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新たな縁談

私がフィリア・ファルクナーになったこと、ここが以前に読んだ小説<愛しい聖女様>の世界であることに気づくまでに、さほど時間はかからなかった。


なんせ、あの恐ろしい父親と執着系サイコパスの兄がいたからだ。


この小説<愛しい聖女様>の内容は、皇帝の弟であるシオン・フォン・ランスロットと聖女イリスとの純愛の物語である。


その小説の中で、フィリア・ファルクナーは侯爵家の一人娘……正確には、フィリアは元々孤児であり、ファルクナー家に引き取られた養女である。


フィリアがファルクナー侯爵家に引き取られたのは、その容姿の美しさに利用価値があると判断されたからだった。この事実を知っているのは、ファルクナー侯爵家の人間と昔からいる使用人たちだけだ。


養子になってからというもの、厳格な養父と異常なまでに彼女に執着している義兄から虐待を受ける日々。養母はフィリアに全くもって無関心だった。


フィリア・ファルクナーの異名は”ファルクナー家の麗しのテオフィラ”だ。

どうやら周囲には、私が家族にも神にも愛されたとても幸福な女性に見えるらしかった。


それもそのはずだ。

養父も義兄も外面が抜群にいい。


特に、ルーカスと私の仲睦まじい姿は、それはそれは神々しく映るらしい。

大変不名誉なことだ。


ーー朝食の席。


柔らかな光を落とす大広間で、父クラウディオが静かに口を開いた。


「フィリア、次の縁談が決まった。相手はシオン・フォン・ランスロット公爵だ。喜べ、帝国の英雄だぞ」


一瞬、時が止まったように感じる。


原作の記憶がよみがえる。シオンは聖女イリスに心を奪われる運命。

そして私は…‥この縁談が、命の危険につながることを知っていた。


手のひらに汗が滲み、息が乱れる。

パニック症の症状が、私の心を支配しそうになる。

しかし、表情には平静を装った。


「わかりました、お父様」


「今回は倒れでもしたら許さないぞ」


前回の縁談のことをまだ根に持っているようだ。


(めんどくさい)


「ええ、わかっています。お父様」


ルーカスが私をじっと見つめる。嫉妬と独占欲に満ちた視線。


咄嗟に目を逸らしてしまった。


(あ……まずい。この後、殴られるな……)


そう瞬時に理解した。


***


ーー朝食後、フィリアの自室。


「フィリア、こっちへおいで」


ルーカスの指が椅子の背を優雅に叩く。

淡々とした声色だが、命令であることは明白だった。


(やっと気の重い朝食が終わったと思ったのに・・・)


フィリアは抵抗の素振りを見せず、静かに彼の隣へ歩み寄った。


ルーカスが近くにいればいるほど、背後に扉があっても、それが遠のいていくような錯覚に陥る。

見えない鎖が足首に絡みつき、ひきずられていく感覚。


《パシーン!!!》


思い切り頬を叩かれた。


(いったぁーーーい!!何なのよ!!!)


「…」


心の声とは裏腹に、フィリアは言葉が出ない。


「座りなさい」


従わなければ、どうなるか分かっていた。


「……はい、お兄様」


フィリアは微笑みながら、ルーカスの隣の椅子に腰を下ろした。


「いい子だ…。なぜ縁談を断らなかった?」


「それは……お父様が……持ってきてくださった……縁談……だから……」


その瞬間、ルーカスの手がフィリアの頬に触れた。

氷のように冷たい指先が、彼女の頬をゆっくりと撫でる。


「お前の肌は、まるで雪のようだ。白くて、柔らかくて……」


「……お兄様?」


フィリアは努めて自然な笑顔を保った。

だが、喉の奥が強張り、冷たい汗が背中を伝う。


ルーカスの瞳が、まるで心の奥底を覗き込むように細められる。

視線は柔らかく見えて、逃げ道を一つ残らず塞ぐ鋼の網のようだ。


(あぁ……また息が苦しくなってきた……)


フィリアは以前の人生と同じ病を抱えていた。


ーーパニック障害だ。


精神的に追い詰められると制御できない息苦しさと、まるで海の底に沈められたかのような感覚に陥る。

この発作の嫌なところは、もう死んでしまうのではないかと思えるほど苦しいのに、死ねないところだ。


以前の人生では、不安なことや緊張する場面では頻繁に発作が起きていた。

だが、治療を受ける余裕などあるわけもなく、母にも相談したことなどなかった。いや、できなかった。

誰にも相談できない……そのことがさらに自分自身を不安の中に追い込んだのだった。


幸い、発作の前には予兆があったため、人前で取り乱すことは避けられた。

だが――この世界に転生しても、呪いのように発作はしぶとくつきまとった。


ルーカスの指が頬から首筋へと滑る。

細い指先が、耳の下の脈打つ場所でわずかに止まった。


「……鼓動が早いな」


吐息が肌をかすめ、全身が竦む。

見えない檻の中で、小さく震える自分を自覚するたび、さらに呼吸が乱れる。


(やだ……また来る……)


胸の奥に冷たい針が刺さる。

視界がにじみ、空気が薄くなった。

脳が酸素を求めて必死に警鐘を鳴らすのに、息ができない。


「フィリア?」


ルーカスの声が遠く響く。

触れている指先の冷たさだけが、異様に鮮明だった。

このまま顔色が変われば、異常に気づかれる――そう思った瞬間、フィリアは笑みをさらに深く作った。


「……すみません、お兄様。少し緊張してしまって」


「緊張?」


本当は叩かれるかもしれないという緊張だが、ここは演技力の見せ所である。


「はい。……ランスロット公爵家との婚約のお話…まだ心の準備が……」


ルーカスの瞳が、氷よりも冷たく細められる。

その奥に、探針のような光が潜んだ。


「そうか。大丈夫だ、フィリア。お前を守れるのは俺だけだ。お前はまた必ず、この兄の元に戻ってくることになるだろう。それまで耐えるんだ、いいな?」


指が頬から離れる。


解放された瞬間、肺へ空気を押し込み、必死に呼吸を整える。

だが胸のざわめきはまだ収まらなかった。


「…ええ、ありがとう、お兄様。私にはお兄様だけよ……」


(お願いだから、私が嫁いだら死んでくれ…)


フィリアは心とは裏腹に、ルーカスの機嫌を損ねないよう、必死に微笑んで見せた。

いつ豹変するかわからない人間を相手にするのは、本当に疲れる。


ルーカスは椅子に深く腰掛け、ワイングラスを指先で転がした。

その瞳には、今も氷のような鋭さが残っていた。

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