02 怖い兄
「アメリア、こっちへおいで」
ヴィクトルの指が椅子の背を優雅に叩く。
淡々とした声色だが、命令であることは明白だった。
(やっと気の重い朝食が終わったと思ったのに・・・)
アメリアは抵抗する素振りを見せず、静かに彼の隣へと歩み寄る。
ヴィクトルが傍にいればいるほど、逃げ道が塞がれるような錯覚に陥る。
「座りなさい」
従わなければ、どうなるか分かっていた。
アメリアは微笑みながら、ヴィクトルの隣の椅子に腰を下ろした。
「いい子だ」
その瞬間、ヴィクトルの手がアメリアの頬に触れた。氷のように冷たい指先が、彼女の頬をゆっくりと撫でる。
「お前の肌は、まるで雪のようだ。綺麗で、柔らかくて……」
「お兄様?」
アメリアは努めて自然な笑顔を保った。
だが、喉の奥が強張り、冷たい汗が背中を伝う。
「なあ、アメリア」
ヴィクトルの瞳が、まるで彼女の心の奥底を覗き込むかのように細められる。
「お前は俺だけを見ていればいいんだ。……そうだろう?」
「……もちろんですわ、お兄様」
咄嗟に口にした言葉に、自分自身で寒気が走る。
「いい子だ、アメリア」
ヴィクトルは満足したように笑い、アメリアの髪を手に取る。
その指が、まるで宝石を扱うように慎重に動く。
(あー気持ち悪い。なんだかまた息が苦しくなってきた)
アメリアは前世と同じ病を抱えていた。
ーーパニック障害だ。
精神的に追い詰められると制御できない息苦しさと、まるで海の底に沈められたかのような感覚に陥る。
前世のアメリアは、またバイトに行かなくてはいけないという不安と焦りとでこの症状が頻繁に起きていた。だが、治療を受ける余裕などあるわけもなく、治療費の代わりに少額の生命保険に入っていた。
母にも相談したことなどなかった。できなかった。
そのことがさらに自分自身を不安の中に追い込んだのだった。
幸い、発作が起きる感じが予期できていたため誰にもバレずに過ごしていたが、まさかこの世界に来てからもこんな症状に悩まされるとは思わなかった。
(本当に私っていつになったら穏やかに過ごせるのかな....)
「...アメリア?また胸が苦しいのか?」
「ええ、お兄様。ごめんなさい....少し休ませてもらってもいいかしら?」
「ああ、しっかり休みなさい。愛しいアメリア」
この世界では精神的な病など医学的に解明されていないため、家族は私の発作の症状は心臓が弱いためだと思っている。
私がまだこの世界に転生したばかりの頃、以前のアメリアにはこのような症状がなかったため、家族は私が仮病を使っていると思った。
実はその頃、小説にも出てきたアメリアの初めての婚約話があったのだが、小説ではアメリアが兄と離れたくないと駄々を捏ねて婚約が頓挫したと書かれていた。それはアメリアが自分に執着している兄に殴られることを恐れてのものだったのだが、婚約を断る際に父親にボコボコにされたそうだ。
(どのみちどちらかに殴られるなら、逃げられる可能性に賭けて婚約しよう!)そう思ったアメリアだったが、結局は小説と同じ展開になった。
なぜなら、兄にボコボコにされたからだ。そして、狭い部屋で殴られた恐怖が発作となって現れた。
兄は仮病だと思い、苦しむ私をさらに痛ぶった。
痛みと発作で私は気を失ってしまい、それでことなきを得たのだった。
(あの時発作が出なかったらもっと酷い目に遭ってたかもしれない。発作に感謝するなんて、あれが初めてだったのよね....)
結局そのことがきっかけで、療養が必要とみなされ婚約話はなくなった。
あれからまだ半年なのに、もう婚約の話をするなんてさすが冷酷な家族だ。
ヴィクトルも流石に今回は殴らないだろう。
確か、アメリアはシオンと婚約が決まった日にヴィクトルに殴られていたはずだけど、私は発作があるからきっと大丈夫。
ーー私は、そんなことを考えながらいつの間にか眠っていた。
目を覚ますと外は暗く、窓辺に誰かが立っていた。
「起きたか、アメリア」
「ヴィクトルお兄様....ごめんなさい、私随分長く眠っていたのね」
「いいんだ。お前と話したいことがあるからお前が起きるまで待っていたんだ」
(なんだろう、なんかこの感じまずい気がする.....)
「話ってなぁに?」
アメリアは予期不安に襲われながらも、愛らしく微笑み、恐る恐る聞いてみた。
「お前は結婚したいのか?本当のことを言ってくれ」
「もちろん、したくないわ!だってお兄様といたいもの。でも、お父様がせっかく見つけてくださった旦那様よ?前みたいに断ることも流石にできないじゃない?もちろん私はお兄様のそばにいたいのよ?」
「だったら尚更断るんだ、アメリア。お前は俺といるべきなんだ。お前を愛してやれるのは俺だけなんだから」
(うわ.....どうしよ......)
「でも私が言ってもきっとお父様は聞いてくださらないわ…..」
(もう殴られるの嫌なのよ....!!)
「そうか…..もういい。お前にはお仕置きが必要だな」
ーーヴィクトルがそう言った瞬間、頬に鈍い痛みが走った。
《パシーーーーーーン》
結局私はボコボコにされた。
1発目は左頬を平手打ちされ、そのあとは見えない場所を蹴られた。
いつもそうだ。見えない場所を集中的に攻めてくる。
過去に蹴られたあざも、殴られた拍子にぶつけてキレてしまった頭の傷も、いまだに消えずに残っている。
(なんだ、結局ボコボコか….こんな生活の中で前のアメリアは一体どんな気持ちでいたんだろう)
「すまない、アメリア......。こんなつもりじゃなかったんだ.....」
結局私は発作を起こし気を失うまで蹴られ続けた。
ヴィクトルは典型的なDV男だ。いつも殴ったあとは謝ってくる。本当に申し訳なさそうに。
(絶対にこんなとこから逃げてやる.......)
「アメリア.....本当にすまない」
ヴィクトルはアメリアの手を握って申し訳なさそうに言う。
「ヴィクトルお兄様、大丈夫です」
「アメリア、ランスロット公爵は冷酷な男だと有名だ。きっとお前も辛い思いをするだろう。すぐに俺がなんとかしてやるから、少しの間だけ我慢して待っていてくれ。いいな?」
「ええ、わかったわ。お兄様」
(お願いだから、私が嫁いだら死んで)
アメリアは心とは裏腹に、ビクトルの機嫌を損ねないよう、必死に微笑んで見せた。
いつ豹変するかわからない人間を相手にするのは、本当に疲れる。
アメリアは今後のことを考えながら再び眠りについた。