8.女の子になった話⑦
悪魔がかかった罠
一方、ミラーにとって、何もかもを打ち明けてしまった友人ポエラへの信頼は、日に日に増した。とくに見知らぬ町で暮らし、他に相談できる相手もない彼女にとって、何を話しても黙って聞いてくれる友人というだけで、頼もしい存在だった。
そしてこの日を境に、今までとはうって変わって、ミラーは夫の悪口をポエラにぶちまけるようになった。家事を手伝わないこと。そのくせたまに家に帰れば、文句ばかりつけること。自分だけではなく、近所の人にまで、高飛車な態度をとること……。
悪魔はその一つ一つを、大きくうなずきながら黙って拝聴した。
〈その点、悪魔様ならなあ、家事も一通りできるし、女神様に文句なんかとんでもないし、ご命令とあれば、人間にだってへりくだれるのになあ〉
〈今の悪魔様は無敵よ。なんたって、女神様の上品で美しい(笑)友人にして、良き理解者(自称)なんだからな〉
ミラーは夫の悪口を言ったあとには必ず、「ポエラが男の子だったらよかったのに!」という言葉で締めた。
〈やっぱりあのクソ王子から、女神様を無理やりにでも引き離して、「ポエラ」が幸せにしてあげるべきじゃないのか〉
ある時ミラーは、いつも通り愚痴を吐き出した後、自分の爪にこびりついた染料の汚れを、もう片方の手の爪で掻き出しつつ、つぶやいた。
「イドラったら、今日はもう、家に戻らないんですって。帰るのは、明日の朝だっていうのよ……ねえ、ポエラ、あなた今日うちに泊まっていかない?」
悪魔の顔は、提案の意味を理解するにつれて、だんだんと真っ赤になった後、今度はだんだんと真っ青になった。ミラーは、返事をしない友人の袖をつかんでゆすった。
「ねえ、いいでしょ、ポエラ。それとも私の家で夜を過ごせない理由でもあるの?」
――さすがに断らなきゃ!……でも……いやいやいや……早く断れ! 振り返っちゃだめだ! 彼女の顔を見てしまったら、断れなくなる!
「ねえ、ポエラ。どうしたよの、こっち向いてよ!」
ミラーは友人の頬を両手で挟んで、無理やり自分の方を向かせた。
「泊まっていくわよね?」
彼女と見つめ合ってしまった「ポエラ」は黙ってうなずいた。
〈おいおい、女神様よ。せっかくこいつは、自分の魂(糞)を去勢して、あんたの「良き理解者」という聖職についたっていうのに、煽るような提案をしてやるなよ〉
〈聖職(笑)。一体、こいつは、女神様にいくつの罪を重ねているんだよ〉
〈一つ、死を選択させるまで、彼女を追い詰めたこと〉
〈一つ、彼女の記憶を奪ったこと〉
〈一つ、彼女を嫌らしいキスで穢したこと〉
〈一つ、強姦魔のくせに、女性のふりをして再び彼女に近づいたこと〉
〈一つ、彼女の夫の浮気相手について、目星がついており、そいつを排除する力を持ちながら、その力を行使しないこと〉
〈一つ、そして最大にしてすべての元凶となっている大罪は、魂(糞)をもつ悪魔の分際で、女神様に恋をし、穢らわしい欲望を今この時も、これから先も、ずっと持ち続けること〉
〈「私の家で夜を過ごせない」理由だらけ〉
〈そんな悪魔が許されるかもしれない手段が一つだけある〉
〈自分の罪をすべて彼女に告解すればいい〉
〈だめだめ、そんなことしたら、ショックで薬の効果が無くなり、女神様がすべてを思い出してしまう……〉
〈大丈夫、大丈夫。女神様のこいつについての記憶は、すでに上品で美しい友人にして、良き理解者の「ポエラ」で完全に上書きされている。すべての罪を許し、受け入れてくれるに決まってるさ〉
その日、結局二人は、日が沈むまでおしゃべりをしたり、簡単な手芸をミラーが悪魔に教えたりして、平和に過ごした。よく笑うミラーに接するうちに、自分の女友達としての役割がすっかり楽しくなっていた悪魔は、このまま煩悩を刺激されることもなく一晩過ごせそうな目処が立って、ほっとしていた。
「ちょっと肌寒くなってきたわね。待ってて、ひざ掛けを取ってくるから」
悪魔は、彼女が席を立って寝室に消えるのを見送った。やがて彼女は、毛玉だらけの毛布を手に戻った。それを一目見たカイムは、彼女の様子が一変したことに気づいた。
二人はソファに並んで腰を下ろし、膝に毛布をかけた。ミラーは「ポエラ」に頭をもたれ、しばらくすると、向き直って友人の肩に顔をうめた。そして、静かな声で元王子の名を呼びながら、すすり泣きはじめた。やはり様子がおかしい。カイムは少し様子を見ることにして、目を閉じ、自分の肩が冷たくなっていくのを感じながら、彼女の嗚咽を聞いた。彼は、こんな甘いような切ないような声で呼んでもらえるのが自分の名でないことに、少し嫉妬した。
いつの間にか泣き声は聞こえなくなっていた。しばらく黙ったまま、姿勢を変えずに友人にすがりつくミラー。やがて彼女は、一言つぶやいた。
「……ポエラ……」
少女は、頬を上気させて、潤んだ瞳で友人を見上げた。思わず振り返った悪魔は、その瞳に見とれて動きが止まってしまった。それと同時に、彼女の様子がいよいよおかしいと思った。少女は、友人の胸に抱きついた。悪魔は思わず彼女を抱きかえしてしまった。少女は堰を切ったように、友人の名を何度もつぶやいた。彼女は悪魔にすがりついたまま、友人の体内に入ろうとするように、胸の中で頭をよじった。その感触のあまりの気持ちよさに悪魔は、気を失いかけた。
〈この強姦魔が!〉
「ポエラ……ポエラ……ポエラ……」
ほんの少しの力で壊れてしまいそうな彼女の全身を自分の腕の中で感じた悪魔は、恋い焦がれたものを一時的に所有したように思った。彼は、彼女が自分を呼ぶ声が、自分の身体の内側から聞こえてくるように錯覚した。
――もう、強姦魔でもなんでもいい! やっぱり、何を犠牲にしてでも、二度と彼女を離したくない! 元王子だろううとなんだろうと、誰にも渡したくない!
〈なら何をすべきか分かるよな〉
やがてミラーは、「頭が痛い」と言い出した。「ポエラ」は、彼女をソファに寝かせようとした。しかしこの家の住人は首を振って、寝室のドアを指さした。悪魔は、逆らうことはできず、彼女の腕を支えつつ、ドアノブに手をのばした。
冷たい金属に触れると、彼はなぜか嫌な予感がした。
「私って最低だわ……」
彼女は真意の分からないことをつぶやき、悪魔にすがりながら夫婦のベッドに横たわった。悪魔の背後でドアが閉まる音。彼は彼女と小さい寝室で二人きりになった。気づけば、この部屋は妙な匂いが充満している。
その瞬間、悪魔は枕元にとんでもないものを見つけた。小皿、そこに突き立てられた桃色の短い棒、その先端から昇る細い煙。お香である。それも色から察して、人間にのみ作用する、催陰効果のあるお香である。
――なんで、あんなものが……彼女の様子がおかしくなったのは、あれのせいだ……。
……これは……罠だ……。
「ポエラ……手をにぎっていてくれる……」
ミラーは動揺で目を泳がせている友人の手を引いて、ベッドの縁に座らせた。
「なんだか今日のあなたの手は、いつもより温かいわ……もっと近づいてちょうだい。あなたの顔をもっとよく見せて……」
ミラーは、「ポエラ」の首に腕を回して、無理やり自分に引き寄せた。悪魔は、思わず彼女の頭の横に手をついた。二人の顔は、お互いの息がかかるくらい近づいた。そこでミラーは、小さい笑い声をもらした。
「……ねえ……私が今何を思いついたか分かる?」
女神様の手が、悪魔の首から這うように動いて、その頬に触れた。
「……今ここで、あなたと私が結ばれたら、夫は嫉妬するだろうかって考えてたの……」
一瞬で悪魔の顔は真っ赤になった。一緒に笑ってもらえると思っていたミラーは、我に返って真顔になった。
「ごめんなさい……私、変なことを言ったわ……女の子を相手にこんなことを考えてしまうなんて……夫のことで悩みすぎて心がおかしくなってるんだわ……」
しかし、彼女はすぐに夢見るような表情に戻り、目を細めて、悪魔の赤く染まった頬に指を這わせた。
「でも、あなたもいけないの。あなたは今の私には、きれいで優しくて誠実すぎるのよ……あなたも叶わない恋で悩んでいるんでしょう……もしも私たちが、お互いを一番にできれば幸せになれるのにね……」
悪魔はもうだめだと思った。今すぐ立ち上がって、ここから走って逃げよう。しかし、あの強力なお香をたっぷり吸ってしまった彼女を、ここに残して去ってしまうのはどうか。
自分がいなくなったあと、一人になった彼女は、相手を探して夜の町へ出て、誰彼かまわず、適当な男と……。
――絶対にだめだ! じゃあどうするんだ。流されるままに、自分が彼女と寝るのか。馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! おまえは自分が何だか忘れたのか。彼女は私が悪魔だってことを忘れているんだぞ。正体を隠したままこれ以上、私が彼女に触れることは許されるはずがない!
〈だからといって、今のおまえが、催陰剤の効果が切れるまで、彼女に寄り添いつつ、手を出さずに我慢できるとは思えないね〉
〈おまえの罪を何もかも告白しろ。そしてすべての沙汰を女神様にゆだねなさい〉
悪魔は深呼吸して、あらためて女神様の顔を眺めた。いつの間にか見慣れた、最も気を許した人に向けられる表情がそこにある。もはや、この表情がちょっとやそっとの告白でゆらぐことはないんじゃないか、という考えが彼をよぎった。
どちらにしろ、今のこの状況で自分にできることはこれしかない。この胸の内に破裂寸前にまで膨らんでしまった罪のすべてを、吐き出そう。この告白は、千回に九百九十九回は、破滅に終わるだろうが、残り一回はすべてを受け入れてもらえる可能性があるんじゃないか……。
悪魔は自分の頬に触れる彼女の手を取って、布団の上に戻した。人妻は、友人の深刻そうな様子を見て、少し正気を取り戻した。
「ミラー……」
その時、彼らの背後で部屋の扉が勢いよく開いた。
「おい悪魔、そこまでだ」
振り返る暇もなかった。次の瞬間には、カイムは女神様から剥がされ、グラシア・ラボラスにくみ伏せられていた。
冷たい床に頬を押し付けられたまま上を見上げると、元王子がこちらを見下ろしていた。
「悪魔め、俺のいない間に、俺の妻を穢しやがって」
遠くでミラーが叫ぶ声がする。
「一体どうしたのよ、イドラ。私のお友達に何をするのよ」
「二度と俺の名を呼ぶな。夫のいない間に、悪魔と通じ合っている女とこれ以上同じ屋根の下で暮らすことはできない。ミラー、おまえとは離縁だ」
より一層の金切り声。
「どういうことよ、イドラ。私はあなた以外の男性を愛したことはないわ」
元王子は、目を細めて見下ろすように、自分の妻を睨んだ。
「ほんの今まで、悪魔と同じベッドにいたというのに、何を言っているんだ」
イドラが目配せすると、グラシオは「ポエラ」の顎を引き上げ、ミラーにその顔をよく見せた。そして、そのかつらに手をかけた。
「見ろ、これがおまえの友人『ポエラ』の正体だ」
かつらを取られた悪魔とその召喚者は、かたや床に這いつくばったまま、かたやベッドの上から、見つめ合った。部屋はしばらく沈黙した。
やがて低い声で「嘘よ……嘘よ……」というつぶやきがもれた。かと思うと突然、聞いたことのない動物の断末魔のような金切り声が、部屋にいる者の耳を割いた。
カイムは何か叫ぼうとしたが、グラシアにおもいきり頭を殴られ、気を失ってしまった。




