視線を集めている場所に飛び込むことができなかった男爵が声を上げた。
「娘は錯乱しているのです。どうか大目にみていただけませんか」
「世の中には安易に許してはいけないことがあります。この件がまさにそうです」
言葉を交わす価値すらないと考えたのか、セオドアは男爵を一瞥しただけだった。代わりにジャスティンが言い放つ。
「閣下の妻になると信じて生きてきた娘が、その道を絶たれたのです。長年共に過ごしてきた仲ではありませんか、なにとぞ――」
「それを捨てたのはご息女ではありませんか」
「お前らが嵌めたからだろ!」
アレイスター夫人を押しのけてタチアナが叫んだ瞬間、「まあ、怖い」と鈴を振ったような声が響いた。
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