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「アレイスター夫人……。ご無沙汰しております」
「ええ、お久しぶりね。ところでうちのジャスティンは一緒ではないの?」
アレイスター夫人――彼女はジャスティンの母親であり、再婚後に子爵夫人となった人物だ。
「外せない用事があり、今日は欠席すると言っていましたが」
「あの子、逃げたわね」
アレイスター夫人は、騎士爵の娘だった。駆け落ち同然で結婚した夫に先立たれ、実家に戻れず住み込みの乳母として公爵家で雇われた。
女手一つでジャスティンを育てていたが、公爵家に出入りしていた子爵に見初められて再婚したのが十年前。
アレイスター家は夫人と子爵の間に生まれた子供が継ぐことになっているが、連れ子のジャスティンにも子爵家の籍が与えられている。
これ以上親の都合で振り回すのは、と自由にさせていたものの、いい歳になっても婚約者どころか恋人の気配すらない息子に夫人が限界を迎えたのが三年前。
それ以降、親子の間では静かな攻防が続いていた。
今日の夜会にアレイスター夫人が出席するとは聞いていなかったが、逃げ回る息子を捕まえようと隠していたのだろう。
だが今夜は「欠席の確証がない限り、出席する可能性がある」と、読んだジャスティンの勝ちだった。
「紹介したいお嬢さんがいたのに残念だわ」
ちらりと見られて、セオドアは「ご令嬢のお名前をお聞かせ願えますか。伝えておきます」と答えた。
セオドアがアレイスター夫人と話している間、タチアナは面白くなさそうな顔で会話に入ってこなかった。
弱みにつけ込む形で婚約し、セオドアを振り回し続ける彼女をジャスティンは嫌っている。
アレイスター夫人も抱く感情は息子と同じなので、あからさまに冷たくしたりはしないが、さりとてタチアナに笑顔で話を振ったりもしない。
アレイスター親子はタチアナの天敵だった。
「……ねえ、もういいでしょ。行きましょうよ」
焦れたタチアナが口を尖らせる。
本来であれば手は添えるだけなのだが、その細い指をセオドアの腕に食い込ませて強引に引っぱった。
「ごめんなさいね。でも息子の雇用主様に、今後の予定をお話したいの」
「そういう話は機会を改めてくれません? 常識ないんですか?」
「常識があるから、お忙しい閣下のお手間を省くために今ここで終わらせるのよ。お嬢さん」
「ッ! セオドア! わたしと、このオバさんどっちが大事なの?」
「あらまあ。こんな場所で声を荒げるなんて驚いたこと。お友達がびっくりした顔で見ているわよ、ほらあそこ」
アレイスター夫人が扇で指し示した先には、タチアナと同年代の令嬢たちがいた。
見知った顔もちらほらいる。
夫人とタチアナと目が合ったことで呼ばれたと思ったのか、彼女たちが近づいてきた。
「ギルスタン男爵令嬢、こんばんは。素敵なお召し物ですね」
「アクセサリーもすごいですわ。もしかしてあのお店の新作ですの?」
タチアナの表情がまんざらでもないものに変わったことに、セオドアは肩の力を抜いた。
「若い人が盛り上がるのを邪魔したら悪いわね。閣下、わたくしたちは少し離れましょうか」
婚約者の前ではしにくい話もある。友人に色々と自慢したくてたまらなくなったタチアナは、さっさと行ってとばかりに二人を送り出した。
*
「夫人。ジャスティンのことですが、彼は自立した大人です。本人の自由にさせてやることはできませんか」
バルコニーに移動したセオドアは、思い切って夫人に直談判した。
公爵という身分ではあるが、二人の伝書鳩になることは気にしない。
だがセオドア自身が己の意思とは関係なく縛られているからこそ、何のしがらみもないジャスティンには自分で未来を選んでほしかった。
「ふふっ。本当に閣下は心根の優しい御仁でいらっしゃる。息子のことが心配なのは本心ですが、あのお嬢さんの前で言ったのは方便です。ほんの少しの時間ですが、閣下に一人の時間を過ごしていただきたかったのよ」
タチアナを引き剥がすための嘘だ、とアレイスター夫人は微笑んだ。
「また歯を食いしばって。頬の内側に痕がついているのではありませんか?」
セオドアの乳母は、軽く自らの頬を指で突いてみせた。
「わたくしは先に会場に戻ります。人が入ってこないように目を光らせますので、ゆっくりなさってください」
*
アレイスター夫人の言葉に甘え、セオドアはひとり夜空を見上げた。
背後にある会場からの光が強くて、星は見えない。
大きな満月だけが、かき消されることなく存在を示している。
「疲れた……」
身も心も疲れ切っていた。
「こんな日が死ぬまで続くのか……?」
このままタチアナと結婚したら、今のような毎日が一生続くのか。
しかしあのタチアナが結婚後も同じ調子でいるだろうか。妻になり、母になったらもっと恐ろしい状態になるのではないか。想像するだけでくらりと眩暈がした。
「お困りのようね」
「!?」
誰もいないはずの場所から声をかけられ、慌てて振り向くとそこには天上にあったはずの月がいた。
(違う、落ち着け。相手は人間だ)
空に浮かぶ月とそっくりな淡い金髪、東方由来の陶器のような白い肌、神秘的な紫水晶の瞳。
けぶるような睫に縁取られた、大きな瞳がことさら印象的な美少女だ。
いたずらな瞳は、いきいきとした生命力に溢れている――セオドアとは正反対だ。
紺色のドレスを着ているので、闇に紛れて先客に気づかなかったのだろう。
「セオドア・アンダーソン。金貨30枚であなたを自由にしてあげる」
そう告げると月の精はスッと手を差し出した。
淑女がエスコートを求める動きではなく、掌を上にして。
年下の少女だというのにやけに力強く、大きく見える。
その手を取るか。見なかったことにするか。
選択肢は二つ。
見ず知らずの相手からの唐突な提案だ。
考えるまでもないことなのに、気がついたらセオドアは彼女の華奢な手に己の無骨な手を重ねていた。
アイリーン「代金要求したらお手された」