1.秘密⑥
りんごを共有する「イヴ」と「サタン」。ジュスティーヌの来訪。
「ねえ、これを見てよ」
ある日のお昼頃、私は立派な赤いリンゴを親友に差し出しました。
「今朝、女中が持ってきてくれたのよ。エドワールが私に送って寄越したんですって。お詫びのつもりかしら」
「どうするんだ」
「リンゴはリンゴだもの。あなたと一緒に食べるわ」
「じゃあ、私が切ろう」
私はあらかじめ用意しておいた、お皿とナイフを彼に渡しました。
親友は、リンゴを回しながら上手に皮を剥いていきます。私は、テーブルに頬杖をついてそれを眺めます。甘い蜜の香りが漂う中、二人の視線は、美しい果実に集中していました。私は破裂しそうに熟したリンゴが、彼の細い指が踊る中で、艶のある赤い衣を脱がされていくのを見ているうちに、妙な気分になってきました。そして、彼の太ももをつねった晩を思い出しました。
「ねえ、二人で内緒でリンゴを食べるって、まるで聖書のお話みたいじゃない」
「残念ながらこの場合、イヴと一緒にリンゴを食べるのは、アダムじゃなくって、蛇の方だがな。イヴをそそのかした蛇の正体は、サタンらしいじゃないか……」
「あら、素敵だわ。私がイヴだったら、絶対に蛇の方が好きになるもの。皆んなが信じている神様からは一歩引いていて、人を説得できるほど頭が良くて、私を誘惑できるほど魅力的なんて、最高じゃない。私は、リンゴをアダムにはあげないわ。それで、蛇と二人で駆け落ちするの。平和なだけの楽園なんて、惜しくないもの。一緒に、誰の目も届かない遠くまで逃げるの。きっと行き着く先は地獄ね。でも二人でいれば、地獄も楽園よ」
私の目の前に、芯をとって八等分されたリンゴの皿が差し出されました。私は、濡れて光るリンゴを一つとって立ち上がり、それをくわえました。そして椅子に座っている、私のサタンの肩を左手で掴み、右膝を彼の太ももの上に乗せました。そして、右手で彼のネクタイを触りつつ、目を閉じて顔を近づけ、自分がくわえているリンゴのもう片方の端を彼の唇に押しつけました。彼はびっくりしたようでしたが、右手でほっぺたを触ってあげると観念して、リンゴをくわえてくれました。そして、私の腰にそっと、腕を回しました。私たちは、しばらくそのままじっとして、お互いの息で温まった蜜の香りを共有しました。その後、お互いに少しずつ、リンゴを口の奥に押し込んでいきました。
そして、二人の上唇が触れるか触れないかのところで、ドアにノックの音。二人は同時に目を開けて、見つめ合いました。それからリンゴを噛み切って立ち上がり、二人で居た痕跡を隠しました。そして、悪魔が出て行ったところで、返事をすると、女中がドアを開けました。
「今からジュスティーヌがこの部屋に来るんですって……」
女中が出て行った後、戻ってきて窓枠を越えようとしている悪魔に声をかけました。
「ああ……」
彼はうわの空といった様子で、答えました。そして、出窓から降りようとして、久々に椅子を倒しました。
「ねえ、聞こえた?」
ぶつけた足が痛そうだったにも関わらず、気づきもしない様子で椅子を戻している彼の背中に声をかけました。
「申し訳ない……誰だって……」
「私のいとこでエドワールの婚約者のジュスティーヌよ……」
「……断ればいい」
「……実は彼女が婚約する前から、もう何度も断ってるの……いいかげん一度くらい会ってあげないと……」
「そうか……」
しばらく考えているうちに、ようやく彼は冷静さを取り戻したようでした。
「……でも本当は会いたくないんだろう……」
「……うん……」
「では、私は隠れておまえたちの話を聞いていることにする……ジュリエットを傷つけるような話題になったら、すぐに邪魔できるようにな」
間も無く、再びノックの音がしたので、親友は再び窓の外に姿を消しました。
「……久しぶりね。ジュリエット……」
ドアから顔を出したジュスティーヌは、ゆっくり部屋へ入りました。淡いピンクのボレロとお揃いのスカートを着て、相変わらず綺麗でまっすぐな金髪をした彼女は、辺りを少し見回した後、私の親友の椅子に腰を下ろしました。
「……婚約おめでとう……」
私は催促される前に、言うべきセリフを言いました。
「ありがとう。私の両親もすごく喜んでるの。エドワールってとっても素敵な人だと思わない……」
「……お似合いの二人だと思う……」
「……四年前にこの家に集まったとき、あなたと彼が二人で抜け出したことがあったじゃない。その時から、私、エドワールは、ジュリエットが好きなんだって思い込んでたの。私のお家よりも、あなたのお家の方がずっとお金持ちだから、エドワールのご両親もあなたとの婚約を望んでると思ってたし」
「……そう……」
「……あれは、まさか嫌がるエドワールを、あなたが無理矢理引き回していただけだったとはね……」
私は何か言おうとしましたが、誰のためにもならない気がして呑みこみました。
「私、神様に感謝しなくちゃ。私は世界で一番とは言わないけれど、とても幸せ者だわ……私ね……結婚したら、子供をたくさんつくるつもりよ。それで全員に将来どのような立場になるにせよ、人の役に立つ人間になりなさいって教えるの。その子たちがまた子供を作って、同じように教えて……そうやって、未来の社会に貢献することが結婚の意味なんだわ」
「……そう、あなたはえらい……」
「生産性の無い恋愛なんていやらしいだけよ」
私は下を向いて、爪をいじっていました。
「……そういえば……あなた、前に来た時よりもずいぶん肌の艶がいいように見えるわ。瞳も潤んでいるし、頬に赤みがさしていて、まるで恋でもしているみたい……」
いとこにまともに顔を覗き込まれ、頭の中まで見られるような気がしたので、私は目を逸らしました。
「少し体調がいいなら、あなたも人の役に立つことを考えてみたら。何かお裁縫をして、慈善団体に寄付するとか……たとえ自分が不幸な時でも、他人のために生きられる人って、みんなから評価されるのよ……」
私は下を向いたまま、恐る恐る反論しました。
「……みんなから評価されても、私の不幸はそのままじゃない……私、他の人間のことは、考えないことにしたの。もう、自分が楽しくなることしか、考えないことにしたのよ……」
いとこはため息をついて首を振りました。
「……あなたって、昔からそういうところがあるわ……あなたがエドワールと無理矢理二人きりで遊ぼうとした時だって、私本当はとても寂しかったのよ……彼がここへ婚約報告に来た時も、あなたが突然、癇癪を起こして、報告どころじゃなかったらしいじゃない……」
「……」
やはり本当のことは、言えません。
「……いつだったか、あなたが大事にしていたネックレスを、女の子たちみんなが羨ましがったことがあったでしょう……私が『みんなで交代に使うことにしたら』って言ったら、あなた突っぱねたじゃない……私の提案を受け入れていたら、あなたはみんなに感謝されていたと思うの……」
「……あれはお誕生日にもらった、宝物だから……」
「……自分の殻に閉じこもるのはよくないわ……生きている意味って、どれだけ多くの人に望まれたかってことなの。つまり、どれだけ多くの人に感謝されて、亡くなる時にたくさんのものを遺せたかってことよ……」
「……私は、みんなに望まれなくてもいい」
いつの間にか、立ち上がっていました。
「私は、たった一人に望まれればそれで十分。他の全ての人間が、私のことを忘れようが、失望しようが構わないのよ」
いとこは驚いて、顔を上げました。
「たった一人って誰……」