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レディ・チャンドラーは悪女であった  作者:
第一章 ミスター・アンダーソン
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8

「あとは彼がうまく誘導してくれるでしょ」


 ドジっ子助手改めアイリーンは、顔を覆っていた布を取り去った。


「力の強いお嬢ちゃんだったわね」

「年寄りでも必死になりゃあれくらいは抵抗するわよ」


 タチアナを取り押さえていたのは、女傭兵の二人組だ。

 火事場の馬鹿力という言葉があるくらいだし、不測の事態に備えて看護師ではなく、その道のプロを雇ったのだ。


「わたしはお芝居の経験がないので、肝が冷えました。こういったことは、これきりにしてもらいたいものですね」


 公爵家お抱えの女医が、ふーと息を吐いた。

 持参した道具はすべて本物。ただし麻酔だけは生理食塩水と中身を入れ替えている。


「本人の手で最後まで手続きしてもらうのが理想だけど、署名さえすればこちらのものよ」


 公証人の男は勿論仕込み。今ごろ「巻き込まれた部外者だけど、良心の呵責に耐えかねて君を連れ出した」とタチアナに説明している頃だろう。

 たとえ頭が冷えて提出を踏みとどまったとしても、「安全な場所に保管する」と言って書類を預かってしまえばいい。


「本当にうまくいくんですかね」


 今のところアイリーンの脚本通りにことが進んでいるが、ジャスティンは不安が拭えなかった。


 タチアナを嵌めることくらいは彼も前々から考えていた。考えるだけでなく、実際にやったこともある。

 幾度となくハニートラップを仕掛けたが、不貞が唯一残された婚約破棄の道だと理解していたタチアナは引っかからなかった。

 いっそのこと亡き者にしたり、表に出られないような体にしてしまおうかと考えたこともあったが、彼の主人がその行動を是としないとわかっていたので踏みとどまった。


 自分の一存でやったことにすれば、セオドアに罪はない。

 だが社会的に許されてたとしても、セオドアの心に深い傷をつけることになる。

 主人がどんな男かわかっているが故に、ジャスティンは一線を越えられなかった。


「彼女には、彼が頼もしい王子様に見えているはずよ。生命の危機にさらされた興奮も相まって、冷静な思考はできないでしょう」


 過去に試したことで男の好みはわかっていたので、条件に合致する公証人を探すのには苦労しなかった。


「このまま退散すればそれでよしだけど。まあ十中八九、足掻くでしょうね」

「どんな形で抵抗するか、皆目見当つかないんですが」


 顔を曇らせるジャスティンとは対照的に、アイリーンは余裕の笑みを浮かべた。


「最終的な目的が何であれ、まず今日のできごとを暴露して公爵様を悪役にするはずだから、その時点でチェックメイトよ」

「なぜ言い切れるんですか?」

「新しいお相手を探すなら、自分に瑕疵はないとアピールするために。再婚約が狙いなら、世論を味方にして危害を加えられないよう条件を追加するために……どちらにせよ、持ち去った書類に書かれている『婚約破棄の理由を口外しない』『婚約解消後にお互いの名誉を毀損しない』に抵触するのよ」

「ああ、なるほど……」


 なんてことのない文章だが、違反する前提の罠だ。

 違約金の額は、公爵家のスケールで書かれている。

 セオドアからすれば大したことない額だが、男爵家の財政だと今まで彼が買い与えたものをすべて売っても足りないだろう。


「後顧の憂いを断つまでが仕事のうちよ。公爵様の人生から彼女を完全排除するために、次のステップの準備をーー聞いてる?」

「怖かった。まさか貴族令嬢が、あんな言葉遣いをするなんて……」


 アイリーンが固まっているセオドアの背中を突くと、ぽつりと呟いた。

 相変わらずキリリとした目つきだが、その瞳にはうっすら涙の膜が張っている。


「私には、あなたの顔の方が怖かったわよ」

「閣下も演劇の経験はございませんし、ぶっつけ本番です。全身に力が入ってしまうのは致し方ないかと」

「それでブルブル震えて、どもってたのね。どちらもいい味だしてたから結果オーライよ。案外才能あるんじゃない?」

「ええ、迫真の演技でした」


 側で見ていた女医も同意した。

 公爵は二十代とは思えないくらい貫禄があるので、思わず本気にしてしまいそうな迫力だった。


「そ、そうだろうか?」

「真に受けないでください!」


 少しうれしそうな顔をした主人を、ジャスティンは窘めた。



 公証人に誘導されたタチアナが店を出たその足で手続きしたことで、二人の婚約は速やかに解消された。

 娘が勝手にしたことだと男爵が訴えてきたが、親の庇護下にあるとはいえタチアナは法的に責任能力があるとされる年齢。

 親であっても、正式な手続きを踏んで受理された書類を撤回することはできなかった。


「期待通りの行動ね」


 幅広い階級の貴族が集まる夜会にて、アイリーンは誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

 今日の彼女はパステルピンクのドレスに身を包み、細いシャンパングラスに唇を寄せていた。手ぶらでいられないのでグラスを手にしているだけで、泡立つ液体を飲むつもりはない。


「アイリーン、なにを見ているんだい?」


 取り巻きのひとりが彼女の顔を覗き込んだ。


「君の視線を独占するなんて妬けるな」

「勘違いしないで。ずいぶん盛り上がってらっしゃるな、と思っただけよ」

「……ああ、ギルスタン男爵令嬢か」


 その声には嘲りが含まれている。


「面白そうだから、どんな話をしているのか聞きにいかない?」


 可憐な見た目とは裏腹な、悪趣味な提案。

 他人の不幸に舌なめずりするような笑みを浮かべた彼女は、ぞくぞくするほど蠱惑的だ。

 その色香にあてられた男たちは、二つ返事で了承した。

お読みいただきありがとうございます!

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